40.海の富をむさぶる男
港が近衛騎士たちによって完全封鎖され、悲鳴と怒号に包まれていたその頃。
港湾ギルド会頭のバルトロは、港を一望する大邸宅の最上階で、まだ深々とした眠りの中にいた。
彼の寝室は、まさに「海の富」をむさぼり尽くした男の欲望そのものだった。
朝日の差し込む窓辺には、外国の商人から脅し取った巨大な黒真珠が怪しい光を放ち、足元にはとある国の山奥にしか生息しないという、貴重な獣の毛皮が敷き詰められていた。
そして、その中央に置かれた特注の天蓋付きベッドを丸ごと占領し、大いびきをかきながら、たっぷりと肥えた身体を揺らすバルトロ。
枕元のナイトテーブルには、昨夜飲み干した王室御用達の年代物のワイン瓶が、無造作に転がっていた。
――『惜しかったな! あのまま、あいつの首でも刎ねてくれりゃあ良かったのに。そうすりゃ邪魔者は消え、王家には「王太子夫妻の無知で大切なギルドの副会頭を殺された!」と訴えて、さらなる利権を要求できたというのに』
『それでも、この港の真の支配者が誰か、奴らも身に染みたでしょう』
『ええ。我ら港湾ギルドを敵に回してはならないと、理解したはずです』
『そうだな。明日からどんな顔で港町の視察をするのか、見ものだな! ガハハハ!』――
夕べ、港湾ギルドの幹部たちと酌み交わした祝い酒の酔いが、まだ心地よく残っていた。
「……んぅ……おい、朝の仕込みの鐘がうるせえぞ……」
外からかすかに響く騒ぎを「いつもの朝の港の喧騒」と勘違いしたバルトロが、シルクの毛布を頭からかぶって、さらに深く眠りにつこうとした――
そのときだった。
「会頭! 会頭、お目覚めください!」
寝室の扉が勢いよく開かれ、一人の男が血相を変えて飛び込んできた。
「ん……なんだ……騒々しい……」
毛布の中でバルトロがごろりと寝返りを打つ。
「大変です! 港が――港が近衛騎士たちに封鎖されました!」
「……港が?」
「王太子殿下の命令です! 港に係留されている船は一隻残らず足止めされ、倉庫もすべて封鎖! 積み荷を一箱、一袋に至るまで調べるそうです!」
毛布の中から、バルトロがゆっくりと顔を出した。
「……なんだと?」
「出港も入港も、積み降ろしも一切禁止です! 商人たちは大騒ぎで、船員たちも騒ぎ始めています!」
寝ぼけていたバルトロの目が、ゆっくりと見開かれた。
「なぜ王太子が……?」
「昨日の一件かと……!」
「昨日?」
寝ぼけていたバルトロの頭に、昨夜の宴席が蘇る。
――惜しかったな! あのまま、あいつの首でも刎ねてくれりゃあ……。
「……まさか」
バルトロの顔から、酔いが一気に引いた。
――
「な……なんだ、これは……」
血相を変えて港へ駆けつけたバルトロの目に飛び込んできたのは、出航を止められ、途方に暮れて座り込む船員たち。
そのすぐそばでは、物々しい甲冑に身を包んだ近衛騎士たちが、積荷の箱を一つ残らず開け、容赦なく中身を改めている。
見慣れた港の光景は、もはやどこにもなかった――。
バルトロは慌てて、近衛騎士の前に立ちはだかった。
「俺たちの港で、勝手な真似は許さんぞ! 物流が止まったらどうする!」
「――ここは王家直轄領だ。貴様らの港ではない」
近衛騎士は冷ややかな目を向けた。
「うぐ……。し、しかし! この港を動かしているのは私たちです!」
なおも食い下がるバルトロに、近衛騎士は淡々と告げた。
「昨日昼刻、当港において、正体不明の煙を発する物品が、王太子夫妻の目前まで持ち込まれる事案が発生した」
「あ、あれはただのいたずら……いや、祝いの煙で!」
近衛騎士は一切表情を変えず、手にした羊皮紙へ視線を落とした。
「王太子妃殿下は、そう説明された。ゆえに、貴様らを処罰する命令は出ていない」
「……!」
「だが、考えてみろ」
近衛騎士は、静かにバルトロを見据えた。
「我々が存在を把握していなかった仕掛けが、王太子夫妻の目の前まで持ち込まれた。しかも、あの場で煙を噴き出すまで、誰一人として異常に気づかなかった」
「そ、それは……」
「あれが無害な煙だったから、結果として何事もなかった。それだけの話だ」
淡々とした声が、かえってバルトロを追い詰める。
「もし毒物だったら? 爆発物だったら? あるいは、もっと別の危険な仕掛けだったら?」
「……!」
「王太子夫妻の身辺警護を担う我々が、それを事前に把握できなかった。問題はそこにある」
バルトロの顔から、徐々に血の気が引いていく。
「だから調べるのだ。この港では、誰が何を持ち込み、誰の許可を得て、どこまで運び込めるのかをな」
