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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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45/63

45.お忍びデート

  港が再開してから二日――。


  マリアベルはギルバートと共に、シーフォート最大の市場を訪れていた。


  人混みの熱気に少し圧倒されながら、マリアベルは普段の豪華なドレスとは違う、庶民的な綿のワンピースの裾をそっとつまむ。


  色とりどりの露店が並び、あちこちから威勢のいい呼び声が飛び交っている。


  港が閉ざされていた間には見られなかった活気が、そこには戻っていた。


「さあ、どこからご覧になりますか? お嬢様」


  ギルバートはそう言うと、マリアベルの頭上のキャスケットに手を伸ばした。


  耳元からこぼれていた一筋の赤い髪を、指先でそっと拾い上げ、帽子の中へしまい込む。


「もう、からかわないで」


  頬を膨らませるマリアベルに、ギルバートはいたずらっぽい笑みを返した。


  彼もまた、いつもの仕立ての良い上着ではなく、飾り気のない動きやすそうな上着を身につけている。目立つ金髪も、キャスケットの下に隠していた。


  そう、今日はマリアベルがずっと楽しみにしていた、お忍びの日なのだ。


「でも……『商家のお嬢様と護衛』なんて設定、無理がないかしら?」


  マリアベルはそう言って、ギルバートの頭の先からつま先まで、じろりと眺めた。


「心外だな。少なくとも、君が最初に提案していた『パン屋の夫婦』よりは、よっぽど現実的だろう」


  ギルバートの脳裏に、昨日の騒動が蘇る。


  ――


  お忍びに出掛けられると知ったマリアベルは、少し考えた末に、真顔でこう言ったのだ。


「パン屋になればバレないわ!」


  ――かつてライオネルが駆け落ちした際、その相手がパン屋の売り子を装った諜報員だったことを思えば、本人なりに根拠のある発想だったのだろう。


  とはいえ。


「だからといって、なぜ俺たちまでパン屋の夫婦になるんだ……」


  あまりにも堂々としたマリアベルの提案に、ギルバートだけでなく、その場にいた全員が絶句した。


  それから『パン屋の夫婦の買い出し』という体で、お忍びに向かおうとするマリアベルを、皆が必死で止める羽目になったのだ。


「市場を知らない買い出しがいるか!」


「パンを買えばいいのでしょう?」


「なぜパン屋がパンを買うんだ……」


「王妃殿下のお手は白魚のように美しいですから、水仕事をしていないことはすぐにバレてしまいます!」


「パン屋で水仕事……?」


「ほら……もう諦めてくれ……」


  そうしてなんとかマリアベルを説得し、『初めて市場に来た庶民を装うの商家の娘と、その護衛』という設定で、二人は市場へやってきたのだった。


  ――


「あなたが護衛という設定より、私がパン屋になるほうが怪しまれないと思うけれど」


「……まだ納得してなかったのか……」


  ギルバートは思わず苦笑を漏らした。


「だって、護衛って……あなた剣なんて使えるの?」


  眉を寄せるマリアベルに、ギルバートは呆れたように笑った。


「……君、俺が剣を使うところを見たことがなかったか?」


「ないわ」


「そうか……。まあ、基礎は習っているから安心しろ」


  ギルバートは、なぜか得意げに笑った。


「……まあいいわ。ほら、あっちの屋台に果物の飴がけがあるわ! 行ってみましょう、ギル」


  先ほどからずっと市場を気にしていたマリアベル。結局のところ、彼女にとっては、どんな設定であろうと、お忍びができればそれでいいのだ。


  目を輝かせ、さっそく人混みへ向かっていくマリアベル。


  その危なっかしい背中を、ギルバートは呆れたように見つめ――それでも、どこか愛おしそうな笑みを浮かべて追いかけた。


  ――


「おひとついただけるかしら」


  マリアベルに声をかけられた飴屋の店主は、びくりと肩を震わせた。


  それというのも、露店の店主にこんなにも丁寧な言葉遣いで声をかける客など、そうそういないからだ。


  驚いて声をかけてきた人物に目を向けると、抜けるような白い肌に、透き通るような緑の瞳。


  着ているものこそ質素だが、どう見ても庶民には見えない。


「へ、へい……。ど、どれになさいますですか?」


  しどろもどろになりながら、なんとか返事をする。


「そうね……一種類ずつ、全部いただくわ!」


「へっ?」


「?」


  驚く店主に、マリアベルは小首を傾げた。


「そのぉ……こんなにたくさん、どうやってお持ちになるんで……?」


