52.伝令の困惑
それから数日後――
夜半過ぎ、王のもとへ、息を切らした伝令が駆け込んできた。
「報告! ネブラ山の斥候より緊急報です! 険しい山道の随所に、ヴァルネ軍のものと思われる松明が連なっているのを確認いたしました!」
「ネブラ山か……」
王は低く呟いた。
「他の場所は?」
「は! 森や旧道、平原からは異変の報告はありません。さらにネブラ山の斥候によれば、松明の数はおよそ二千! 大部隊ではありませんが、士気はすこぶる高く、雄叫びを上げながら進軍しているとのことです」
「ネブラ山を一気に駆け下り、我が国へなだれ込むつもりか!」
王は深く息を吐き出すと、地図上のネブラ山を強く指で押さえた。
「攻めてくるのはネブラ山で確定だ! 直ちにルーナの森と旧道に配した部隊へ転進を命じよ。山麓の陣を最前線とし、下りてくるヴァルネ軍を完全に包囲・迎撃する!」
「お待ちください!」
勢いよく扉が開いた。
駆けつけたギルバートが、息を整える間もなく声を上げる。
「……ギルバート?」
「申し訳ありません、陛下。部隊を転進させるのは反対です」
ギルバートの一言に、指示を伝えようと動きかけていた伝令の足が止まる。
「……なぜだ?」
「大半の兵はネブラ山にいるのでしょう。しかし、伏兵がいないとも限りません」
「ぬ……。だが、ヴァルネ軍の勢いは凄まじい。寡兵で当たれば、防ぎきれぬかもしれぬぞ」
「ええ。しかし、それも妙です」
「妙?」
「松明を煌々と灯し、雄叫びを上げながら山を降りるなど、見つけてくれと言わんばかりではないですか?」
王の眉がぴくりと動く。
「……では、ネブラ山は陽動か」
「その可能性は捨て切れません」
「だが、実際ネブラ山には二千の兵がいるのだぞ」
「それは違いますわ」
静かな声が、部屋の入り口から響いた。
そこに立っていたのはマリアベルだった。
急いで駆けつけたのだろう。いつものように完璧に整えられた装いではないものの、髪はきちんとまとめられ、夜着ではなく簡素なドレスに着替えている。肩には薄手のショールを掛けていた。
「マリアベル?」
「申し訳ありません。急報を受けて、身支度を整えておりましたので……遅くなりました」
そう言って、マリアベルは一礼した。
「よい。夜も遅い。まずは座れ」
王はそう言って、傍らのソファを示した。
「――それで、何が違うのだ」
「斥候がネブラ山で見たのは、二千の松明であって、二千の兵ではありませんわ」
「……」
「一人が二本の松明を持っていれば、兵は千人ですわ。さらに荷台にいくつもの松明をくくりつけ、火を灯していたとしたら……どうでしょう?」
「……なるほど。松明を増やし、兵の数を多く見せている可能性がある、ということか」
ギルバートが眉を寄せた。
「ではやはり、ネブラ山は陽動か」
顎に手を当て、低く呟く王に、マリアベルは小さく首を振った。
「あくまで可能性ですわ。本当に二千の兵がいる可能性も、捨て切れません」
「……」
「だが敵は、見つけてくれと言わんばかりの行動をとっているぞ」
黙り込む王に代わって、ギルバートが問いかけた。
「ええ。確かに不自然ね。でも、王派には軍略に長けた者がいないのではなかったかしら。以前も冬を迎える前に、国境に兵を集めるなんて無謀を犯していましたわ」
「……確かに。であれば、軍略的に不自然だという理由で、罠だと決めつけるのは早計か……」
ギルバートはそう呟くと、黙り込んだ。
部屋に沈黙が流れる。
留められた伝令の顔に、困惑が浮かんだ。
「――結局、どちらなのだ」
王が声を上げた。
「わかりませんわ」
マリアベルは眉を下げると、机に広げられた地図に目を落とした。
