26.大公からの密使
物々しいほどの護衛が配置された執務室で、ギルバートとマリアベルは、一人の男と向き合っていた。
三十代後半だろうか。黒髪をきっちりとオールバックに整え、隙のない正装をまとった、目つきの鋭い男だった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
男は深々と頭を下げたあと、一通の書状を差し出した。
「こちらは、大公閣下よりお預かりした書状です」
「拝見します」
ギルバートは静かに書状に目を通した。
「ほう……。マリアベル、君も読むといい」
「拝見いたします」
マリアベルが書状を読み終えると、男がわずかに姿勢を正した。
「改めまして、ヴァルネ太公グレゴール様の遣いで参りました、ヨハン=カールハイトと申します。ヴァルネで法務局主席補佐官を務めております」
「法務局の主席補佐官……ですか。随分と重要な立場の方がいらっしゃいましたね」
ギルバートがわずかに目を細める。
「まずは正式な手続きも踏まず、乱暴な手段でこちらへ押しかけたことを、お詫び申し上げます」
ヨハンは再び、頭を下げた。
この男は、ヴァルネへの警戒を強める辺境伯領へ、あえて入り込んだのだ。
越冬特別法によって捕縛されることを承知の上で――いや、むしろ捕縛されることを狙って。
ヴァルネの人間がレグナートの王宮へ入るには、それが最も確実な手段だったからだ。
「無茶をされましたね。兵によっては、その場で危害を加えられてもおかしくありませんでしたよ」
マリアベルは小さく息をついた。
――マリアベルには、この男に見覚えがあった。
ライオネルの婚約者だった頃、諸国との夜会や外交会議で何度か顔を合わせていたのだ。
マリアベルがヨハンの身元を保証したことで、こうして王宮で顔を合わせることができた。
「王太子妃殿下が、私を覚えていてくださるかは賭けでした。ですが、正式な手続きを踏めない以上、こうするしかありませんでした」
「正式な手続きを踏めなかったのは、ヴァルネ国王に動きを悟られぬため、でしょうか?」
ギルバートが問いかける。
「はい。書状にも記載されております通り、現在ヴァルネでは、国王陛下の号令の下、レグナート王国への侵攻を画策しております」
「そこで、大公閣下が反対の姿勢をとっていらっしゃる、と」
「はい。大公閣下は軍部の主だった者たちに、レグナート王国への侵攻を取りやめるべきだと訴えておられます」
マリアベルは、先日のレオポルトからの報告を思い返した。
「……それで、国境に集まった兵たちの中に、将の姿が少なかったのですね」
「はい。結果として、あの侵攻は失敗に終わりました。しかし、国王陛下は諦めるつもりはないようです。雪解けが始まれば、再び侵攻に乗り出すでしょう」
ギルバートはしばらく無言で考えたのち、ヨハンの目を真っ直ぐに見つめた。
「それを知らせるために、危険を冒してわざわざ我が国まで? 大公閣下が軍部を止めてくださっているのなら、そこまで急ぐ必要はないのでは?」
「……現在ヴァルネでは、レグナート王国への反感が高まっています。大公閣下お一人のお力では、もう止められないかもしれないのです……」
ヨハンは拳を握りしめた。
「反感……ですか。それは王妃殿下が捕縛されたことで?」
「それもあります。陛下は、クラリッサ様が捕縛されたのは、レグナート王国がヴァルネへ侵攻するのに邪魔だったからだ、と。クラリッサ様は嵌められたのだ、と説明されました」
「な……ッ!」
マリアベルは目を見開いた。
「それに加え、ヴァルネで食料が不足しているのも、レグナート王国に原因がある、と……」
「なんとまあ、よくもそんな嘘ばかり並べられますね」
マリアベルは呆れたように息を吐き、ソファの背にもたれた。
「確かに食料不足の一因は我が国にあるでしょう。輸出を禁止しましたからね。ですが、なぜ我が国が輸出を禁止したのか。その原因は、ヴァルネ王国の行動にあるでしょう」
ギルバートも眉を寄せる。
「もちろん、理解しています。しかし、ヴァルネの王宮は、『全てはレグナート王国から仕掛けられたことであり、こちらは自衛のために兵を集めたに過ぎない』と、正式に発表しました。そのため、ヴァルネの国民や一部の貴族は、それを信じ込んでいるのです」
「なるほど……。侵攻を望む民意が高まれば、大公閣下といえど止めきれないかもしれない、と」
「おっしゃる通りです。しかし、大公閣下は、このような恥知らずな侵攻を許すおつもりはありません」
ヨハンは深く息を吐くと、ギルバートを真っ直ぐに見据えた。
「今、大公閣下は……国王陛下を罷免するべく、動いていらっしゃいます」
「……!?」
ギルバートとマリアベルは、思わず息を詰めた。
国王の罷免。つまり、事実上のクーデターだ。
たとえそれが事実だとしても、そんな重大な企てを他国の者に明かしてよいはずがない。
「……なぜその話を我々に?」
ギルバートはヨハンをじっと見据えた。
その真意を探るように、僅かな動揺も、言葉の端に滲む迷いも見逃すまいと、鋭い眼差しを向ける。
「……知っておいていただきたかったのです。大公閣下はレグナート王国の敵ではない、と」
ヨハンもまた、これこそが自分の真意だと示すように、ギルバートを真っ直ぐに見返した。
