38.新婚旅行?
春の種まきが終わる頃。
マリアベルとギルバートは、視察という名の新婚旅行に出かけることになった。
ヴァルネが内乱中で、こちらに攻め込んでくる可能性が低いこと。
王妃の裁判まで、まだ日があること。
そして、ライオネルが政務を代行してくれること。
いくつもの条件がちょうど重なり、結婚式前からバタバタしっぱなしだった二人に、ようやく二人きりで過ごせる時間が訪れた。
一行は、王都から少し離れた海辺の街、シーフォートを目指し、馬車を走らせた。
道中、通りがかる街に寄り、その他の領主や民と交流を深めながらの旅。
通常なら三日で辿り着くところを、二週間ほどかけて目的地へ向かう予定を組んでいた。
王都からほとんど出たことのないマリアベルにとって、道中で目にするものは何もかもが新鮮だった。
馬車の窓から身を乗り出さんばかりに、あちらこちらへ視線を巡らせている。
そんなマリアベルを、ギルバートは目を細めて見つめていた。
「楽しそうだな」
「ええ。とても」
マリアベルは、ふわりと微笑んだ。
「陛下に感謝しなくちゃね。こんな機会を作ってくださって」
「ああ、そうだな。ライオネル殿下にも、な」
ギルバートはそう言って、穏やかに笑った。
――
「あれは何かしら?」
「ああ、干し果物を量り売りしてるんだ。好きなものを、好きな量だけ買える」
「いい考えね」
市場を視察しながら、マリアベルは目を輝かせていた。
これまでのマリアベルの生活は、家と王宮の往復ばかりだった。
買い物といえば、商人が家まで品物を持ってくるのが当たり前。
王太子妃となってからは、政務や公務に追われ、視察に出る時間もなかった。
だからこの日が、マリアベルにとって初めて自分の足で歩く市場だった。
「あの鶏は……」
「ん? 肉屋だからな」
「え?」
「注文を受けて、その場で捌くんだ」
「……そう」
みるみる顔色を悪くしていくマリアベルを見て、ギルバートはくつくつと笑った。
「……あっちの魚は?」
「あれも注文すれば捌いてくれる」
「…………」
「マリアベル?」
「……新鮮なのね」
「くっ……ッ、そうだな」
ギルバートは必死に笑いを堪えた。
「あなた、随分と市場に詳しいのね」
マリアベルはつん、とそっぽを向いて言った。
「まあ……学生時代は、それなりに自由だったからな」
「ふーん」
「……マリアベル、怒ってるのか?」
ギルバートは、そっぽを向いたままのマリアベルの顔を覗き込んだ。
「怒ってるわ」
「……! ……あ、あの屋台は果物の飴がけだ。甘くて美味いぞ。一つ買うか?」
「視察中に買えるわけないでしょ」
マリアベルは小さく息をついた。
現在、マリアベルとギルバートは、王太子夫妻の公務として市場の視察をしている。当然、周囲には物々しいほどの護衛がついていた。
王太子夫妻ともなれば、毒殺を警戒するのも当然のこと。気軽に屋台で食べ物を買うことなど、できるはずもなかった。
「……毒味をすれば大丈夫じゃないか?」
「だめよ。迷惑をかけるかもしれないわ」
たとえ毒でなかったとしても、購入した食べ物で王太子夫妻の体調が悪くなりでもすれば、咎めを受けるのは屋台の店主だ。
「そんなことになったら、あの人が気の毒でしょう?」
マリアベルは、先ほどの屋台へちらりと目を向けた。
「……ならば、シーフォートに着いたら、お忍びで出かけるか?」
マリアベルは、ぱっとギルバートを見た。
「……いいの?」
「ああ、いいさ。王太子夫妻だとバレないようにして、好きなものを食べよう」
「……ふふ」
マリアベルの顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
ギルバートも、嬉しそうに微笑んだ。
――
王家直轄領、港町シーフォート。
港町特有の、潮風を含んだ重たい空気が街を包んでいる。
石畳の通りには歓迎の旗がはためき、沿道を埋め尽くした領民たちが、馬車の一行へ惜しみない歓声を送っていた。その声は、すぐそばで砕ける波の音さえかき消すほどだ。
「……すごい人ね」
馬車の窓から外を覗き込みながら、マリアベルは思わず呟いた。
「ああ。シーフォートは我が国の北方を支える最大の貿易拠点だからな。だが、王家の直轄領でありながら長年自治を重んじてきた気難しい土地柄でもある。歓迎だけとは限らないぞ」
「新米の王太子夫妻を品定めしてやろう、というわけね」
「そういうことだ。あの陛下が何の目的もなく、ただ俺たちに休暇を与えてくれるはずないだろう」
「……やはりそうよね」
マリアベルは小さく息をついた。
やがて馬車が停止し、御者が扉を開ける。
途端に、外の歓声がどっと車内へ流れ込んできた。
「行こうか、マリアベル」
「ええ」
差し出されたギルバートの大きな手を取ると、二人は揃って馬車を降り――華々しい歓迎の渦へと、足を踏み入れた。
「「王太子殿下万歳! 王太子妃殿下万歳!」」
青空へ吸い込まれるように、色鮮やかな紙吹雪が風に乗って舞い踊る。
その中を、軍服に身を包んだギルバートが、毅然とした足取りで進んでいく。
傍らには、マリアベルがしっかりと寄り添っていた。
彼女が纏うのは、すっきりとしたシルエットのドレス。その背から裾へと流れるロングトレーンが優雅な軌跡を描き、繊細なシルバーの刺繍が、降り注ぐ陽光を受けて上品にきらめいていた。
今から、二人のシーフォート到着を祝う盛大な歓迎式典が予定されている。
壇上へ向かって歩きながら、ギルバートは前を向いたまま、マリアベルの腰に添えた手にわずかに力を込めた。
「あの最前列の連中――」
ギルバートが顎で示した先には、港湾ギルドの会頭や、地元の有力者たちが居並んでいた。
表向きは満面の笑みを浮かべ、盛んに拍手を送っている。だが、その瞳の奥にある値踏みするような視線までは隠せていない。
「嫌な目ね」
声を潜めて呟くギルバートに、マリアベルも微笑みを絶やさぬまま、小さく答えた。
――
式典のクライマックス。
「――シーフォート港湾ギルドより、歓迎の意を捧げます」
港湾ギルドの会頭が深々と頭を下げた。
「副会頭」
「……はい」
会頭に促され、副会頭が一歩前へ進み出る。
その手にあるのは、祝いの品として用意された、純金と真珠で作られたクジラの精巧な置物。
深い色合いのベルベットで仕立てられた専用のクッションに載せ、副会頭はそれを両手で大切そうに捧げ持っていた。
――随分と景気がいいな。
一歩一歩、ゆったりとした足取りで進み出てくる副会頭を見ながら、ギルバートはわずかに目を細めた。
副会頭はギルバートの前までたどり着くと、置物を恭しく掲げ――その瞬間。
掲げられたクジラから、潮を吹くように群青色の煙が勢いよく噴き出した。




