42.勝ったのは
そして四日目の朝――。
バルトロは、青ざめた顔で、もはやなりふり構わずギルバートの執務室へ這い入った。
「王太子殿下! お許しください! あの仕掛けは私ども愚かなギルド員の浅知恵でございます! どうか、どうか監査を終わらせてください! このままではギルドが破産します!」
頭を床に擦り付けんばかりのバルトロを見下ろし、ギルバートは優雅に紅茶を一口すすると、心底不思議そうに首を傾げた。
「おや、会頭殿。何か勘違いをしていないか?」
ギルバートは穏やかな、しかし凍りつくような笑みを浮かべた。
「あれは私たちへの祝いのための仕掛けだろう? だからこそ、何の咎めもしていない」
「は、はい……」
「ならば、今回の監査を仕返しのように考える必要はないだろう」
ギルバートは、何食わぬ顔で紅茶を口に運んだ。
「港の安全を確認しているだけなのだから」
「……」
「数日で数億の損害が出るほど重要な港なのだろう? ならば、その安全が確かなものだと証明してもらわねば困る」
ギルバートは、にこやかに微笑む。
「何しろ、国の交易を支える大切な港なのだからな」
「そうです! だからこそ、これ以上港を止めておくわけにはいかないのです!」
バルトロは、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「このまま貿易品が届かなければ、王都の商人や民にも影響が出ます。王家とて、それを望まれているわけではないでしょう?」
「そうだな」
「では……!」
「だからこそ、四日も経ってなお安全を証明できない港は問題だと考えている」
「へっ……?」
ギルバートは、傍らに置いていた紙の束から一枚を抜き取った。
「まず、これを見てほしい」
「こ……これは……」
「ああ。この港のすぐ隣――東の浜の地図だ」
ギルバートは、今度は紙の束から別の一枚を抜き取った。
「そして、こちらが新港の建設設計図だ」
「――なっ……」
ギルバートは、何食わぬ顔で設計図を指先でなぞった。
「東の浜は、波が穏やかで水深も深い。港を造るには格好の立地だ。――なぜ今まで誰も港を造らなかったのか、不思議なほどにな」
バルトロの手が、カタカタと激しく震え出した。
――確かに、東の浜は港を造るには格好の立地だ。
だからこそ、バルトロは恐れていた。
あそこに港ができれば、シーフォートの利権は大きく揺らぐ。港湾ギルドを通さずとも交易が成り立つようになれば、ギルドの存在価値そのものが失われかねない。
そのために、これまで何度も持ち上がった開発計画を、バルトロは裏から手を回して握り潰してきた。
「ま、まさか……」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「王家は……東の浜を……?」
「何か問題でもあるのか?」
ギルバートが不思議そうに首を傾げた。
「国の交易を支えるという意味では、悪い話ではないだろう?」
「……っ」
バルトロは答えられなかった。
「先ほど、港からの物流が止まることを心配していたではないか」
ギルバートは、にこやかに微笑んだ。
「ならば、これで解決だ」
「そ、そんな……」
バルトロは、震える手で設計図を握りしめた。
「ま、待ってください! あんな場所に港を造られれば、我がギルドの経営は大打撃を……!」
「何か問題でも?」
ギルバートの淡々とした声に、バルトロの顔から血の気が引いていく。
「君たちのギルドが滞りなく港を動かせないというなら、王家として別の流通拠点を確保するのは当然の危機管理だ」
ギルバートは、穏やかな笑みを浮かべた。
「幸い、新港が完成すれば、古く不都合の多い港に頼る必要もなくなる」
「……っ」
「今回の監査で、どんな問題が起きようとも――国の交易そのものが止まるわけではないということだ」
「殿下……! それだけは、それだけはご容赦を……!」
バルトロは、力なく床へ崩れ落ちた。
自分たちが仕掛けた「祝いの煙」。
ほんの少し、王太子夫妻を脅かしてやるだけのつもりだった。
港湾ギルドの力を見せつけ、王太子が即位した後も、これまで通り港の利権を守り続けるための牽制だった。
