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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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42/63

42.勝ったのは

そして四日目の朝――。


バルトロは、青ざめた顔で、もはやなりふり構わずギルバートの執務室へ這い入った。


「王太子殿下! お許しください! あの仕掛けは私ども愚かなギルド員の浅知恵でございます! どうか、どうか監査を終わらせてください! このままではギルドが破産します!」


頭を床に擦り付けんばかりのバルトロを見下ろし、ギルバートは優雅に紅茶を一口すすると、心底不思議そうに首を傾げた。


「おや、会頭殿。何か勘違いをしていないか?」


ギルバートは穏やかな、しかし凍りつくような笑みを浮かべた。


「あれは私たちへの祝いのための仕掛けだろう? だからこそ、何の咎めもしていない」


「は、はい……」


「ならば、今回の監査を仕返しのように考える必要はないだろう」


ギルバートは、何食わぬ顔で紅茶を口に運んだ。


「港の安全を確認しているだけなのだから」


「……」


「数日で数億の損害が出るほど重要な港なのだろう? ならば、その安全が確かなものだと証明してもらわねば困る」


ギルバートは、にこやかに微笑む。


「何しろ、国の交易を支える大切な港なのだからな」


「そうです! だからこそ、これ以上港を止めておくわけにはいかないのです!」


バルトロは、ここぞとばかりに身を乗り出した。


「このまま貿易品が届かなければ、王都の商人や民にも影響が出ます。王家とて、それを望まれているわけではないでしょう?」


「そうだな」


「では……!」


「だからこそ、四日も経ってなお安全を証明できない港は問題だと考えている」


「へっ……?」


ギルバートは、傍らに置いていた紙の束から一枚を抜き取った。


「まず、これを見てほしい」


「こ……これは……」


「ああ。この港のすぐ隣――東の浜の地図だ」


ギルバートは、今度は紙の束から別の一枚を抜き取った。


「そして、こちらが新港の建設設計図だ」


「――なっ……」


ギルバートは、何食わぬ顔で設計図を指先でなぞった。


「東の浜は、波が穏やかで水深も深い。港を造るには格好の立地だ。――なぜ今まで誰も港を造らなかったのか、不思議なほどにな」


バルトロの手が、カタカタと激しく震え出した。


――確かに、東の浜は港を造るには格好の立地だ。


だからこそ、バルトロは恐れていた。


あそこに港ができれば、シーフォートの利権は大きく揺らぐ。港湾ギルドを通さずとも交易が成り立つようになれば、ギルドの存在価値そのものが失われかねない。


そのために、これまで何度も持ち上がった開発計画を、バルトロは裏から手を回して握り潰してきた。


「ま、まさか……」


喉の奥から、かすれた声が漏れる。


「王家は……東の浜を……?」


「何か問題でもあるのか?」


ギルバートが不思議そうに首を傾げた。


「国の交易を支えるという意味では、悪い話ではないだろう?」


「……っ」


バルトロは答えられなかった。


「先ほど、港からの物流が止まることを心配していたではないか」


ギルバートは、にこやかに微笑んだ。


「ならば、これで解決だ」


「そ、そんな……」


バルトロは、震える手で設計図を握りしめた。


「ま、待ってください! あんな場所に港を造られれば、我がギルドの経営は大打撃を……!」


「何か問題でも?」


ギルバートの淡々とした声に、バルトロの顔から血の気が引いていく。


「君たちのギルドが滞りなく港を動かせないというなら、王家として別の流通拠点を確保するのは当然の危機管理だ」


ギルバートは、穏やかな笑みを浮かべた。


「幸い、新港が完成すれば、古く不都合の多い港に頼る必要もなくなる」


「……っ」


「今回の監査で、どんな問題が起きようとも――国の交易そのものが止まるわけではないということだ」


「殿下……! それだけは、それだけはご容赦を……!」


バルトロは、力なく床へ崩れ落ちた。


自分たちが仕掛けた「祝いの煙」。


ほんの少し、王太子夫妻を脅かしてやるだけのつもりだった。


港湾ギルドの力を見せつけ、王太子が即位した後も、これまで通り港の利権を守り続けるための牽制だった。


