11.王妃の兄
王城の応接の間にて――
旅の汗を流したグレゴールは、優雅に紅茶を口に含んだ。カップを傾けるその瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
向かいに座るのは、カーボネス公爵家当主であり、外務卿を務めるエドガー。
エドガーの背後には三人の護衛が控え、さらに、部屋の四隅にも武装した騎士が一人ずつ、微動だにせず立っている。
(――やけに物々しいな)
グレゴールは内心で眉を寄せた。
結局ここまでで得られた情報は、王太子ライオネルが重大な違反行為を犯し、王位継承権を剥奪されたという事実のみ。
その「重大な違反行為」が何なのか。そして、新たな王太子となったギルバートがどのような人物なのか。グレゴールは何一つ掴めていなかった。
「……して、エドガー殿。なにやら王太子の変更があったとか。是非、新たに王太子となられたギルバート殿に、ご挨拶を差し上げたいのだが」
グレゴールは内心の疑念を微塵も出さずに、笑顔で問いかけた。
「ええ。非常に残念なことに、ライオネル殿下は王位継承権を剥奪されました。そして、新たな王太子となられたギルバート殿下は、結婚式の準備で大変お忙しく……なにせ急な交代でしたからね。閣下のお言葉、このエドガーが責任を持ってお伝えいたしましょう」
エドガーもまた、にこやかに返した。
互いに笑顔を浮かべながらも、室内にはどこか張り詰めた空気が漂っていた。
「そうか……それは残念なことだ。我が妹も、さぞや気落ちしていることであろう。そういえば、我が妹――王妃クラリッサの姿が見えぬようだが? 王太子の婚礼だ、準備で忙しいのか?」
グレゴールは太い指でカップを置き、探るような笑みを浮かべた。
「実の兄であるこの私が出向いたのだ。顔くらい出しても良かろうに」
その言葉に、エドガーは表情を一転させると、悲しそうに眉を下げる。
「……大公閣下。これ以上隠し立てすることもできませんゆえ、率直に申し上げます」
エドガーは一度、静かに息を吐いた。
「王妃クラリッサ様は現在、北の塔にて拘束されております」
「……何だと?」
あまりにも平然と告げられた言葉に、グレゴールの笑みが引きつった。
「ふざけているのか?」
低く、硬い声だった。
肘掛けを握る手にぐっと力が入り、殺気を孕んだ瞳が、まっすぐにエドガーを射抜く。
グレゴールの護衛が、カチャリと静かに剣の柄へ手をかけた。
それに応じるように、エドガーの護衛、そして部屋の四隅に控えていた騎士たちの手も一斉に柄へと渡った。
誰一人として一歩も動かない。
互いの護衛が刃を抜かぬまま睨み合い、部屋には、今にも戦闘が始まりそうなほど張り詰めた空気が漂っていた。
だが――エドガーの顔には、微かな動揺すら浮かんでいなかった。
エドガーはゆるりと立ち上がると、一触即発の空気など存在しないかのような足取りで、グレゴールへと歩み寄る。
――グレゴールの護衛の眉が跳ね上がり、さらに剣の柄を握る手に力がこもる。だが、エドガーは意にも介さない。
そのままグレゴールの元へと辿り着くと、心から同情しているかのように、彼の肩へそっと自らの手を添えた。
「……お気持ちは、痛いほどお察しいたします。……このようなお話をお伝えすることとなり、私も実に心が痛む」
その声音はどこまでも優しく、包み込むように穏やかだった。
「王妃様にかかった罪状は……不義密通でございます」
「な……ッ!?」
あまりの言葉に、グレゴールの思考が一瞬停止する。
だが、次の瞬間には怒りが込み上げてきた。
「戯れ言を言うな!!」
グレゴールはエドガーの手を振り払い、立ち上がった。重厚な机がガタリと揺れる。
「王妃の重責を立派に務める我が妹が、色に溺れるなどあり得ん! クラリッサはヴァルネの誇り高き姫だ! なにかの罠だ、言いがかりだ!!」
