53.出立
翌朝、静まり返った城の中庭には、冷たい朝靄が立ち込めていた。
馬に跨がったギルバートは、手綱を握り締めながら、見送りに立ったマリアベルを見下ろした。
「留守を頼む、マリアベル。無理だけはしないでくれ」
「それはこちらの台詞よ! 危険なことはしないで、レオポルド様の後ろにいるのよ!」
マリアベルが真剣な顔でそう言うと、ギルバートは可笑しそうに口元を緩めた。
「レオポルド殿の後ろに、か。確かに、それが一番安全そうだな。だが、彼について行くのが大仕事かもしれないぞ」
「……そうね。レオポルド様の後ろはやめましょう。後方の本陣にいるのがいいわ」
「はは!……では、行ってくる」
「ふふ。ご武運を」
軽口を交わし、微笑み合う二人。
だが、その穏やかな笑みの奥には、それぞれの胸に秘めた強い覚悟が宿っていた。
近衛兵を引き連れたギルバートの一隊が、重々しい城門をくぐり抜けて疾走していく。その姿が見えなくなるまで見送ったマリアベルは、深く息を吐き出すと、きりと表情を引き締めて城内へと引き返した。
――私も、私にできることをするまでよ。
マリアベルはそのまま王の執務室へと足を向けた。
昨夜、ギルバートが言い残した「城の防御も固めてください」という言葉が、どうしても胸に引っかかっていた。
敵の狙いがネブラ山にあるとは限らない。だが、城に残る兵は多くない。陛下も対応に頭を悩ませていることだろう。
――私にも、何かお手伝いできることがあるかもしれないわ。
マリアベルが執務室に入ると、そこには徹夜で書類と格闘していたと思しき王が、険しい顔で地図を睨みつけていた。
「マリアベルか。ギルバートを見送ってきたのだな」
「はい、陛下。……失礼ですが、城の守備兵の配置について、お悩みなのではありませんか?」
「ああ……ギルバートに頼まれたからな。だが、ネブラ山にはレオポルドとギルバートを向かわせ、ルーナの森と旧道にも兵を配置している。城に残っているのは、最低限の警備兵だけだ。これ以上、城の防衛に兵を割く余裕はなくてな」
「やはりそうでしたか。ですが、兵を増やす必要はありませんわ」
「なに?」
「もしネブラ山が陽動だったとしても、敵の規模から考えて、別働隊の数は多くないはずです。もし城へ向かうとしても、狙うのは正面の城門ではないでしょう」
「ああ」
「それに、東の門へ向かうにはネブラ山を、西の門へ向かうにはルーナの森か旧道を抜けなければなりません」
マリアベルは机上の地図を指差した。
「そうなれば、残るは、共和国を経由して辿り着ける……」
「北の門か」
「はい」
王の言葉に、マリアベルは小さく頷いた。
「それに北の門は……あの塔にほど近いですわ。防御を固めておく必要はあるかと」
王の眉がぴくりと動く。
「……クラリッサか」
北の門は、王妃クラリッサが幽閉されている、北の塔からもっとも近い門だ。
「はい。敵の狙いがそこにあるとは限りません。ですが、もし少数の兵で王城に攻め寄せてくるのだとすれば、クラリッサ様の奪還が目的だと考えれば、筋は通りますわ」
「なるほどな」
少数の兵で城を落とすのは現実的ではない。だが、クラリッサの奪還が目的だとすれば、警備の手薄な北の塔周辺は、少数の兵でも十分に脅威となり得る。
「ですから、兵を増やせなくとも、門の管理を厳重にし、北の塔へ続く通路に見張りを置くだけでも、時間稼ぎにはなりますわ」
「なるほど……兵が足りぬなら、守るべき場所を絞るか。敵の狙いまで考慮するとは、つくづくギルバートには過ぎた妻だな」
王はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「お戯れを。私はただ、あの人が安心して帰ってこられる場所を守りたいだけです」
「よい、すぐに手配しよう。……それと、マリアベル」
王は立ち上がると、彼女の肩をポンと叩いた。
「あまり根を詰めるなよ。あいつに『マリアベルを倒れさせた』などと知られたら、私が怒られてしまうからな」
「ふふ、気をつけますわ」
◇
その頃、ネブラ山の麓――。
「……なるほど。ギルバート殿下がこちらに向かっていると」
甲冑を軋ませながら、レオポルドは息を切らす伝令を見つめ、心底不思議そうに首をひねっていた。
「しかし、なぜ殿下が直々に……? 兵の再編が間に合わぬなら、このまま全軍で山を駆け上がり、敵の陣営を叩き潰せば済む話ではないか」
「「(できるか!!)」」
周囲にいた副官たちが、心の中で揃って激しいツッコミを入れた。
「まあよい。殿下が到着されるまでに、敵の配置と、松明による陽動の可能性を探るため、偵察を強めるとしよう」
ネブラ山の鬱蒼とした木々の奥を見つめながら、レオポルドは楽しげに微笑んだ。
一方――。
そんなレオポルドとは対照的に、現場の兵たちの顔には戸惑いが浮かんでいた。
「なんで王太子殿下が、最前線なんかに……」
「軍のことなどご存じなのか?」
「いや、あの方は文官出身だからな」
宰相府に身を置いていたギルバートは、軍の中では、どちらかといえば文官寄りの王太子だと思われていた。
王太子に就いてからも、大雪への対処や備蓄の確保などで文官の力を借りることが多かったため、そうした見方はますます強まっていた。
「無茶なことを言い出されたら困る」
「それに、お守りする負担も増えるだろうな」
「レオポルド様が止めてくださればいいが……」
「いやあ……レオポルド様だぞ」
「だな……」
兵たちは互いに顔を見合わせ、揃ってため息をついた。




