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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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20/23

20.クラリッサの願い

 柔らかなウェーブのかかった髪をおろし、簡素なワンピースに着替えたクラリッサは、一人窓辺に立っていた。


 一見すれば上質な調度品が整えられた綺麗な客室。

 しかし、部屋の出入り口を塞ぐ分厚い鉄格子と、窓にはめ込まれた太い鉄の柵が、ここが紛れもない「檻」であることを残酷に物語っていた。


 鉄柵の隙間から覗く月を黙って見上げていたクラリッサに、警護にあたっていた騎士が、鉄格子の向こうから声をかける。


「王妃様、お客様がおいでになります」


「お客様……? こんな時間に、こんな場所へ?」


 クラリッサは眉を寄せる。


 この部屋を訪れるのは、聴取にやってくる尋問官くらいのものだ。それも、こんな時間に訪れることはない。


「我々は半刻ほどこちらを離れます。――これは国王陛下のご温情です。くれぐれもお心を無碍になさいませんよう、お願い申し上げます」


 騎士はクラリッサの言葉に答えることなく、踵を返した。しばらくして階段を下る足音が響く。


「お客様……と言われても……」


 クラリッサは自らの姿を見下ろした。

 どう見ても、人前に出られるような格好ではない。


 クラリッサの元には、日に三度、身の回りの世話をするため侍女が訪れる。

 しかし、その日の最後の訪れはすでに終わっていた。


「……」


 クラリッサは諦めたようにソファに腰を下ろした。


 そのとき――


「母上……!」


 聞き覚えのあるその声に、クラリッサは弾かれたように立ち上がった。


「ノエル……!?」


 ノエルははっとしたように口元を押さえ、慌てて辺りを見回した。

 そしてほっとしたように肩の力を抜くと、息を殺し、足音を忍ばせながら鉄格子の前まで駆け寄ってくる。


「ノエル……! ノエル……!」


「かあさま……!」


 クラリッサは鉄格子の隙間から手を伸ばす。

 その手を、ノエルは両手でぎゅっと握りしめた。


「ノエル……なぜこんなところへ……!」


「どうしても母上に会いたくて……。こっそり部屋を抜け出してきました」


 ノエルは泣きそうな顔で笑った。


 ――「国王陛下のご温情」とは、このことだったのか。


 王は、ノエルが自分に会いに来ることを知っていた。

 それでも、止めなかったのだ。


 クラリッサは唇を噛み締めた。


「……そう。会えて嬉しいわ、ノエル。でも危険なことはやめてちょうだい」


「申し訳ありません……。でもどうしても母上に会いたくて……その……聞きたいことがあって……」


 ノエルは視線を下げた。

 そのままじっと繋がれた手を見つめて、ぽつりと呟いた。


「僕は……僕の父上は……その……」


(……ああ、やはり知ってしまったのね。この子は全てを……)


 ノエルがここへ現れたときから、クラリッサは薄々勘付いていた。


 自らの罪と出生の秘密を――この子が、とうとう知ってしまったのだと。


 覚悟はしていた。母親である自分が囚われたのだ。いつまでも隠し通せるはずもない。

 だが、せめて裁判が始まるまでは、伏せておいてほしかった。


 ――まさか。王はもうこの子の処遇を決めてしまったのだろうか。


 もしや……この子は城を出されるのだろうか。


 そんな不安が、胸をよぎった。


 だからこそ、最後に会うことを止めなかったのではないか――。


「……母上?」


 黙り込み、みるみる顔を青くするクラリッサに、ノエルは不安げに呼びかける。


「ごめんなさい……。もう聞かないから、そんな顔しないで……」


 ノエルは溢れそうになる涙を必死に飲み込んだ。


 ――聞いてはいけないことだったのだ。

 ノエルは、冷えきった母の手を、さらにぎゅっと握りしめた。


「いいえ、いいえ……ノエル。聞いてちょうだい」


 クラリッサはもう一方の手を鉄格子の隙間から伸ばし、ノエルの柔らかな頬に触れた。ひんやりとした指先が、ノエルの肌を撫でる。


「……母様は罪を犯したの。母様は……陛下を裏切り……あなたを産んだの」


 ノエルの肩がびくりと震えた。


「いけないことだと、わかっていたの……。それでもね、母様はあなたを産んだことを、一度も後悔したことはないわ」


「かあさま……」


 ノエルは涙に濡れた顔を上げた。


「どうして……どうしてなのですか……? 父上のことが、嫌いだったのですか……!?」


 クラリッサは息を飲んだ。


「嫌いだったのか」と問われて、胸の奥が揺れる。


 違う。

 決して、嫌いだったわけではない。


 政略結婚だ。ほとんど顔を合わせたことさえない二人だった。けれど王は、クラリッサを決して蔑ろになどしなかった。それどころか、よく話しかけ、贈り物をして――良い関係を築こうと努力していた。