「? 一つずつ包んでくれればいいわよ」


「包む……?」


  店主は、困ったように周囲を見回した。


  ――ここは露店だ。


  庶民が一つ、二つと買って、その場で食べるような店である。わざわざ持ち帰るために包むことなど、そもそも想定していない。


  まして、全種類を一つずつ、などという買い方をする客は滅多にいない。


  どうしたものかと、店主は後ろに佇む護衛らしき男へ、助けを求めるような視線を向けた。


「……マリ様。露店は、その場で食べ切れる分だけ買うものです」


  ギルバートの言葉に、店主は大きく頷いた。


「あら……」


「それにあまり食べ過ぎると、他のものが入らなくなりますよ」


  クスリと笑うギルバートに、マリアベルは一瞬むっとした顔を向けた。


  だが、すぐに飴がけの並ぶ台へと視線を戻すと、迷うように指を彷徨わせる。


「では、こちらを一つ」


  そう言って指したのは、いちごが三つ連なった飴がけだった。


「ありがとうございます。銅貨三枚です」


  店主がほっとした様子で飴を差し出すと、マリアベルはそこでようやく支払いのことを思い出した。


「あ……」


  慌ててギルバートを振り返る。


  ギルバートはそんなマリアベルに苦笑を浮かべると、落ち着いた様子で懐から革の巾着を取り出し、店主に硬貨を渡した。


「……ありがとう。あ、ギルも好きなの食べてね」


「私は護衛ですから、お気遣いなく」


「……そう」


  露店を後にした二人は、人通りの少ない場所まで来ると、足を止めた。


  マリアベルの手には、きらきらと輝く飴がけが握られている。


「……」


  マリアベルは、飴がけをじっと見つめたまま動かない。


「……食べないのか?」


  ギルバートが、隣から覗き込むように声をかけた。


「え?」


「言っておくが、皿もカトラリーもないからな」


「……分かっているわ」


  マリアベルは少しだけ眉を寄せた。


「……ねえ、やっぱりパン屋の夫婦にしない?」


「まだ言ってるのか」


「……だって、これじゃあ、あなたが何も食べられないわ」


  マリアベルは手の中の飴がけを見つめたまま、ぽつりと呟く。


「私は、あなたと一緒に市場を楽しみたかったのに……」


「マリアベル……」


  ギルバートは、マリアベルの持つ飴がけに、ぱくりと齧りついた。


「あ! 何するのよ!」


「ここから俺たちは、商家の若夫婦だ」


  そう言って、ギルバートはマリアベルの手を取った。


  ぎゅっと、大きな手がマリアベルの手を包み込む。


「マリも早く食べろよ。じゃないと、残りも俺が食べてしまうぞ」


「……もう!」


  マリアベルは赤くなった顔を隠すように俯き、初めての飴がけにそっと齧りついた。


  ぱりりと飴が砕ける。


  口の中に広がったのは、甘くて、それからほんの少し酸っぱい味だった。



  そこから二人は、いくつもの露店を見て回った。


  いつものようなエスコートではなく、今日はぎゅっと指を絡ませ合いながら歩く。その足取りは、どこか浮き立つように軽やかだった。


「あ! あのリボン可愛いわ!」


「まあ! 魚の種類が多いわ! さすが港町ね」


「あら、あれは肉屋ね。……寄らないわよ!」


  くるくると変わるマリアベルの表情を、ギルバートは目元を緩めて眺めていた。


  そのとき、ふわりと小麦の焼ける香ばしい匂いが、二人の鼻をくすぐった。


「ギル! パン屋があるわ! 行きましょう!」


「……ずっとパン屋の夫婦になると言っていたのは、君だったな」


「そうよ!」


  マリアベルは嬉しそうに笑うと、繋いだ手をぐいっと引っ張った。


  ――


「いらっしゃい。おやおや、随分とお似合いの夫婦だね」


  パン屋に入った二人に、店番をしていた恰幅のよい女性が声を掛けた。


「まあ、ありがとう」


「今日は全品三割引きだからね。たくさん買っていっておくれ」


「あら、ついてるわね。何かのお祝いかしら?」


「いいや。ここ数日で小麦の値段がえらく下がってね。仕入れが安く済んだ分、お客様にも還元してるのさ」


「ここ数日で?」


  マリアベルは首を傾げた。


「ああ。急に安くなったもんだから、こっちも驚いてるんだよ。王太子殿下が、港を止めてくださったおかげかねえ」


  女性は楽しそうに笑った。


  マリアベルはギルバートにちらりと視線を送る。


「……そうかもしれないな。王太子殿下に感謝して、パンを買おうか」


「ええ、そうしましょう」


  マリアベルはくすくすと笑いながら、パンのトレーを手に取った。


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