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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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58.クラリッサの決意

 その夜、マリアベルはクラリッサの元を訪ねた。


 クラリッサがどこからか、ルシアンが王宮に侵入して捕縛されたと耳にすれば、取り乱すのではないか。そう案じてのことだった。


「あら、珍しいお客様ね」


 マリアベルの姿に、クラリッサは眉を下げて微笑んだ。


「ご無沙汰しております、王妃様」


「いやね、王妃だなんて呼ばないでちょうだい。自分がそんな呼び名に値しないことくらい、よくわかっているわ。他でもない、あなたにならなおさらね」


「……ええ」


 マリアベルは小さく息を吸い、顔を上げた。


「ではクラリッサ様、本日、城で侵入者が捕縛されました」


「……知っているわ。ここからよく見えたもの」


 クラリッサは窓辺へ歩み寄ると、窓にはめ込まれた太い鉄柵に手を添え、マリアベルを振り返った。


「来たのでしょう? あの人が」


「……」


 マリアベルは言葉を詰まらせた。


「……ええ。ご存知でしたか」


「ずっと会いたかった人だもの。遠目からでもすぐにわかったわ」


 クラリッサは自嘲するように笑った。


「ノエルとよく似ていると思っていたけれど……ノエルの方がよっぽどいい男ね」


 そう言って笑うクラリッサの顔に、愛しい男が助けに来たことを喜ぶ様子はなかった。


「ええ。ノエル殿下は毎日のように騎士に混じって剣を振っておられます。近頃はますます精悍になられて……」


「そう。ノエルは健やかに過ごしているのね。……陛下は本当に寛大な方ね」


 クラリッサは目を伏せた。


「……馬鹿な女だと思うでしょう? そんな陛下を裏切って、男に入れ上げたあげく、国まで危険にさらして」


「……」


 マリアベルは何も答えなかった。クラリッサが答えを求めているようには、思えなかったからだ。


「――ここに留められて、政務や社交から切り離されて……昔のことを何度も思い返すようになったの」


 クラリッサは窓の外へと目を向けた。


「どうしてこんなことをしてしまったんだろう。どうして陛下と向き合わなかったんだろう。どうして……って」


「……答えは出たのですか?」


「いいえ」


 クラリッサは小さく首を振った。


「わかったのは、私が王妃の重圧から逃げていたことだけだったわ」


「逃げていた……?」


「ええ。彼の前では、私は『王妃』ではなく、ただの『クラリッサ』でいられたの。昔からずっと、彼の前だけでは、完璧でなくても許された」


「……」


 完璧を求められる息苦しさは、マリアベルにも痛いほどわかる。


 だが、マリアベルには薬師長がいた。家に帰れば、父も母も、家の者は誰もマリアベルに完璧を求めることはしなかった。


 けれど、クラリッサにとって、心から自分をさらけ出せる相手は、幼い頃からルシアンだけだったのだ。


 クラリッサは、窓の外に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。


「でもね、きっと陛下ときちんと向き合っていれば、陛下だって、『クラリッサ』を受け入れてくださったと思うの」


「ええ……私もそう思います」


 マリアベルは痛ましげに眉を寄せた。


 王は人の努力を正当に評価する方だ。厳しい方ではあるが、力を尽くした者が失敗したからといって、頭ごなしに叱責するような方ではない。


「だから、私はもう、逃げるわけにはいかないのよ」


 クラリッサは振り返ると、マリアベルを真っ直ぐに見据えた。


「たとえルシアンに、死を望まれていたとしてもね」


「――!」


 マリアベルは目を見開いた。


 ――この人は、ルシアンの目的を察していたのね……!