――部屋に重い沈黙が流れる。
「……本当に、それだけかしら?」
その沈黙を破ったのは、マリアベルの声だった。
「国王の罷免となれば、方々に根回しが必要でしょう。物資も資金も馬鹿にならない。その支援を、こちらに求めるつもりなのではなくて?」
「いえっ……! そんな……」
ヨハンの視線が僅かに揺れた。その動きを二人は見逃さなかった。
「カールハイト殿、腹を割って話しましょう。我々は、長い年月をかけて築いてきた友好関係を、つい先日反故にされたばかりです。隠し事をされては、そちらのお話を信用するのも難しくなる」
「……」
ヨハンは視線を下げ、しばらく黙り込んだ後、意を決したように顔を上げた。
「正直なところ、私はご支援をいただけるのであれば、ありがたいと思っています。しかし、大公閣下はレグナート王国からの支援を求めていらっしゃいません」
「……」
「私は閣下に、『支援を求めるべきだ』と進言しました。それでも閣下は、『レグナート王国に頼るべきではない』と頑なで……」
「では、ここに来たのはあなたの独断ですか?」
ギルバートが小さく息をついた。
大公閣下の命を受けて来たのか、それともヨハンの独断なのか。
その違いは、この話の意味を根本から変える。
「いえ! それは違います! ここに来たのは大公閣下のご指示によるものです。お持ちした書状も、間違いなく閣下が書かれたものです」
ヨハンは慌てて手を振った。
「では、大公閣下はこの書状を届けさせるためだけに、あなたに危険な橋を渡らせたと?」
「いえ。閣下が私を派遣されたのは……」
ヨハンは一度言葉を切った。
「ノエル殿下の現状を確認するためです」
「ノエル殿下……ですか?」
「王妃殿下ではなく?」
予想外の名前に、二人は眉を上げた。
グレゴールにとって、ノエルは甥である。気にかけること自体は不思議ではない。だが、わざわざ使者を送り込んでまで案じるほど、二人の間に個人的な親交があったとは聞いていない。
「……まさか、ヴァルネ国王の罷免にノエル殿下を利用するおつもりですか!?」
マリアベルが鋭い声を上げた。
「まさか! そんなつもりは、毛頭ありません!」
ヨハンは驚いたように目を見開いた。
「では、何のために?」
訝しむように眉を寄せるマリアベルに、ヨハンは困ったように眉を下げた。
「閣下にとって、ノエル様は甥にあたります。気にかけるのは、そんなにおかしなことでしょうか?」
「個人的な親交があると、聞いたことはありませんわ」
「ああ。なるほど……」
ヨハンは合点がいったのか、小さく息をついた。
「ノエル殿下が生後一年ほどヴァルネにいらっしゃったのは、ご存知かと思います。その間、閣下は幾度となくノエル殿下のもとへ足を運び、慈しんでおられたのです。もちろん、ノエル殿下にその頃の記憶はおありにならないでしょう。ですが、閣下にとっては、大切な甥御様なのです」
マリアベルは僅かに目を見開いた。
ノエルがヴァルネに滞在していた間、どのような日々を送っていたのか。赤子だったノエルの日常を、そこまで詳しく確認してはいなかった。
それでも、ヨハンの口ぶりから察するに、グレゴールがノエルを可愛がっていたのは事実なのだろう。
だとしても――
「今、この時期に、危険を冒してまで確認すべきことでしょうか?」
ギルバートが口を開いた。
それは、マリアベルがまさに問おうとしていたことだった。
ヨハンは一度小さく頷いた。
「元々、大公閣下は、クラリッサ様の不貞相手であるグレイグ殿を、早急にレグナート王国へ引き渡すことで、ノエル殿下に咎が及ばぬよう、配慮を求めるおつもりでした。しかし、陛下はそれをお許しにならなかった。それどころか、レグナート王国に向けて軍を派遣されました」
ヨハンは悔しげに唇を噛んだ。
「……レグナート王国にとって、ノエル殿下はクラリッサ様の不貞の証。我が国が交渉のテーブルにさえ着かぬ今、ノエル殿下が早々に国を追われてもおかしくはないと、閣下はお考えでした」
「それで、ノエル殿下の様子が知りたい、と」
ギルバートが眼鏡のブリッジを押し上げた。
「はい。状況によっては、秘密裏にヴァルネへ連れ帰ることも検討しています。ヴァルネでは素性を隠し、しばらくは人目を避けて暮らすことにはなりますが……」
――ここにいるよりは、まだマシなのではないか。
ヨハンの瞳が、そう物語っていた。
「お話はわかりました。ですが――」
「むろん!」
ヨハンはギルバートの言葉を遮って、言葉を重ねた。
「いずれ賠償金のお話もさせていただきます。しかし、今はまだ難しい。ですから閣下は、ヴァルネの侵攻予定をこちらへお伝えすることを条件に、ノエル殿下の身の安全をお約束いただきたいと。そして、状況によっては、ヴァルネへ連れ帰ることも認めていただきたいと――」
「お話は理解いたしました」
ギルバートは小さく息をついた。
この男の、いや大公グレゴールの目的は、初めからノエルだったのだ。
「ノエル殿下は――そうですね、実際に見ていただいた方がよいでしょう」
そう言うと、ギルバートは席を立った。
マリアベルも続いて立ち上がる。
「ご一緒にどうぞ」
思いがけない申し出に、ヨハンは首を傾げながらも立ち上がった。




