39.祝いの品
「なっ――!?」
副会頭が目を見開く。
「毒煙だ! 殿下をお守りしろ!」
護衛の近衛騎士たちが即座に抜剣し、ギルバートの前に立ちはだかる。
ギルバートはマリアベルを庇うように、きつく抱きしめた。
周囲の民衆から悲鳴が上がる。
お祭りムードに包まれていた広場は、一瞬にして恐慌の渦へと飲み込まれた。
「これは……」
ギルバートの腕の中で、マリアベルは広がる煙と、その匂いにはっと顔を上げた。
「毒煙ではないわ!」
「知っているのか?」
「ええ。とにかくこの場を収めましょう」
マリアベルはギルバートの腕の中から抜け出すと、壇上の中央に躍り出た。
「皆さん、落ち着いてください!」
だが、マリアベルの声は民衆の怒号や悲鳴にかき消され、誰の耳にも届かない。
「――鎮まれ!」
マリアベルの隣に並び立ったギルバートが、腹の底から響く声を放った。
その一喝に、広場の空気が震える。
「……」
先ほどまでの喧騒が、嘘のように途切れた。
誰もが息を呑み、壇上の二人へと視線を向ける。
その頃には、辺りを覆っていた群青色の煙も、徐々に薄らいでいた。
やがて煙の切れ間から陽光が差し込み、マリアベルを柔らかな光が包み込む。
マリアベルは一歩前へと進み出た。
「この煙は、毒煙などではありません!」
マリアベルの声が、静まり返った広場に響き渡る。
「これは、このシーフォートに古くから伝わる、航海の安全を願う風習です」
群青色の煙が、二人の頭上でゆっくりと薄れていく。
「かつて、このシーフォートでは、港の出口から煙を焚き上げ、船がその煙のアーチをくぐり抜けて外洋へ出ることで、航路の悪霊や災いを払い、海神の加護を得て旅立つ――そんな風習があったのです」
マリアベルは、民衆をまっすぐに見つめた。
「つまりこれは、港湾ギルドが、歩み始めたばかりの私たち夫妻の前途が、災いに遮られることのないように――そう願いを込めて贈ってくれた、祝いの煙なのです」
マリアベルが微笑むと、広場から小さなどよめきが起こった。
「知っていたか?」
「いや……」
「そういえば俺の爺様が、昔語りで言ってたような……」
「おいおい、いつの風習だよ」
「王太子夫妻の前途を祝うってんなら、悪くねえ話じゃないか」
「さすが王家の方だな」
「ああ。俺たちが忘れていたような古い風習まで、ご存じなんだから」
やがて、広場を包んでいた騒ぎは、少しずつ収まっていった。
ギルバートは、広場の空気が落ち着いたのを見届けると、拘束された副会頭へ視線を向けた。
「間違いないか。副会頭」
「はっ……はい! その通りでございます!」
ギルバートに鋭く睨み据えられ、近衛騎士に拘束された副会頭は、突きつけられた剣を前に、青い顔で何度も頷いた。
その様子を、少し離れた場所から見つめる会頭の口元が、わずかに引きつった。
「ならば良い。解放してやれ。――今後は、こうした儀式を行う際は事前に伝えておくように」
「はっ……はい! 申し訳ございませんでした!」
副会頭は深く深く頭を下げると、足早に壇上を降りて行った。
◇
王家所有の離宮に戻った二人は、ソファに深く腰掛け、大きく息をついた。
「やってくれる……」
ギルバートが苦々しい顔で呟いた。
「ええ。まさか、あんな大それたことを仕掛けてくるとは思わなかったわ」
下手をすれば、副会頭はあの場で首を刎ねられていてもおかしくはなかった。
それどころか、あの一件が王家への叛逆と見なされれば、シーフォート全体が処分の対象になっていた可能性すらある。
「それだけ、この地では王家の威光が薄れているということか」
「そうね。陛下が私たちの滞在先にシーフォートを選んだ理由が、よくわかったわ」
二人は顔を見合わせた。
「それにしても、よく知っていたな。あんな風習を」
「王家の歴史を学んでいるときに、直轄領についても学んだもの。群青色の煙に、清涼感のあるミントのような香り……どんなものかしらって、ずっと気になっていたのよね」
