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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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56/67

56.侵入者

 同じ頃、レグナートの王城でも異変が起こっていた。


「北の門付近で火災が発生! 火はすでに鎮火しております!」


「それで?」


「火災による混乱に乗じ、北の塔へと通じる道を駆け抜けようとしていた不審者を捕縛しました!」


「数は?」


「三名です!」


「直ちに尋問を始めろ」


「はっ!」


 王の命を受け、伝令が執務室を飛び出していった。


 ――


 翌日――。


 マリアベルは王の執務室を訪ねた。


「なにかわかりましたか?」


「いや。奴ら、口を割らんそうだ」


 王は小さく首を振った。


「所持品にも、身元の手掛かりになるものはなかった」


「そうですか……」


 マリアベルは顎に手を当て、考え込んだ。


「その所持品を、見せていただけますか?」


「構わん」


 王は侍従へと視線を向ける。


「マリアベルを案内してやれ」


「承知いたしました」


 侍従は丁寧に頭を下げた。


 ――


「雑然としておりますが、ご容赦ください」


 侍従に案内されてやってきたのは、城の一角にある保管庫だった。


 扉を開けると、埃っぽい匂いがマリアベルの鼻をかすめた。


 室内には机や椅子、書類などが雑然と置かれていたが、奥にある机の上だけは違っていた。


 三つの木製の盆が間隔を空けて並べられ、それぞれに捕らえた者たちの所持品がまとめられている。


「こちらでございます」


「……随分少ないわね」


 木盆に目を落としたマリアベルは、思わず呟いた。


「はい。それゆえ、身元の確認に時間がかかっているようです」


 木盆に載せられていたのは、鉤爪のついたロープに短剣、油を染み込ませた布と点火具。どの盆も、載っている物は似たり寄ったりだった。


 ――鉤爪付きのロープで城壁を越え、火を放つ。荷物を見る限り、火つけは計画的だったと考えるのが妥当でしょうね。


 ふと、マリアベルの目が一つの盆で止まった。


 ほかの二つにはない、小さな瓶が載せられていた。


「この瓶の中身は?」


「毒です」


「毒?」


「ええ。宮廷薬師によれば、この小瓶一本で十分に人を死に至らしめる量だそうです」


「なぜ毒なんて……」


「さて。侵入者は『自害用の毒だ』と申していたそうですが」


「自害用……?」


 マリアベルは目を細めた。


 諜報や暗殺を生業とするプロの隠密は、いざというときに備え、自害用の毒を携帯すると聞く。


 だが――。


「その者は、これを飲もうとしたの?」


「いえ、そのような報告は受けておりませんが……」


「――薬師のところへ行くわ」


 マリアベルは保管庫をあとにした。


 ――


「これはこれは、王太子妃様。お呼びいただければ、こちらから参りましたものを」


 薬調合室でマリアベルを出迎えたのは、真っ白な髪を後ろで一つに束ね、穏やかな笑みを浮かべた宮廷薬師長だった。


「ふふ。急にごめんなさいね。じっとしていられない質なの。知っているでしょう?」


「ええ、ええ。よく存じていますとも」


 薬師長は、ほっほっほと笑いながら、マリアベルの前にお茶を置いた。


「ありがとう」


「それで、本日はどのようなお話でしょうか?」


「城に侵入しようとした賊が捕縛されたのは、知っているわね?」


「ええ、もちろん。回収された毒について、見解を求められましたからな」


「なら、ちょうどよかったわ。今日来たのは、その毒について聞きたいことがあったからなの」


 マリアベルは、お茶を一口飲んだ。


「その毒が、もし井戸に投げ入れられていたとしたら、どうなっていたかしら?」


「ふむ……」


