20.クラリッサの願い
柔らかなウェーブのかかった髪をおろし、簡素なワンピースに着替えたクラリッサは、一人窓辺に立っていた。
一見すれば上質な調度品が整えられた綺麗な客室。
しかし、部屋の出入り口を塞ぐ分厚い鉄格子と、窓にはめ込まれた太い鉄の柵が、ここが紛れもない「檻」であることを残酷に物語っていた。
鉄柵の隙間から覗く月を黙って見上げていたクラリッサに、警護にあたっていた騎士が、鉄格子の向こうから声をかける。
「王妃様、お客様がおいでになります」
「お客様……? こんな時間に、こんな場所へ?」
クラリッサは眉を寄せる。
この部屋を訪れるのは、聴取にやってくる尋問官くらいのものだ。それも、こんな時間に訪れることはない。
「我々は半刻ほどこちらを離れます。――これは国王陛下のご温情です。くれぐれもお心を無碍になさいませんよう、お願い申し上げます」
騎士はクラリッサの言葉に答えることなく、踵を返した。しばらくして階段を下る足音が響く。
「お客様……と言われても……」
クラリッサは自らの姿を見下ろした。
どう見ても、人前に出られるような格好ではない。
クラリッサの元には、日に三度、身の回りの世話をするため侍女が訪れる。
しかし、その日の最後の訪れはすでに終わっていた。
「……」
クラリッサは諦めたようにソファに腰を下ろした。
そのとき――
「母上……!」
聞き覚えのあるその声に、クラリッサは弾かれたように立ち上がった。
「ノエル……!?」
ノエルははっとしたように口元を押さえ、慌てて辺りを見回した。
そしてほっとしたように肩の力を抜くと、息を殺し、足音を忍ばせながら鉄格子の前まで駆け寄ってくる。
「ノエル……! ノエル……!」
「かあさま……!」
クラリッサは鉄格子の隙間から手を伸ばす。
その手を、ノエルは両手でぎゅっと握りしめた。
「ノエル……なぜこんなところへ……!」
「どうしても母上に会いたくて……。こっそり部屋を抜け出してきました」
ノエルは泣きそうな顔で笑った。
――「国王陛下のご温情」とは、このことだったのか。
王は、ノエルが自分に会いに来ることを知っていた。
それでも、止めなかったのだ。
クラリッサは唇を噛み締めた。
「……そう。会えて嬉しいわ、ノエル。でも危険なことはやめてちょうだい」
「申し訳ありません……。でもどうしても母上に会いたくて……その……聞きたいことがあって……」
ノエルは視線を下げた。
そのままじっと繋がれた手を見つめて、ぽつりと呟いた。
「僕は……僕の父上は……その……」
(……ああ、やはり知ってしまったのね。この子は全てを……)
ノエルがここへ現れたときから、クラリッサは薄々勘付いていた。
自らの罪と出生の秘密を――この子が、とうとう知ってしまったのだと。
覚悟はしていた。母親である自分が囚われたのだ。いつまでも隠し通せるはずもない。
だが、せめて裁判が始まるまでは、伏せておいてほしかった。
――まさか。王はもうこの子の処遇を決めてしまったのだろうか。
もしや……この子は城を出されるのだろうか。
そんな不安が、胸をよぎった。
だからこそ、最後に会うことを止めなかったのではないか――。
「……母上?」
黙り込み、みるみる顔を青くするクラリッサに、ノエルは不安げに呼びかける。
「ごめんなさい……。もう聞かないから、そんな顔しないで……」
ノエルは溢れそうになる涙を必死に飲み込んだ。
――聞いてはいけないことだったのだ。
ノエルは、冷えきった母の手を、さらにぎゅっと握りしめた。
「いいえ、いいえ……ノエル。聞いてちょうだい」
クラリッサはもう一方の手を鉄格子の隙間から伸ばし、ノエルの柔らかな頬に触れた。ひんやりとした指先が、ノエルの肌を撫でる。
「……母様は罪を犯したの。母様は……陛下を裏切り……あなたを産んだの」
ノエルの肩がびくりと震えた。
「いけないことだと、わかっていたの……。それでもね、母様はあなたを産んだことを、一度も後悔したことはないわ」
「かあさま……」
ノエルは涙に濡れた顔を上げた。
「どうして……どうしてなのですか……? 父上のことが、嫌いだったのですか……!?」
クラリッサは息を飲んだ。
「嫌いだったのか」と問われて、胸の奥が揺れる。
違う。
決して、嫌いだったわけではない。
政略結婚だ。ほとんど顔を合わせたことさえない二人だった。けれど王は、クラリッサを決して蔑ろになどしなかった。それどころか、よく話しかけ、贈り物をして――良い関係を築こうと努力していた。
