45.お忍びデート
港が再開してから二日――。
マリアベルはギルバートと共に、シーフォート最大の市場を訪れていた。
人混みの熱気に少し圧倒されながら、マリアベルは普段の豪華なドレスとは違う、庶民的な綿のワンピースの裾をそっとつまむ。
色とりどりの露店が並び、あちこちから威勢のいい呼び声が飛び交っている。
港が閉ざされていた間には見られなかった活気が、そこには戻っていた。
「さあ、どこからご覧になりますか? お嬢様」
ギルバートはそう言うと、マリアベルの頭上のキャスケットに手を伸ばした。
耳元からこぼれていた一筋の赤い髪を、指先でそっと拾い上げ、帽子の中へしまい込む。
「もう、からかわないで」
頬を膨らませるマリアベルに、ギルバートはいたずらっぽい笑みを返した。
彼もまた、いつもの仕立ての良い上着ではなく、飾り気のない動きやすそうな上着を身につけている。目立つ金髪も、キャスケットの下に隠していた。
そう、今日はマリアベルがずっと楽しみにしていた、お忍びの日なのだ。
「でも……『商家のお嬢様と護衛』なんて設定、無理がないかしら?」
マリアベルはそう言って、ギルバートの頭の先からつま先まで、じろりと眺めた。
「心外だな。少なくとも、君が最初に提案していた『パン屋の夫婦』よりは、よっぽど現実的だろう」
ギルバートの脳裏に、昨日の騒動が蘇る。
――
お忍びに出掛けられると知ったマリアベルは、少し考えた末に、真顔でこう言ったのだ。
「パン屋になればバレないわ!」
――かつてライオネルが駆け落ちした際、その相手がパン屋の売り子を装った諜報員だったことを思えば、本人なりに根拠のある発想だったのだろう。
とはいえ。
「だからといって、なぜ俺たちまでパン屋の夫婦になるんだ……」
あまりにも堂々としたマリアベルの提案に、ギルバートだけでなく、その場にいた全員が絶句した。
それから『パン屋の夫婦の買い出し』という体で、お忍びに向かおうとするマリアベルを、皆が必死で止める羽目になったのだ。
「市場を知らない買い出しがいるか!」
「パンを買えばいいのでしょう?」
「なぜパン屋がパンを買うんだ……」
「王妃殿下のお手は白魚のように美しいですから、水仕事をしていないことはすぐにバレてしまいます!」
「パン屋で水仕事……?」
「ほら……もう諦めてくれ……」
そうしてなんとかマリアベルを説得し、『初めて市場に来た庶民を装うの商家の娘と、その護衛』という設定で、二人は市場へやってきたのだった。
――
「あなたが護衛という設定より、私がパン屋になるほうが怪しまれないと思うけれど」
「……まだ納得してなかったのか……」
ギルバートは思わず苦笑を漏らした。
「だって、護衛って……あなた剣なんて使えるの?」
眉を寄せるマリアベルに、ギルバートは呆れたように笑った。
「……君、俺が剣を使うところを見たことがなかったか?」
「ないわ」
「そうか……。まあ、基礎は習っているから安心しろ」
ギルバートは、なぜか得意げに笑った。
「……まあいいわ。ほら、あっちの屋台に果物の飴がけがあるわ! 行ってみましょう、ギル」
先ほどからずっと市場を気にしていたマリアベル。結局のところ、彼女にとっては、どんな設定であろうと、お忍びができればそれでいいのだ。
目を輝かせ、さっそく人混みへ向かっていくマリアベル。
その危なっかしい背中を、ギルバートは呆れたように見つめ――それでも、どこか愛おしそうな笑みを浮かべて追いかけた。
――
「おひとついただけるかしら」
マリアベルに声をかけられた飴屋の店主は、びくりと肩を震わせた。
それというのも、露店の店主にこんなにも丁寧な言葉遣いで声をかける客など、そうそういないからだ。
驚いて声をかけてきた人物に目を向けると、抜けるような白い肌に、透き通るような緑の瞳。
着ているものこそ質素だが、どう見ても庶民には見えない。
「へ、へい……。ど、どれになさいますですか?」
しどろもどろになりながら、なんとか返事をする。
「そうね……一種類ずつ、全部いただくわ!」
「へっ?」
「?」
驚く店主に、マリアベルは小首を傾げた。
「そのぉ……こんなにたくさん、どうやってお持ちになるんで……?」
「? 一つずつ包んでくれればいいわよ」
「包む……?」
店主は、困ったように周囲を見回した。
――ここは露店だ。