「そうか……俺も学んだはずだが……直轄領の利権を切り売りした王の話しか覚えていないな」
「マスカルド王の時代ね」
今から三代前の王の時代。
不作や疫病が立て続けに起こり、当時のマスカルド王は、財政難を乗り越えるため、直轄領が持つ利権を商人たちに切り売りした。
「……その結果が、今のシーフォートか」
ギルバートが、ぽつりと呟いた。
「ええ」
「当時は一時的に金を得るための苦肉の策だった。だが、それが三代にわたって積み重なれば、話は変わる」
ギルバートは、窓の外へ視線を向けた。
「港の運営に必要な権益を商人たちが握り、それを束ねる港湾ギルドが、この町の実権を握るようになった……」
「王家としても、簡単には手を出せない」
「そういうことだ」
ギルバートは苦々しく笑った。
「王家が港湾ギルドを排除すれば、シーフォートの経済そのものが立ち行かなくなる。だから連中も、自分たちを王家が切り捨てることはできないと、たかを括っているんだろう」
「それで、あの態度……」
「……ああ」
ギルバートは静かに頷いた。
しばしの沈黙のあと、マリアベルがふっと口元を緩める。
「……それで? どうしましょうか、王太子殿下?」
楽しげな目を向けられ、ギルバートは思わず苦笑した。
「……君、楽しんでいるだろう?」
「もちろん」
マリアベルは悪びれる様子もなく、にっこりと笑った。
「ふっ……。ならば、まずは一手、だな」
「ふふ。期待しているわ」
「……君の期待に応えるのは、いつも骨が折れる」
「あら。早く片付けて、お忍びに連れて行ってくれるんでしょう?」
「……善処しよう」
ギルバートは肩をすくめた。
――
翌朝。
港町に、戦慄が走った。
「ただいまより、王室令に基づき、当港湾の特別保安監査を実施する!」
石畳を踏み鳴らす、幾十もの鉄靴の音。
近衛騎士たちが隊列を組んで港へ現れると、先頭の騎士が一枚の羊皮紙を高々と掲げた。
そこには、王太子ギルバートの署名と公印が押されている。
「港に係留中の全船舶、および港内の全倉庫を対象とし、船体、設備、保管状況、積荷に至るまで、徹底した監査を行う! 一箱、一袋たりとも例外は認めん!」
港にいた者たちが、息を呑んだ。
「なお、安全性が完全に証明されるまで、出港・入港・積み降ろしは一切認めない!」
「……は?」
一瞬、港が静まり返った。
そして――
「ええええっ!?」
あちこちから悲鳴が上がった。
「な、なんでいきなり王太子殿下が!?」
「今日の荷はどうするんだ!」
「船が出せなきゃ契約に間に合わんぞ!」
商人や船員たちが一斉に騒ぎ始める。
その様子を、港の管理責任者は呆然と眺めていた。
「なぜ突然こんな……」
やがて、その顔から血の気が引いていく。
「……まさか」
脳裏に浮かんだのは、昨日の歓迎式典での出来事。
豪華な祝いの品から吹き出した群青色の煙が、港町を混乱に陥れた。
「昨日のことに、お怒りで……」
「あの煙ですか? 確かに、あれはやり過ぎだったと思いますけど……」
隣に立つ部下が、困惑したように呟いた。
「でもあれは、祝いの煙だって王太子妃殿下もおっしゃってたじゃないですか……!」
「馬鹿野郎。あれを問題にしてみろ。『王太子夫妻はシーフォートの歴史も知らないのか』と、笑い者にされるだけだ」
管理責任者は、苦々しく顔を歪めた。
「殿下も妃殿下も、あの場ではそういうことにしてくださったんだ。それでも、あれが会頭たちの品定めだということは、当然理解しておられるだろうよ」
「……じゃあ、今回の監査は」
「昨日の仕返し……いや」
管理責任者は、ずらりと並ぶ近衛騎士たちを見渡した。
船を止め、荷を止め、港の機能そのものを止める。
しかも、一箱、一袋に至るまで徹底的に調べるという。
これでは、港は動かない。
商人たちも、船員たちも、黙ってはいないだろう。
管理責任者の喉が、ごくりと鳴った。
「これは……シーフォートへの宣戦布告だ」