 薬師長は顎に手を当て、しばし考え込んだ。


「おそらくですが……特に何も起こらなかったでしょうな」


「へ?」


 マリアベルは目を丸くした。


「でも、毒でしょう?」


「ええ。毒です。ですが、一人分の致死量を井戸に投げ入れたところで、水の量を考えれば、ほとんど影響はないでしょう」


「水で薄まる、ということ?」


「左様です。少なくとも、この小瓶一本では、井戸水全体を汚染することなどできませんな」


「……ではやはり、自害のためだったのかしら」


「うーん、どうでしょうなあ。割れやすい小瓶に入れて毒を持ち歩く密偵は、珍しいですがね」


 薬師長の言葉に、マリアベルははっと目を見開いた。


「そうよね。それに、自害用というのなら、取り押さえた三人のうち、一人しか毒を持っていなかったのも変だわ」


「ええ。他の二人が毒を飲んだ形跡もありませんからな」


 侵入者たちは、今も尋問を受けている。誰一人として命を落としてはいない。


 自害用の毒を持っていたというのなら、捕縛される前にそれを飲もうとしたはずだ。少なくとも、今も三人が生きているという事実は、マリアベルの疑念を深めるには十分だった。


「牢へ行くわ!」


「えっ!?」


 勢いよく立ち上がったマリアベルに、後ろに控えていた侍従が驚きの声を上げた。


「陛下にお伺いを立ててもらえるかしら?」


「し、しかし、王太子妃様が自ら赴かれるような場所ではございませんが……」


「構わないわ。どうしても違和感があるの。このままにはしておけないわ」


「……かしこまりました。少々お待ちください」


 侍従は眉を下げ、部屋を出て行った。


「変わりませんなあ、マリアベル様は。いつまで経ってもお転婆でいらっしゃる」


 侍従の後ろ姿を見送りながら、薬師長は楽しそうに笑った。


「ふふふ。結婚したからと言って、そう簡単には変わらないわよ」



 ――二人が出会ったのは、マリアベルがライオネルの婚約者として城に上がるようになった、十二歳の頃だった。


 お妃教育の一環として、マリアベルは薬師長から毒の知識や検知の方法、さらには万が一に備えた応急処置まで学んでいた。


 旺盛な好奇心から、毒草に手を伸ばしてみたり、剣術の授業で怪我をしたライオネルのために薬を作ろうと薬草を引っこ抜いたりと、マリアベルはたびたび薬師長を慌てさせた。


「マリアベル様、またですか……。殿下のために薬を調合なさるのは結構ですが、なぜご自身の指先まで、薬草の棘で傷だらけにしているのでしょうな」


「だって、採りたてのほうが効き目がいいんでしょう? 薬師長がそう言ったんじゃない」


「言いましたがね……まったく。王太子の婚約者が泥だらけで薬草園に乗り込んでくるなど、前代未聞ですよ」


 そう言いながらも、薬師長は慣れた手つきで軟膏を取り出し、マリアベルの小さな指先に丁寧に塗り込んでくれたものだ。


「いいですか、マリアベル様。誰かを守るための力も、自分自身が無事であってこそ役に立つのです。殿下をお支えになりたいのなら、まずはご自分の身を大切になさい」


 呆れ顔の中に見え隠れする、父親のような温かな眼差し。


 幼い頃から周囲に「完璧な未来の妃」であることを求められていたマリアベルにとって、薬師長のいる薬調合室だけは、失敗を許され、飾らない素の自分を見せられる唯一の隠れ家だった。



 ――そんなことをしみじみと思い返しながら、薬師長と思い出話に花を咲かせていると、王に伺いを立てに行っていた侍従が戻ってきた。


「陛下の許可が下りました。ご案内いたします」


「ええ。薬師長、ありがとう。また来るわね」


「無茶はしないでくださいよ。ご自分を大切に、ですからね」


「わかっているわ」


 マリアベルが微笑むと、薬師長は小さくため息をついた。


「そのお返事を、何度聞いたことやら」


「もう、薬師長ったら」


 くすりと笑い合い、マリアベルは薬調合室をあとにした。


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