それが今や――港湾ギルドそのものの存続を揺るがす事態へと変わっている。


「さて、会頭」


ギルバートは、床に這いつくばるバルトロを見下ろした。


「新しい港ができるまでの間、君のギルドがどう身を立てるか……じっくり考えるといい」


――やれやれ。ハッタリを通すのも楽じゃないな。


ギルバートは、そんな内心をおくびにも出さず、意地の悪い笑みを浮かべた。


実際問題、王家の財政とて無限ではない。

一から隣の浜に巨大な新港を造るなど、膨大な予算と年月がかかる。それほどの費用をかければ、かえって無用な利権争いを生み、国勢を乱しかねない。


床に伏したまま絶望に打ちひしがれるバルトロを見下ろし、ギルバートはゆっくりと口を開く。


「……だが、私も鬼ではない」


「……!」


バルトロが、縋るように顔を上げる。


「もし、君たちが真に改心し、王家に『しかるべき誠意』を示せるというのなら――」


ギルバートは、そこで言葉を切った。


「新港の計画を一時凍結し、現在の港の監査を速やかに終わらせてやってもいい」


「ほ、本当ですか……!」


「ああ」


ギルバートは静かに頷いた。


「ありがとうございます! 誠意とは、金でしょうか、あるいは船か、珍品か……! 何でも差し出します!」


食い気味に叫ぶバルトロに、ギルバートは心の中でほくそ笑んだ。


「では――」


ギルバートの声から、再び温度が消える。


「第一に、これまでギルドが独占していた『関税の自律調整権』と『最優先の港湾使用権』、この権利をすべて王家へ移管してもらおう」


「……え?」


「第二に、ギルドの帳簿をすべて公開し、毎年王家から派遣する財務官の厳密な監査を受け入れてもらう」


「……そんな……」


「第三に、港湾施設の使用について、ギルドによる恣意的な拒否や優先順位の設定を禁止する。王家が定めた基準に従い、公平に扱うこと」


「そ、それでは……」


バルトロの声が震えた。


「これまでのように、ギルドの判断だけで港の利用を決めることができなくなる……」


「そういうことだ」


ギルバートは、あっさりと頷いた。


「君たちは『この港を動かしているのは自分たちだ』と言っていたそうだな」


「……!」


「だが、ここは王家直轄領の港だ。本来あるべき形に戻すだけだ」


バルトロは、言葉を失った。


――本来あるべき形。


その言葉が、胸に重くのしかかった。


これまで自分たちが握りしめてきた権限を、すべて王家へ返せと言っているのだ。


「もちろん、嫌なら断っても構わない」


ギルバートは、穏やかに微笑んだ。


「その場合は――新港の計画を進めるだけだ」


選択肢のない二択だった。


断れば破滅。

受け入れれば、支配権こそ失うが、ギルド自体は存続し、商売を続ける余地は残る。


バルトロは、血が出るほど強く唇を噛み締めた。


やがて――


「……つ、謹んで……殿下のご命令に従います……。これまでの権限はすべて、王家にお返しいたします……」


絞り出すように呟くと、力なく床に額をつけた。


「賢明な判断だ。では、今すぐ誓約書を作成させよう」


ギルバートは満足げに頷き、背後の側近へ合図を送った。


「……え?」


バルトロが、ゆっくりと顔を上げる。


「今、ですか……?」


「ああ。まさか、後になって気が変わることはあるまい?」


ギルバートは、冷ややかな目を向けた。


「それとも――何か問題でも?」


「い、いえ……」


「ああ、そうだ」


ギルバートは、何かを思い出したように声を上げた。


「君は今まで、随分と私腹を肥やしていたようだな」


「は……?」


バルトロの顔が引きつる。


「今回、ギルドだけでは補填しきれない損害が出た場合――君の私財から補填するように」


「えっ……」


「そうしなければ、君の大切なギルドが潰れてしまうぞ?」


ギルバートは、穏やかな笑みを浮かべた。


「それとも――証拠が必要か?」


傍らに置かれた紙の束へ、ギルバートが意味ありげに指先を添える。


それだけで、バルトロの顔から再び血の気が引いた。


「い、いえ! 結構です。そのようにいたします」


その後、用意された誓約書に震える手で署名したバルトロは、一度も振り返ることなく、逃げるように執務室から出ていった。


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