庶民が一つ、二つと買って、その場で食べるような店である。わざわざ持ち帰るために包むことなど、そもそも想定していない。
まして、全種類を一つずつ、などという買い方をする客は滅多にいない。
どうしたものかと、店主は後ろに佇む護衛らしき男へ、助けを求めるような視線を向けた。
「……マリ様。露店は、その場で食べ切れる分だけ買うものです」
ギルバートの言葉に、店主は大きく頷いた。
「あら……」
「それにあまり食べ過ぎると、他のものが入らなくなりますよ」
クスリと笑うギルバートに、マリアベルは一瞬むっとした顔を向けた。
だが、すぐに飴がけの並ぶ台へと視線を戻すと、迷うように指を彷徨わせる。
「では、こちらを一つ」
そう言って指したのは、いちごが三つ連なった飴がけだった。
「ありがとうございます。銅貨三枚です」
店主がほっとした様子で飴を差し出すと、マリアベルはそこでようやく支払いのことを思い出した。
「あ……」
慌ててギルバートを振り返る。
ギルバートはそんなマリアベルに苦笑を浮かべると、落ち着いた様子で懐から革の巾着を取り出し、店主に硬貨を渡した。
「……ありがとう。あ、ギルも好きなの食べてね」
「私は護衛ですから、お気遣いなく」
「……そう」
露店を後にした二人は、人通りの少ない場所まで来ると、足を止めた。
マリアベルの手には、きらきらと輝く飴がけが握られている。
「……」
マリアベルは、飴がけをじっと見つめたまま動かない。
「……食べないのか?」
ギルバートが、隣から覗き込むように声をかけた。
「え?」
「言っておくが、皿もカトラリーもないからな」
「……分かっているわ」
マリアベルは少しだけ眉を寄せた。
「……ねえ、やっぱりパン屋の夫婦にしない?」
「まだ言ってるのか」
「……だって、これじゃあ、あなたが何も食べられないわ」
マリアベルは手の中の飴がけを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「私は、あなたと一緒に市場を楽しみたかったのに……」
「マリアベル……」
ギルバートは、マリアベルの持つ飴がけに、ぱくりと齧りついた。
「あ! 何するのよ!」
「ここから俺たちは、商家の若夫婦だ」
そう言って、ギルバートはマリアベルの手を取った。
ぎゅっと、大きな手がマリアベルの手を包み込む。
「マリも早く食べろよ。じゃないと、残りも俺が食べてしまうぞ」
「……もう!」
マリアベルは赤くなった顔を隠すように俯き、初めての飴がけにそっと齧りついた。
ぱりりと飴が砕ける。
口の中に広がったのは、甘くて、それからほんの少し酸っぱい味だった。
そこから二人は、いくつもの露店を見て回った。
いつものようなエスコートではなく、今日はぎゅっと指を絡ませ合いながら歩く。その足取りは、どこか浮き立つように軽やかだった。
「あ! あのリボン可愛いわ!」
「まあ! 魚の種類が多いわ! さすが港町ね」
「あら、あれは肉屋ね。……寄らないわよ!」
くるくると変わるマリアベルの表情を、ギルバートは目元を緩めて眺めていた。
そのとき、ふわりと小麦の焼ける香ばしい匂いが、二人の鼻をくすぐった。
「ギル! パン屋があるわ! 行きましょう!」
「……ずっとパン屋の夫婦になると言っていたのは、君だったな」
「そうよ!」
マリアベルは嬉しそうに笑うと、繋いだ手をぐいっと引っ張った。
――
「いらっしゃい。おやおや、随分とお似合いの夫婦だね」
パン屋に入った二人に、店番をしていた恰幅のよい女性が声を掛けた。
「まあ、ありがとう」
「今日は全品三割引きだからね。たくさん買っていっておくれ」
「あら、ついてるわね。何かのお祝いかしら?」
「いいや。ここ数日で小麦の値段がえらく下がってね。仕入れが安く済んだ分、お客様にも還元してるのさ」
「ここ数日で?」
マリアベルは首を傾げた。
「ああ。急に安くなったもんだから、こっちも驚いてるんだよ。王太子殿下が、港を止めてくださったおかげかねえ」
女性は楽しそうに笑った。
マリアベルはギルバートにちらりと視線を送る。
「……そうかもしれないな。王太子殿下に感謝して、パンを買おうか」
「ええ、そうしましょう」
マリアベルはくすくすと笑いながら、パンのトレーを手に取った。
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