2章:5節【過ちは去りとて】
エーテ・ミラ神教本部――。
霊峰エテミラスティアの中腹に広がるその巨大な施設には、
教団で働く信徒たちの住居も併設されていた。
司教ともなれば個室を与えられ、そこから礼拝や巡礼の計画を立てるのが日常となる。
レミオ・サン=ヴァルもまた、その一人だった。
その日、彼は机に向かって巡礼計画の書類に目を通していた。
「昨年はミトラ帝国を巡りましたが……今年はゼフィレイア王国を巡礼いたしましょうか」
計画書の脇に置かれた報告書を手に取る。
「近頃、“聖獣”と呼ばれる存在が活動している……か。
彼の者の正体はいったい……」
何度読み返しても、記述は変わらない。
「各地での魔獣討伐、高度な知識の教授、血咳症の治療……
女神と称される人物を伴い、民を救って回る存在……」
レミオは報告書を机に戻し、深いため息をついた。
「“エーテ・ミラ神の御使い”であるという声も上がっているが……
ならば、なぜ我々の元にお越しにならないのか……。
それに教義では女神とはエーテ・ミラ神ただ一柱。
人間が女神を称するなどと、御使い様が許されるものだろうか?」
額に手を当て、思索に沈む。
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします、レミオ司教」
現れたのは、アントス・ヴァリカ・ラグナーダ――教団の大司教であった。
「これはアントス大司教。何か御用でしょうか?」
「いえ、今年の巡礼計画が決まらないと伺いましてね。
少し気になったのです」
「お気遣いありがとうございます。今年はゼフィレイア王国方面に……。
順路計画については追ってご報告いたします」
アントスは穏やかに微笑んだ。
「それは良い判断でしょう。
かの国には“聖獣”が降臨されたと囁かれておりますから」
レミオは頷く。
「ええ、その真偽を確かめたく……可能ならお姿を拝することができればと」
「なるほど。
王国では辺境の魔獣被害が深刻だとか。
危険ではありますが、そこであれば出会える可能性は高いかもしれませんね」
「大司教様は王国の状況まで調べておいでなのですか?」
「ええ。教団員の安全を守るのも、私の務めですから」
アントスは柔らかく笑った。
――巡礼の最中。
レミオは、辺境の村々で魔獣災害の爪痕を目の当たりにした。
「これは……酷い。
運んでいる食料を可能な限り民に分け与えなさい。
本部との連絡役に、今後はより多く運ぶようにとも」
配給を進める中、レミオは瓦礫の上で俯く騎士に声をかける。
「どうぞ、こちらを」
「私は結構だ。その一切れのパンですら、今の民には貴重な食糧だ。彼らに与えてくれ」
しかし、彼の表情は明らかに憔悴していた。
「彼らからの願いなのです。
あなたのおかげで子どもたちの避難が間に合ったと……。
今後も彼らを守るために、どうか力をお付けください」
「……感謝する」
騎士はパンを受け取り、豪快にかぶりついた。
「美味いな……」
その言葉に、レミオは静かに微笑んだ。
――ファルステイン伯爵邸。
巡礼の途中、レミオはローデリク・ファルステインの招待を受けた。
「これは司教殿、よく来てくださった」
「この度はご招待いただき誠にありがとうございます、伯爵様」
「堅苦しい挨拶はよい。辺境の民が世話になったと聞く。
貴族としてこのくらいの礼儀は示さねばならん」
「ただ持っていた食料をお譲りしただけのことです。
それにしても……聖獣様の手はここまで届いてはいないようですね……」
レミオはこれまでの道程を思い返し、眉を寄せた。
「ふん……噂には聞いているが、ウィンター・ホルン中心部での活動に留まっているらしい。
ここは四大地方の境界にあたる僻地。
聖獣どころか、王国の助けすらろくに来ない場所だ」
「そんな……魔獣に追われた民が集まっていると聞きます。
彼らはいったいどうすれば……」
それを聞いたローデリクの瞳が怪しく光った。
「ほう……それは由々しき事態であるな。この私が彼らを庇護しようではないか」
「本当ですか? それは喜ばしい。我々も協力を惜しみません」
「うむ。共に民の安寧を守ろうではないか」
――教団本部、地下施設。
一時帰還したレミオは、アントスに呼び出されていた。
「アントス様、ここは……?」
「教団でも高位の者しか入ることが許可されていない場所……。
古代の技術が眠る、中枢部です」
巨大な結晶が並ぶ光景に、レミオは息を呑んだ。
圧倒されて固まる彼に、アントスは憂いを帯びた表情で語りかける。
「ゼフィレイア王国の辺境……酷い状況だと聞いています」
「はい……避難はできているようですが、土地は荒れ、食事もままならず……。
聖獣様は何をなされているのか……」
「……聖獣様と言えど、手の届かぬ場所もあるのでしょう。
降臨したばかりで本調子ではないのかもしれません」
「ですが……」
言い淀むレミオを尻目に、アントスは結晶の一つに近づいていく。
「ここに並ぶ巨大な結晶……
これは古代の力、“エーテル”が凝縮したものです」
「“エーテル”……」
「ええ。エーテ・ミラ神の力の一端。“奇跡の力”の根源とも言えるものです」
レミオは息を呑む。
「エーテ・ミラ神はいざという時のために、その力をここに保管しました。
その時が、まさに今なのかもしれません。そこで……この結晶を一つ、あなたに預けます」
「しかし、一体どうすれば……」
「聖獣様にお渡しください。
あの方がこの結晶によって本来の力を取り戻せば、王国の魔獣被害など一掃できるでしょう」
「なるほど……! ではすぐにでも――」
レミオが言い切る前に、アントスは振り返り、微笑みながら首を振った。
「これはエーテ・ミラ神教の至宝。扱いは慎重に行わなければなりません。
これほど巨大なものですから、運搬には相応の準備も必要になります。
手配はこちらで行いますので、あなたは王国内で信頼のできる方と連絡を取り、受け入れの準備を」
穏やかな物言い。
しかし、そこには有無を言わせぬ圧があった。
「わ……分かりました、よろしくお願いいたします」
気圧されたレミオはただ深く頭を下げ、地下室を後にした。
その背を見送りながら、アントスは結晶の並ぶ中枢部へと向き直る。
その瞳には――
静かに、しかし確かに、深い策略に色が宿っていた。
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