「ま、待ってくれ! そんなことをされたら、港の仕事が――」
「残念だが、王位継承者たる王太子殿下の身に危険が及んだ」
近衛騎士は、淡々と言葉を続ける。
「それは、この港の警備体制、衛生管理、荷役の安全基準に『重大な国家安全保障上の不備』が存在することを意味する。よって、王室安全基準法第十四条に基づき、原因の究明と安全の確保が完了するまで、本港内の物流作業はすべて停止だ」
「……!? 正気か!? 今、港には腐りやすい生鮮食品や、納期のある貿易船が山ほど入っているんだぞ! 数日止まっただけで、数億の損害が出る!!」
「ならば、なおさら協力してもらおう」
近衛騎士は、冷ややかに告げた。
「王太子殿下の安全を確保することも、この港を取り仕切る者の務めだろう?」
「……!」
「それと、殿下からお言葉を預かっている」
近衛騎士は一枚の書状に目を落とした。
「『安全が確認できない港で、荷を扱わせるわけにはいかない。ギルドの皆の安全と、我が国の交易の信頼を守るための、心ばかりの配慮である』――とのことだ」
「…………」
「数日で数億の損害が出るほど重要な港なのだろう? ならば、一刻も早く安全を証明してみせることだ」
一切の温度を感じさせない目で見据えられ、バルトロは言葉を失った。
――こいつらに何を言っても無駄だ!
ここで言い争っていても、事態は何も変わらない。まずはギルドへ戻り、今後の対応を考えなければ。
バルトロは踵を返すと、足早にギルドへ向かった。
だが、ギルドへ着くなり――
「ど、どうするんですか、会頭! このままでは莫大な損害が出ます!」
「外国船からも苦情が殺到しています!」
「このまま三日も四日も止められたら、ギルドだけでは到底補償しきれません!」
次々と詰め寄ってくるギルド員たちに、バルトロの苛立ちが一気に膨れ上がった。
「ええい! やかましいわ!」
本当は自分だって分かっている。
このままではまずい。
だが、そんな弱気を今ここで見せるわけにはいかなかった。
「王家とて、この港の流通が滞ることは望むまい。こんなもの、明日には解除されておるわ!」
「ですが――」
「心配するなと言っている!」
そのときだった。
「いえ。王太子殿下に謝罪すべきでは?」
そう口を挟んだのは、副会頭のシルバだった。
バルトロの眉がぴくりと動く。
よりによって、こいつか。
「……謝罪だと? 何を謝る必要がある!」
「何をって……あんなもの、嫌がらせ以外のなんだというのです」
「祝いに決まっているだろう!」
「祝いですって? 王太子夫妻の目の前で、あんな煙を噴き出させておいて?」
「だから、それは昔から伝わる祝いの風習だ!」
「ならば、なぜ私は何も知らされていなかったんです!」
シルバの声に、怒気が滲む。
「私は会頭の命令に従って、あの品を運んだだけです。それなのに、あの場で近衛騎士に拘束され、剣まで突きつけられた!」
「大袈裟な。結局、何の問題にもならなかっただろうが」
「そんな屁理屈が通りますか!」
シルバが声を荒らげた。
「今回は妃殿下が煙の正体をご存じだったから助かっただけです。一歩間違えれば、私はあの場で殺されていたんですよ!」
――わかっている。こいつなら斬られても構わないと思って送り出したのだ。
……いや。
いっそ、斬られてしまえとさえ――。
だが、自分と何かにつけて意見を異にするシルバに、今さら正論を突きつけられたことが、何よりも癪に障った。
バルトロは、ますます意固地になった。
「くだらん! 王太子殿下とて、いつまでも港を止めておくことなどできん。王家が折れるに決まっている!」
「ですが――」
「くどい!」
バルトロが怒鳴った。
「王家が折れる! それで済む話だ!」
「……そうですか」
シルバは、深いため息を飲み込んだ。
――
会頭室へと足早に立ち去るバルトロを、シルバは冷めた目で見つめていた。
そもそも、あの大勢の人々が見守る中で、王太子夫妻へ祝いの品を捧げるという華々しい役目を、なぜ会頭であるバルトロが自分に譲ったのか。
あのとき感じた嫌な予感は、決して間違いではなかった。
自分が拘束され、剣を突きつけられても、バルトロは「大袈裟だ」と一蹴した。
そして今も、港で働く者たちの生活より、自分の面子を守ることを優先している。
――やはり、この男は自分の利益のためなら、他人がどうなろうと構わないのだ。
このままでは、港で働く者たちまで巻き込まれる。
シルバは、静かに拳を握った。




