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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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19/22

19.ノエル

「お呼びと伺い、参りました」


 入室してきたノエルを、王はしばし黙って見つめた。


 ノエルが実子でないと知ってから、こうして二人きりで、真正面から顔を突き合わせたのは初めてのことだ。


 歳の割にがっしりとした体躯。太く硬い髪……。

 ――こうして見ると、なぜ今まで疑いもしなかったのか不思議に思うほど、ノエルには自分の面影がなかった。


「はあ……」


 王の口から、深いため息が漏れた。


「……父上?」


 ノエルが困惑したように声を上げる。


「ああ……すまんな」


 王は机の引き出しから、一枚の紙を取り出すと机に滑らせた。


「お前にはこれに署名してもらう」


「これは……?」


「王位継承権の放棄を認める書類だ」


「王位……。それは……ギルバート様が王太子になられたからですか?」


 ノエルは眉を顰めた。


「……なぜそう思う」


「それは……ギルバート様と僕は、母上が違いますから……その……僕を疎ましく思っていらっしゃるのかと……」


 王は小さく息をついた。


 やはり、この子には全てを話さなければならない。

 中途半端に理由を伏せれば、いずれ遺恨を残すことになるだろう。


「違う。ギルバートが王太子になったから、お前に継承権を放棄させるのではない」


「だったら、どうして……?」


「……長い話になる。ひとまず、座れ」


 王は侍女を呼び、紅茶の手配を頼むと、ソファへ移動して腰を下ろした。

 そして、向かいの席をノエルに示す。


 侍女が紅茶を入れる間、王は一言も話さなかった。

 ノエルもまた、何か尋ねようとしては口を閉ざし、落ち着かない様子で、ただ王の顔をちらちらと窺うことしかできなかった。


 やがて扉が閉まり、部屋に二人きりになると、王は、目の前に座るノエルを静かに見つめた。


「……今から話すことは、お前にとっては酷な話だ。全てを受け止めきれぬだろう……。だが私は、王の名において、包み隠さず、真実だけを述べると誓おう」


 ノエルは目を見開いた。


『王の名において誓う』――その言葉がどれほど重い意味を持つのか、王族として育てられてきたノエルは理解していた。


 誓いを違えれば、王の座を追われることさえある。

 それほどの覚悟を示す、最上級の誓いの言葉だ。


 ならば、これから父が語ろうとしていることは、一体どれほど重大なことなのか。


 ノエルは、知らず知らずのうちに息を呑んでいた。


「お前が事情を知らなければ、これから先、お前を担ぎ上げて良からぬことを企む者が現れるかもしれん。だからお前には、全てを話す」


 真っ直ぐな王の目に射抜かれ、ノエルはみるみる顔色を悪くする。

 心臓がどくどくと嫌な音を立てる。


 これから告げられるのは、決して良い話ではない――そのことだけは、ノエルにもわかった。


 思わず俯き、黙り込んだノエルに、王はふっと目元を緩めた。


「ただ、知っておいてほしい。お前には一切の咎がない。そして母も……この私も、お前のことを変わらず愛している」


 先ほどまでの張り詰めた声とは違う、穏やかな声音に、ノエルはぱっと顔を上げた。


 そこにあったのは、いつもノエルに向けられていた、厳しくも優しい父の眼差しだった。


 ノエルは、詰めていた息を、ふっと吐き出した。


 しかし――。



 直後に告げられた真実に、ノエルは再び息を詰めることになる。



 ◇



 王との話を終えたノエルは、自室でただ呆然としていた。


 自分が父の子ではないなど、考えたこともなかった。


 何より、いつも自分を慈しみ、惜しげもなく愛情を注いでくれていた母が、家族を裏切り、国を売ろうとしていたなど、到底信じられることではなかった。


 きっと何か事情があったのだ。母が、ただ恋情に駆られたという理由で、こんなことをするはずがない。


 ノエルは王に「母に会いたい」と願った。

 どうしても母から直接話を聞きたかったのだ。

 しかし、その願いが聞き入れられることはなかった。


 それになにより――。


「母上は……どうなるのですか?」


 震える声で問うたノエルに、王はただ目を伏せるだけだった。


 ――このままでは、二度と母に会えなくなるのではないか。


 考えるほどに、胸の奥がキュッと痛んだ。

 ノエルは膝を抱え蹲ると、溢れ出る涙を袖でゴシゴシと拭う。


「母上……」


 その小さな声に応える者は、いない。


「母上……!」


 何もしないでいたら、本当に母が消えてしまいそうだった。


 ――会わなければ。




 その夜――


 ノエルは部屋を抜け出した。



 ◇



「行ったか……」


「は。現在、ノエル殿下に気取られぬよう、護衛五名が密かに付き添っております」


「では予定通り、北の塔の出入り口の鍵を開け、護衛を引かせろ」


「承知いたしました」


 黒づくめの服に身を包み、深くフードを被った男――王室に仕える『影』の一人は、王の前で頭を下げると、音もなく姿を消した。


「……大丈夫でしょうか」


 ソファに腰掛けていたギルバートが、小さく呟いた。


「なんの心配だ?」


 窓の外を眺めていた王が、振り返る。


「あの子はまだ十歳です。信じていた母の知らない一面を知った今、落ち着いて彼女と向き合えるのでしょうか」


「無理だろうな」


 王は当然のことのように言った。


「それでも、ノエルがこの事実を受け入れるには、クラリッサ自身の口から話を聞くしかない。それも、自ら行動し、自分の力で真実を聞き出したのだと、ノエル自身が思えることが大切だ」


 反逆の罪に問われている者との面会を、そう簡単に認めるわけにはいかない。

 ましてやノエルはまだ十歳。たとえ特例で認めたとしても、面会には多くの護衛を立ち会わせることになる。


 それでは、ノエルがクラリッサから真実を聞き出すことは難しいだろう。

 それに、こちらが用意した場で真実を聞かせれば、後になって「あれは父上が用意した筋書きだったのではないか」と、疑念を抱く可能性もある。


「しかし、クラリッサ様がノエル殿下に真実を語るとは限りません。最悪、ノエル殿下の怒りの矛先がこちらに向くよう、誘導する恐れも……」


 ギルバートは眉を寄せた。


「そうだな……。正直なところ、今のクラリッサが何を考え、どのような選択をするのか、私にはわからん」


 王は小さく息をついた。


「それでも、ノエルの居場所はレグナートにしかない。――今、私がノエルを切り捨てれば、あの子はヴァルネへ向かうだろう。だが、ヴァルネの王がノエルを慈しむか? 実の妹さえ駒のように扱う男だ。戦争の旗印に利用されるか、あるいは今回の騒動の元凶として、すべての責を負わされるか……。いずれにしろ、あの子が平穏な生活を送れるとは思えん。クラリッサとて、それは理解しているはずだ」


「母の愛に賭ける、ということですか……」


「ああ。――もしものときは、ノエルを切り捨てる」


 王は窓の外へ視線を戻した。

 その横顔には、王としての冷徹な覚悟が浮かんでいた。


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