だが、すでにすぐ側に想い人がいたクラリッサにとって、王のその優しさは、むしろ煩わしいものだった。
そしてそれが、ますますルシアンへの想いを募らせることになった。
――思い返してみれば、王とて望んだ婚姻ではなかったのかもしれない。
もしかすれば、王にも他に想い人がいたのかもしれない――。
そんなことにさえ思い至らず、クラリッサはただ悲恋に酔っていたのだ。
「……いいえ。陛下はとても優しかったわ。母様が、その優しさに甘えていたの……」
クラリッサは目を伏せた。
あのとき、きちんと向き合っていれば、こんなことにはならなかったのではないか――。
ノエルを産んだことに後悔はない。
だが、この子が王との子だったなら――。
そんなありもしない想像が、ふと脳裏をよぎる。
クラリッサは小さく頭を振った。そんなことを考えたところで現実は変わらないのだ。
「……それで、ノエル。陛下はあなたを……どうなさるおつもりなのかしら? 何か、言われた?」
クラリッサは、不安に揺れる瞳でノエルを見つめた。
「……王位継承を放棄するように、と。そうしなければ、僕が旗印にされてしまうから、と」
「旗印?」
「ヴァルネが攻めてくるかもしれないそうです。兵が国境沿いに集まっていて、危ないと」
「……なんですって?」
クラリッサは目を見開いた。
「きっと、母上を助けるためですね」
ノエルはにこりと微笑んだ。
「戦争になるのは困るけど……母上が助かるのなら、僕はそれでもいいかなって――」
「いけません――ッ!」
クラリッサの大きな声に、ノエルが目を丸くする。
「戦争になれば、どれだけの人が傷つくか……。ノエルが憧れている騎士たちも、慰問先で仲良く遊んだ孤児たちも……皆、死んでしまうかもしれないのよ」
「でも……かあさまが……」
「母様は罪を犯したの。罪を犯せば裁かれる。当然のことよ。だからあなたは絶対に、戦争を望むようなことを言ってはいけない」
自分が言えたことでないのは、重々承知していた。それでもこの子には、真っ直ぐに生きてほしかった。
「もし、ヴァルネの人に『母様を助けるためにノエルの力を貸して』と頼まれても、決して頷かないでちょうだい。あなたが戦争に利用されてしまうわ」
クラリッサは眉を下げて口ごもるノエルを、真っ直ぐに見つめた。
「ヴァルネはあなたを守ってはくれない……。母様は、ノエルが傷つくのが一番辛いの。だから、ノエル、約束して? 陛下のおっしゃることをよく聞いて、いい子にすると」
ノエルがもっとも安全に暮らせる場所は、レグナートの王宮をおいてないだろう。
幸いなことに、ノエルは継承権こそ剥奪されたが、王族としての権利を奪われたわけではない。陛下のおそばで大人しくしていれば、このまま王宮に留めてもらえるかもしれない。
クラリッサにできるのは、それをノエルに言い聞かせることだけだった。
「……わかりました」
ノエルは小さく頷いた。
「いい子ね、ノエル。あなたは母様の誇りよ。……いつまでも素敵なあなたでいてね」
クラリッサは、精一杯の笑顔を浮かべた。
「さあ、もうお行きなさい。そして二度とここへ来てはいけないわ」
「なぜですか? 僕はまた母上に会いたいです」
その真っ直ぐな言葉に、クラリッサは込み上げる涙を必死に堪えた。
「……母様も、あなたに会いたいわ。でも――母様に会いに来ていると知られたら、あなたまで悪く思われてしまうわ」
「バレないように来ます! 今日も誰にも見つかりませんでした!」
ノエルは懸命に訴えた。
その様子に、クラリッサは悲しげに首を横に振る。
「そういうことではないのよ、ノエル」
「……?」
「今日は見つからなかったかもしれない。けれど、悪いことをすれば、いつかは必ずバレるのよ。……母様のようにね」
クラリッサは、ノエルの手をそっと握り直した。
「だからあなたには、隠さなければならないようなことを、初めからしてほしくないの。たとえバレなかったとしても、いけないことはいけないことなのよ」
クラリッサは眉を下げて微笑んだ。
「……わかり……ました……」
肩を落として去っていくノエルを、クラリッサはいつまでも見つめていた。
二度と会えないかもしれない我が子の姿を、目に焼き付けるように。
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