「私共も何かの間違いだと思いたかった……。しかし――ノエル殿下が陛下のお子でないことを、王妃様自らがお認めになられたのです」
グレゴールの怒声を粛々と受け止めたエドガーは、静かな声音で言葉を重ねると、深く、悲しげに息を吐き出した。
「こちらをご覧ください、大公閣下」
そして、懐から一枚の書面を取り出し卓上に滑らせる。それはノエルを不義の子と認める、王妃クラリッサの署名が入った供述書であった。
グレゴールは震える手でその紙をひったくり、貪るように目を走らせる。
「……なんだ……? クラリッサの署名……? いや、だが……」
文字を追うごとに、グレゴールの顔から一気に血の気が引いていく。
『第二王ノエルは不義の子である』
『父親は自身の護衛騎士を務めた、ルシアン=グレイヴ。ヴァルネ王国近衛騎士団所属、グレイヴ伯爵家の三男である』
「バカな……クラリッサ……お前は、なぜそんなことを……」
供述書を握りしめたまま、グレゴールは崩れ落ちるように、椅子へと座り込んだ。
怒りとも悲しみとも取れぬ表情で小さく肩を震わせるグレゴールを、エドガーはしばし黙って見つめる。やがて、落ち着いた声色で告げた。
「つきましては、ルシアン=グレイヴ様の身柄の引き渡しをお願いいたします」
「……ッ!」
王妃の不義密通の相手なのだ。事実関係を明らかにするためにも、その身柄を求められるのは当然のこと。
だが――それは、ルシアンを死地へ送り出すことに他ならない。
王妃との不義密通は、多くの国において極刑に値する大罪だからだ。
しかしルシアンは、長年クラリッサに仕えてきたヴァルネの騎士である。幼い頃から彼女の傍に仕え、その身を守ってきた男だ。
その男を、たった一度の過ちで、みすみす他国へ引き渡してよいものか。
グレゴールは、固く握りしめた紙へ視線を落とした。
「……本国の指示を仰がねばならぬ。だが……その前に、クラリッサと話をさせてもらえぬか?」
グレゴールは、縋るような思いでそう口にした。
妹の口から直接この耳で聞くまでは、どうしても信じることができなかった。いや、信じたくなかったのだ。
「承知しました。陛下には私から申し上げておきます。……本日は、これ以上のお話は難しいかと存じますので、続きは改めて」
エドガーは小さく一礼すると、部屋をあとにした。
◇
客用の離宮にあてがわれた自室に戻ったグレゴールは、誰の立ち入りも許さず、一人暗い部屋の中に佇んでいた。
卓上に置かれたランタンの灯りが、壁に大きく彼の影を映し出している。
「……くそッ!」
グレゴールは卓上のグラスを握り潰さんばかりに強く握ると、一気に強い酒を喉へと流し込んだ。
喉を灼く熱い感覚すら、胸の中に渦巻く重苦しい感情を消し去ってはくれない。
本当にクラリッサが不実を犯したのか。ルシアンを引き渡すか否か。――そしてなにより、ノエルはどうなってしまうのか。
ノエルはまだ幼いということで、公式な式典へ顔を出すことは少ない。グレゴール自身も、ノエルが一歳を過ぎてからは、その姿をほとんど見ていなかった。
だが、産まれた頃から一歳ごろまで、あの子はヴァルネで過ごしていた。丸くふくふくとした愛らしいノエルを、グレゴールは何度となく抱き上げた。
生まれてきたノエルに、何の咎があるというのか。
だが……もしあの子が本当に不義の子だとすれば――レグナート王国にとって、その存在を許すことはできないだろう。これまで通り王子として遇し、王族の一員として育てていくことなど、到底できるはずもない。
だからといって、仮にヴァルネで引き取ったとしても、『不義の子』という烙印を背負ったノエルを見る目が、厳しいものになることは避けられない。
「なぜだ……クラリッサ……なぜだ……ルシアン……」
暗い部屋の中で、グレゴールの声だけが虚しく響いていた。