「私は、自らの罪を法廷ですべて明らかにするわ。それで彼を追い詰めることになったとしても……それが、私にできる最後の務めだから」


「ええ……ご立派です」


「あなたは、私のようにはならないでしょう。けれど、覚えておいてほしいの。感情に囚われると、人は正しい判断ができなくなることがあるのよ」


「……はい」


「そうして下した判断が、取り返しのつかない事態を招くこともあるわ」


「はい。心に留めておきます」


マリアベルは強く頷いた。


―― この方は、自分の罪ときちんと向き合われた。もう、ルシアンへの想いに惑わされることはないでしょう。



 ――



 その後、近衛の取り調べを受けたルシアンは、クラリッサの口封じを目的に城へ忍び込んだことを認めた。


 マリアベルに身元も目的も看破され、黙秘を貫く意味がなくなったのだろう。諦めたように、素直に聴取に応じたという。


 ただ、一つ、マリアベルが間違えていたことがあった。


 ルシアンは、クラリッサを自らの手で殺すつもりではなかったのだ。


「毒薬をクラリッサ様の手に渡しさえすれば、彼の方は自ら命を断つと思った」


「幽閉され裁きを待つ身に堕とされたクラリッサ様は、死を望んでいたはずだ」


 だが――


「ふざけるな! 王妃様は自らの罪から逃げるようなことはなさらない!」


 そう近衛に一喝されたルシアンは、薄く笑って言ったのだ。


「だとしても、私の命を守るためなら、クラリッサ様は受け入れてくださったさ」


「そのために、わざわざ私自ら、ここまで赴いたのだから」


 ルシアンは、クラリッサが死を望んでいなかった場合、自らへの情を利用するつもりだったのだ。



 ――



「とことん屑な男ね」


 近衛から報告を受けたマリアベルは、そう吐き捨てた。


「それで? あの男はヴァルネ王の差金で、ここに来たの?」


「いえ、奴の独断だったようです。自らの保身のために、部下を連れてこちらへ来たと」


「部下……。城の外に仲間は?」


「いないそうです」


「隠しているのではなく?」


「その可能性は低いかと。奴ら信号弾のようなものは、何一つ所持しておりませんでしたし、こちらの捜索にも怪しい者はかかっておりません」


「なるほど……」


 たとえ城の外に仲間がいたとしても、こちらの状況を知らせる術がなければ意味がない。


 それに奴らが捕縛されたにも関わらず、仲間が現れる気配もないのだ。


「なぜもっと人を集めなかったのかしら?」


「旅費の関係もあるようです。それに、レグナートへの侵攻を進めている最中に、多くの部下を伴って動くことは難しかったのでは?」


「ならば、ヴァルネ王に支援を求めることさえしなかったということ?」


 これまでの経緯を知るクラリッサの口を封じることは、ヴァルネ王にとっても都合がいいはずだ。王に支援を求めれば、ヴァルネ王は別働隊を編成し、確実にクラリッサを始末しようとしたのではないか。


「はい。支援を求めるつもりはあったようです。ただ、レグナート攻めが決まったあたりから、王と会うことさえできなくなったそうで」


「ふむ……」


 マリアベルは持っていた扇子で、トントンと自らの顎を叩いた。


「単にあの男が、ヴァルネ王から見限られただけ……? だけど王派は少しでも戦力が欲しいはず……」


 マリアベルがぶつぶつと考え込んでいると、部屋にノックの音が響いた。


「どうぞ」


「失礼いたします」


 入室してきたのは、王に仕える従僕の一人だった。


「先ほど、ヴァルネ太公より早馬が届き、ヴァルネ王都を奪還したとの報せが入りました」


「まあ! ではヴァルネの内乱は終結したのね!」


「はい……ですが……」


 吉報を伝えに来たはずの従僕は、なぜか顔を青ざめさせ、言いよどんでいる。


「どうしたの?」


「同時にネブラ山からも知らせが届き……」


 その言葉にマリアベルは顔をこわばらせた。


「まさか、押し負けたの!?」


「いえ! ネブラ山のヴァルネ軍は壊滅。レグナートへの侵攻の恐れはありません」


 マリアベルはほっと息をついた。だが、続く従僕の言葉に、顔からさっと血の気が引いた。



「――しかし、軍の一部が崖崩れに巻き込まれ……ギルバート殿下の行方がわからなくなっております……ッ!」



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