「ここから二千の兵が攻めてくるのであれば、増援が必要でしょう。けれど、陽動の可能性がある以上、すべての兵力をネブラ山へ向けるのは危険ですわ」
「ならばルーナの森と旧道に配した部隊を分け、ネブラ山へ向かわせるか?」
「そうですわね……」
「いえ、今から部隊を再編していては、間に合いません」
黙り込んでいたギルバートが顔を上げた。
「私が、ネブラ山に向かいます」
「「はあ!?」」
「何を言い出すのだ、お前は!」
「そうよ! あなたは王太子なのよ! 最前線に行くなんて、ありえないわ!」
「承知の上です」
ギルバートは王を見つめ、それからマリアベルへとゆっくり視線を移した。
「敵が二千いるのか、陽動なのか。今の情報だけでは判断できません。こちらの兵を増やすこともできない。ならば、麓で待ち構えるのではなく、山中で迎え撃つべきです」
「お前が行かずとも、そう伝えればよい」
王は伝令に目を向けた。
「ネブラ山の指揮をとっているのはレオポルドだ。あれは軍略に明るい。山中で迎え撃つよう、命じればよい」
「確かにレオポルド殿に任せることもできますが……」
ギルバートは苦笑を浮かべた。
「彼に任せると、重い甲冑をつけたまま、兵が山道を駆け上がることになりかねませんよ」
「は?」
「敵が迎撃態勢を整える前に、敵の目の届かぬ場所から一気に距離を詰め、奇襲を仕掛ける。そうすれば、相手の連携を崩し、心理的にも追い詰められます。戦術としては有効です。ただ……」
「ただ?」
「レオポルド殿ならば、甲冑を着たまま山道を駆け上がった後でも、敵と戦えるでしょう。しかし、他の者は使い物にならなくなります。彼は優秀ですが、自分が人並み外れていることに気付いていない節がありますから……」
その言葉にマリアベルは、以前、大雪の中を凄まじい速度で帰還し、一人平然としていたレオポルドを思い出した。
「……それはとってもよくわかるけれど、だからといって、あなたが行かなくても……!」
「山の地形を直接見て、迎え撃つのに相応しい場所を見極める必要がある。例え相手が本当に二千いたとしても、こちらが有利に戦える場所をな」
「それでも危険よ!」
「大丈夫だ。戦闘はレオポルド殿に任せるさ」
ギルバートはマリアベルの頭に、優しく手を置いた。
「……本当に?」
「ああ」
「無事に帰ってくる?」
「もちろんだ」
眉を下げるマリアベルに、ギルバートは優しく微笑んだ。二人は静かに見つめ合い――。
「……んんっ!」
甘い空気にいたたまれなくなった王の、わざとらしい咳払いが響いたことで、二人は、はっと我に返った。
呆れた目をする王と、じっと床を見つめる伝令。
二人はさっと姿勢を正すと、マリアベルは顔を赤くして俯き、ギルバートは何事もなかったかのように王に向き直った。
「近衛を連れて、明朝、城を発ちます」
「わかった。頼んだぞ」
「はい」
ギルバートは席を立ち、マリアベルと共に部屋を辞そうとした。だが、扉へ向かう途中で足を止める。
「敵の目的がわかりません。森と旧道の監視と併せて、念のため、城の防御も固めてください」
そして、マリアベルにちらりと目を向けた。
「彼女の身が危険に晒されることだけはないよう、よろしくお願いします」
「ああ。こちらのことは任せろ。お前も必ず無事に戻れ」
「はい、ありがとうございます」
部屋を出て行く二人の姿を、王は目を細めて見送った。
――ふむ。急遽、王太子となったギルバートと、婚約期間もないまま結ばれたマリアベル。どうなることかと思ったが、うまくいっているようだな。
「ギルバートがネブラ山へ向かう旨、すぐに現地のレオポルドに伝えろ」
「は!」
王は、気配を殺して控えていた伝令にそう命じると、夜も更けるなか、再び執務机へと向き直った。




