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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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27.ヨハンの目に映るもの

 目立たぬ程度の護衛を伴い、三人は王宮の廊下を歩いていた。


 途中、すれ違った侍女たちは、何事もないかのように静かに頭を下げる。


 当然だ。まさか、王太子夫妻が連れている客人が、ヴァルネから送り込まれた密使だとは、誰も思っていないのだから。


 辺境伯領でヨハンが捕縛されたとの報せを受けたレグナートの上層部は、すぐさま情報統制を行い、その事実が外部に漏れぬよう手を打った。


 ヨハンの正体も目的も、その時点では何もわかっていなかった。だが、『ヴァルネからの侵入者』、その事実だけで、国内が過敏に反応するであろうことは、分かりきったことだった。



 三人は王宮の一角にある部屋へと入った。

 そこは中庭に面した一室で、大きな窓からは騎士団の訓練場が一望できる。


 ギルバートが窓辺へ歩み寄り、外を指し示した。


「あそこです」


 ヨハンが窓へ近づく。


 窓の外では、数人の騎士たちが剣を交えていた。

 その中に、一際小さな身体がある。


「……あれが、ノエル殿下です」


 ギルバートの言葉に、ヨハンは目を凝らした。


 ノエルは騎士の繰り出した剣を必死に受け止めると、弾かれるように後ろへ下がった。


 ヨハンの肩がぴくりと揺れる。

 思わずギルバートを見やるヨハンに、ギルバートは小さく頷いた。


 ――大丈夫だ。


 そう言うように、ギルバートは窓の外へ視線を戻す。


 ヨハンは戸惑いながらも、再び訓練場へと目を向けた。


 騎士の剣に弾かれたノエルは、膝をつきながらも、すぐに立ち上がる。


「もう一度お願いします!」


 弾んだ声が、窓越しにも聞こえてきそうなほどだった。


 騎士は微笑みながら剣を構え直す。


 ノエルも満面の笑みを浮かべ、両手で剣を握り直した。


 その様子を、ヨハンは黙って見つめていた。


「ノエル殿下は剣術がお好きで、ああしてよく騎士たちに稽古をつけてもらっています」


 ギルバートが穏やかな声で口を開いた。


「……そう、ですか」


 ヨハンはそれだけ答えると、再び窓の外へ視線を戻した。


 ノエルはまた騎士の剣を受け、弾き飛ばされる。

 それでもすぐに立ち上がると、嬉しそうに笑った。


 騎士もまた笑みを浮かべる。


 ヨハンは、窓の外から目を離せなかった。



 ――



 応接室へと戻った三人は、紅茶のカップを傾けた。


 先ほどまで張り詰めていた空気は、随分と穏やかなものになっていた。


「ノエル殿下は、何もご存知ではないのですか?」


 ヨハンが戸惑うように問いかけた。


「いいえ。王位継承権を放棄させるにあたり、陛下はノエル殿下に全てをお話になられました」


 ギルバートは小さく首を振った。


「……数日は部屋に閉じこもっておられました。しかし、私が声を掛けるのも違うでしょう? 私は、見守ることしかできませんでした」


 眉を下げて苦笑するギルバートに、ヨハンはその心情を察したように、小さく頷いた。


「そんなノエル殿下を部屋から連れ出したのが、騎士たちです。親交のあった騎士たちが、ノエル殿下を訓練に誘い……彼も剣を振ることで、吹っ切れるものがあったのでしょう。今ではあのように、笑顔も戻りました」


 そう語るギルバートの声には、心からの安堵が滲んでいた。


 ヨハンはわずかに逡巡したあと、意を決したようにギルバートを見つめた。


「……失礼なことをお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「なんでしょう?」


「その……こちらで、ノエル殿下はどのように思われているのでしょうか?」


「……どのように、とは?」


「王家の血を引かぬノエル殿下が、王宮で過ごすことを、不満に思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?」


 ――「こちら」とぼかしているが、恐らくヨハンが聞きたいのは、王やギルバート自身のノエルに対する思いなのだろう。


「まず前提として、ノエル殿下が陛下の血を引いていないことを知っている者は、我が国でも僅かな者のみです」


「そう……なのですか」


 ヨハンは驚いた。


 クラリッサ捕縛の正当性を示すためには、ノエルの血筋を明かすのがもっともわかりやすい。

 国民に向けてはともかく、貴族たちや王宮で働く者たちには、すでに知らされていて当然だと思っていたのだ。


「ノエル殿下の今後を左右することですから、陛下が情報の開示に慎重な姿勢を見せておられます」


「そうですか……レグナート国王がご配慮を……」


 ヨハンは胸が詰まりそうになった。

 妻に裏切られ、実の息子ではないと知った王が、それでもノエルの行く末を案じている。


「もちろん、私もそのお考えに賛成しています。……ただし、今後も絶対に開示しない、とお約束することはできません」


 ヨハンは何度も小さく頷いた。


 本来であれば、すぐに公表されて然るべき話なのだ。それを「このまま黙っていてほしい」などと、口が裂けても言えなかった。


「しかし、もし開示することになっても、ノエル殿下ができる限り健やかに過ごせるよう、配慮するつもりです。彼に非がないことは、我々も理解していますからね」


 ギルバートは小さく微笑んだ。その穏やかな笑みを見て、ヨハンはようやく胸のつかえが取れたように感じた。


「……ありがとうございます。大公閣下も、きっとご安心なさるでしょう」


 ヨハンも小さく微笑んだ。


 ノエルは決して、肩身の狭い思いをしながらレグナートで過ごしていたのではなかった。

 ノエルを慮る者に囲まれて、健やかに過ごしている。


 むしろ、ヴァルネへ連れ帰るほうが、ノエルに肩身の狭い思いをさせてしまうのではないか。


 ヨハンは、そう思った。


「ノエル殿下に、会って行かれますか?」


「いいえ。――充分です」


 ギルバートに問いかけられ、ヨハンは小さく首を振った。


 当初は、なんとしてでもノエルに会い、その現状を確かめるつもりだった。


 しかし、あの笑顔を見てしまった今、わざわざ自分が会いに行けば、かえってノエルの心を乱してしまうように思えた。


「大公閣下には、私からありのままを伝えます。きっとご理解くださるでしょう」


 どこか清々しい顔をするヨハンに、ギルバートとマリアベルは穏やかに微笑んだ。



 ――



 その夜――


 夫婦の寝室で、二人は今日の出来事について話し合っていた。


「ヴァルネの国王が、あそこまで愚かだとは思わなかったわ」


  マリアベルは大きく息をついた。


「ああ。まさか、すべての原因をこちらになすりつけてくるとはな」


  ギルバートも深いため息を吐く。


「……大公閣下への支援、どうするべきかしら」


「……難しいだろう」


「そうね……」


  結局、ヨハンは「支援を望む」と口にしたものの、具体的な内容については何も語らなかった。


  ――大公閣下自身が、それを望んでおられない。


  そう言われてしまえば、こちらから踏み込むわけにもいかない。


  しかし、レグナートに敵対的な今のヴァルネ国王が失脚することは、こちらにとっても利点が大きい。


  かといって、他国の、それも王位をめぐる争いに肩入れして、もしグレゴール側が敗れれば、こちらにも咎が及ぶ恐れがある。


  支援するメリットは大きい。


  だが、それに伴う危険もまた、大きかった。


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