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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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32/63

32.国境で起きた事件

  それから一週間後。


  夜の闇に紛れ、密輸部隊は王都を発った。


  数台の荷馬車を従え、アルベルトと伯爵を乗せた馬車が夜道を進んでいく――。


  アルベルトら密輸部隊は、マケイド伯爵の密輸を請け負っていた商隊を、そのまま密輸部隊に取り込んだ。


  もっとも、商隊にはその事実を知らせていない。


  情報の漏洩を防ぐため、伯爵にこれまで通り密輸を依頼させ、商隊には普段と変わらぬ仕事として荷を運ばせることにしたのだ。


  ただ、今回はいつも以上に大規模な密輸となる。そのため、伯爵自らが荷の確認を行い、アルベルトも責任者として同行すると、商隊には伝えていた。


  おかげで、荷馬車も御者も、これまで使われていた密輸ルートも、そのまま利用できる。


  密輸部隊は雪の残る街道を予定通りに進み、出発から五日後の夜には、ヴァルネとの国境近くまでたどり着いた。


  しかし、深い森に身を潜めた密輸部隊の野営地で、その「事件」は起きた――。


  ――


  月明かりすら届かない鬱蒼とした木々の中、アルベルトは極限の緊張を強いられていた。


「……シルヴァ殿。いよいよこの後ヴァルネに入る。どうだ、怪しい影は?」


  身にそぐわない粗末な旅装束を着たマケイド伯爵が、低い声で近づいてくる。


  密輸への同行が初めての伯爵もまた、国境を越えることへの緊張を隠しきれない様子だった。だが、アルベルトが感じているものとは、その重さが違う。


  伯爵が案じているのは、あくまでこの支援を無事にヴァルネへ届けられるかどうか。


  その先に待つ政治的な意味までは、まだ知らないのだ。


「問題ありません。今のところ、警備隊にも勘づかれてはいないようです。ただ……」


  アルベルトは眉根を寄せ、最後尾にある二頭立ての荷馬車を睨みつけた。


「ただ?」


「出発してからというもの、あの荷馬車だけ、やたらと干し肉と水の減りが早い。それに……先ほど、あの荷台から小さなくしゃみが聞こえた気がしたのです」


  アルベルトの脳裏に、嫌な予感がよぎった。


「まさか……誰か、いるのか?」


  伯爵の顔が強張った。


  アルベルトは腰のナイフの位置を確かめると、足音を殺して荷馬車へ近づいていく。

  その後ろに、怯えた様子の伯爵が続いた。


  二人は荷台の前で足を止めると、顔を見合わせ、頷く。


  そして――荷台を覆う汚れた幌を、一気にめくり上げた。


「だ、誰だっ!」


  伯爵が叫ぶ。


  ランタンの光が照らし出したのは、積み上げられた麦わらと穀物袋の隙間に丸くなっていた人影だった。


  頬にはわざとらしく泥が塗られ、身につけているのは文官用の粗末な古着。しかし、その泥の隙間から覗く肌は抜けるように白く、乱れた藍色の髪はランタンの光を受けてきらめいていた。


「あたた……見つかっちゃったか」


  気まずそうに頭を掻きながら、へらりと笑ったのは——


「殿下……」


  アルベルトが引きつった声を漏らす。


「……で、殿下……!?」


  マケイド伯爵も愕然とした声を上げた。


「やあ、アルベルト、マケイド伯爵。……『ライ』だよ! 雑用係のライだ! 荷物の陰に隠れるのって、結構大変だね」


「えへへ」と笑いながら荷台から降りてきたライオネルの手には、半分かじられた硬い干し肉が握られていた。


  静寂が降り積もる――


  アルベルトの顔から血の気が完全に失われ、続いて火を噴くような赤へと変わった。激しい胃痛に、思わず腹を押さえる。


「……な……にを……っ」


「アルベルト……?」


「何をなさっているのですか殿下ぁぁぁぁぁッ!!!!」


  絶叫しそうになるのを口を手で覆って必死に押し殺し、アルベルトはライオネルに詰め寄った。


「正気ですか!? なぜここに!? 城でお待ちをとあれほど申し上げたはずです!」


「だ、だって! アルベルトが心配だったんだ!」


  今にも崩れ落ちそうなアルベルトをよそに、ライオネルは目を輝かせながら、泥だらけの手で胸を叩いた。


「でもこれなら僕はただの雑用係だ! 王家の関与もバレないし、僕も現場で二人の手伝いができる! ほら、変装も完璧でしょう!?」


「どこが完璧ですか! 隠しきれない気品がだだ漏れです! そもそも殿下がいなくなったと知れば、城が大騒ぎになって——」


「大丈夫、書き置きを残してきた! 『自分探しの旅に出ます。出来るだけ早く帰ります』って!」


「余計に大騒ぎになる書き置きでしょうが!!」


  アルベルトは血を吐きそうな顔で天を仰いだ。


「あのお……なぜ殿下がわざわざ……?」


  二人のやり取りを呆然と眺めていた伯爵が、ようやく我に返ったように口を挟んだ。


  その声にアルベルトは、はっとして、ライオネルを引きずるように自らの馬車へと押し込み、扉を閉めた。


  ――バタン


「伯爵、大変なことになりました」


「え、ええ……そうですな」


  キリリとした顔で声を落とすアルベルトに、伯爵は目を白黒させながらも、なんとか頷いた。


「どうやらライオネル殿下は、私たちが密輸を主導すると聞いて、心配で堪らなくなったようです」


「私……たち?」


「ええ、私た(・)ち(・)です」


「殿下を騙していた私まで、心配してくださっていたと……?」


「ええ。もちろんです。殿下の慈悲深さは、よくご存知でしょう?」


「ああ……殿下……」


「本来ならば、今から城に引き返してでも送り届けなければなりません」


  瞳を潤ませながら馬車の扉を見つめる伯爵に、アルベルトは畳み掛けるように言葉を続けた。


「しかし、もう国境寸前。今から引き返していては、時間を大幅に無駄にしますし、物資も消費してしまう。なにより! 殿下がお叱りを受けるのが目に見えています」


「そ、そうですな」


「それに、今夜中に国境を越えなければ、明日の予定に間に合わない」


「明日の予定?」


「……いえ。こちらの話です」


「は、はあ……」


  アルベルトは一瞬だけ視線を逸らした。


  ――大公派の要人、ヨハンとの接触予定が、明日の夜に入っている。


  ここから引き返していては、到底間に合わない。


「ですから……殿下には、このまま同行していただくしかありません。そして、その成功をもって、堂々と城にお帰りいただくのです!」


「そうですな! 殿下にも手柄を立てていただきましょう」


  大きく頷く伯爵に、アルベルトは内心でほっと息を吐いた。


  今からライオネルを城へ送り届けることになれば、約束の時刻に間に合わず、大公派との信頼関係を損なうことにもなりかねない。


  事情を知らない伯爵に、「送り返すべきだ」と強く反対されれば、非常に面倒なことになっていた。


(何としても殿下を安全に帰したい。だが、今引き返せば、任務が失敗するかもしれない。ならば……私が殿下を守りながら任務を遂行するしかない)


  アルベルトは痛む胃を撫でながら、決意を固めた。


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