 だが、すでにすぐ側に想い人がいたクラリッサにとって、王のその優しさは、むしろ煩わしいものだった。


 そしてそれが、ますますルシアンへの想いを募らせることになった。


 ――思い返してみれば、王とて望んだ婚姻ではなかったのかもしれない。

 もしかすれば、王にも他に想い人がいたのかもしれない――。


 そんなことにさえ思い至らず、クラリッサはただ悲恋に酔っていたのだ。


「……いいえ。陛下はとても優しかったわ。母様が、その優しさに甘えていたの……」


 クラリッサは目を伏せた。


 あのとき、きちんと向き合っていれば、こんなことにはならなかったのではないか――。


 ノエルを産んだことに後悔はない。

 だが、この子が王との子だったなら――。


 そんなありもしない想像が、ふと脳裏をよぎる。


 クラリッサは小さく頭を振った。そんなことを考えたところで現実は変わらないのだ。


「……それで、ノエル。陛下はあなたを……どうなさるおつもりなのかしら? 何か、言われた?」


 クラリッサは、不安に揺れる瞳でノエルを見つめた。


「……王位継承を放棄するように、と。そうしなければ、僕が旗印にされてしまうから、と」


「旗印?」


「ヴァルネが攻めてくるかもしれないそうです。兵が国境沿いに集まっていて、危ないと」


「……なんですって?」


 クラリッサは目を見開いた。


「きっと、母上を助けるためですね」


 ノエルはにこりと微笑んだ。


「戦争になるのは困るけど……母上が助かるのなら、僕はそれでもいいかなって――」


「いけません――ッ!」


 クラリッサの大きな声に、ノエルが目を丸くする。


「戦争になれば、どれだけの人が傷つくか……。ノエルが憧れている騎士たちも、慰問先で仲良く遊んだ孤児たちも……皆、死んでしまうかもしれないのよ」


「でも……かあさまが……」


「母様は罪を犯したの。罪を犯せば裁かれる。当然のことよ。だからあなたは絶対に、戦争を望むようなことを言ってはいけない」


 自分が言えたことでないのは、重々承知していた。それでもこの子には、真っ直ぐに生きてほしかった。


「もし、ヴァルネの人に『母様を助けるためにノエルの力を貸して』と頼まれても、決して頷かないでちょうだい。あなたが戦争に利用されてしまうわ」


 クラリッサは眉を下げて口ごもるノエルを、真っ直ぐに見つめた。


「ヴァルネはあなたを守ってはくれない……。母様は、ノエルが傷つくのが一番辛いの。だから、ノエル、約束して? 陛下のおっしゃることをよく聞いて、いい子にすると」


 ノエルがもっとも安全に暮らせる場所は、レグナートの王宮をおいてないだろう。


 幸いなことに、ノエルは継承権こそ剥奪されたが、王族としての権利を奪われたわけではない。陛下のおそばで大人しくしていれば、このまま王宮に留めてもらえるかもしれない。


 クラリッサにできるのは、それをノエルに言い聞かせることだけだった。


「……わかりました」


 ノエルは小さく頷いた。


「いい子ね、ノエル。あなたは母様の誇りよ。……いつまでも素敵なあなたでいてね」


 クラリッサは、精一杯の笑顔を浮かべた。


「さあ、もうお行きなさい。そして二度とここへ来てはいけないわ」


「なぜですか? 僕はまた母上に会いたいです」


 その真っ直ぐな言葉に、クラリッサは込み上げる涙を必死に堪えた。


「……母様も、あなたに会いたいわ。でも――母様に会いに来ていると知られたら、あなたまで悪く思われてしまうわ」


「バレないように来ます! 今日も誰にも見つかりませんでした!」


 ノエルは懸命に訴えた。


 その様子に、クラリッサは悲しげに首を横に振る。


「そういうことではないのよ、ノエル」


「……?」


「今日は見つからなかったかもしれない。けれど、悪いことをすれば、いつかは必ずバレるのよ。……母様のようにね」


 クラリッサは、ノエルの手をそっと握り直した。


「だからあなたには、隠さなければならないようなことを、初めからしてほしくないの。たとえバレなかったとしても、いけないことはいけないことなのよ」


 クラリッサは眉を下げて微笑んだ。


「……わかり……ました……」



 肩を落として去っていくノエルを、クラリッサはいつまでも見つめていた。


 二度と会えないかもしれない我が子の姿を、目に焼き付けるように。


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