それが今や――港湾ギルドそのものの存続を揺るがす事態へと変わっている。
「さて、会頭」
ギルバートは、床に這いつくばるバルトロを見下ろした。
「新しい港ができるまでの間、君のギルドがどう身を立てるか……じっくり考えるといい」
――やれやれ。ハッタリを通すのも楽じゃないな。
ギルバートは、そんな内心をおくびにも出さず、意地の悪い笑みを浮かべた。
実際問題、王家の財政とて無限ではない。
一から隣の浜に巨大な新港を造るなど、膨大な予算と年月がかかる。それほどの費用をかければ、かえって無用な利権争いを生み、国勢を乱しかねない。
床に伏したまま絶望に打ちひしがれるバルトロを見下ろし、ギルバートはゆっくりと口を開く。
「……だが、私も鬼ではない」
「……!」
バルトロが、縋るように顔を上げる。
「もし、君たちが真に改心し、王家に『しかるべき誠意』を示せるというのなら――」
ギルバートは、そこで言葉を切った。
「新港の計画を一時凍結し、現在の港の監査を速やかに終わらせてやってもいい」
「ほ、本当ですか……!」
「ああ」
ギルバートは静かに頷いた。
「ありがとうございます! 誠意とは、金でしょうか、あるいは船か、珍品か……! 何でも差し出します!」
食い気味に叫ぶバルトロに、ギルバートは心の中でほくそ笑んだ。
「では――」
ギルバートの声から、再び温度が消える。
「第一に、これまでギルドが独占していた『関税の自律調整権』と『最優先の港湾使用権』、この権利をすべて王家へ移管してもらおう」
「……え?」
「第二に、ギルドの帳簿をすべて公開し、毎年王家から派遣する財務官の厳密な監査を受け入れてもらう」
「……そんな……」
「第三に、港湾施設の使用について、ギルドによる恣意的な拒否や優先順位の設定を禁止する。王家が定めた基準に従い、公平に扱うこと」
「そ、それでは……」
バルトロの声が震えた。
「これまでのように、ギルドの判断だけで港の利用を決めることができなくなる……」
「そういうことだ」
ギルバートは、あっさりと頷いた。
「君たちは『この港を動かしているのは自分たちだ』と言っていたそうだな」
「……!」
「だが、ここは王家直轄領の港だ。本来あるべき形に戻すだけだ」
バルトロは、言葉を失った。
――本来あるべき形。
その言葉が、胸に重くのしかかった。
これまで自分たちが握りしめてきた権限を、すべて王家へ返せと言っているのだ。
「もちろん、嫌なら断っても構わない」
ギルバートは、穏やかに微笑んだ。
「その場合は――新港の計画を進めるだけだ」
選択肢のない二択だった。
断れば破滅。
受け入れれば、支配権こそ失うが、ギルド自体は存続し、商売を続ける余地は残る。
バルトロは、血が出るほど強く唇を噛み締めた。
やがて――
「……つ、謹んで……殿下のご命令に従います……。これまでの権限はすべて、王家にお返しいたします……」
絞り出すように呟くと、力なく床に額をつけた。
「賢明な判断だ。では、今すぐ誓約書を作成させよう」
ギルバートは満足げに頷き、背後の側近へ合図を送った。
「……え?」
バルトロが、ゆっくりと顔を上げる。
「今、ですか……?」
「ああ。まさか、後になって気が変わることはあるまい?」
ギルバートは、冷ややかな目を向けた。
「それとも――何か問題でも?」
「い、いえ……」
「ああ、そうだ」
ギルバートは、何かを思い出したように声を上げた。
「君は今まで、随分と私腹を肥やしていたようだな」
「は……?」
バルトロの顔が引きつる。
「今回、ギルドだけでは補填しきれない損害が出た場合――君の私財から補填するように」
「えっ……」
「そうしなければ、君の大切なギルドが潰れてしまうぞ?」
ギルバートは、穏やかな笑みを浮かべた。
「それとも――証拠が必要か?」
傍らに置かれた紙の束へ、ギルバートが意味ありげに指先を添える。
それだけで、バルトロの顔から再び血の気が引いた。
「い、いえ! 結構です。そのようにいたします」
その後、用意された誓約書に震える手で署名したバルトロは、一度も振り返ることなく、逃げるように執務室から出ていった。




