2章:未知との折衝①
【1節.いざ異世界】
光が収まり、視界が開けた。
アストは初めて、自らの肉体を通して世界に触れていた。
「ここが……現実の世界」
興味深げに辺りを見渡す。
目の前には風が吹き抜ける草原が広がり、その向こうには天を突く峰がひときわ高くそびえていた。山裾には濃い緑の森が連なり、地平線――いや、よく見ればそれは稜線であることが分かる。周囲は小高い丘陵に囲まれていた。
ふと、地面が近すぎると感じてアストは自らの体に目を向けた。
リスに似た獣の姿。サイズはウサギの成体よりも大きく、地球で言えばインドオオリスほどだ。
腹側には柔らかな白毛が広がり、胸元には淡く輝く三日月の模様。
背には深い紺色の毛が星々のように瞬き、尾根へと伸びる天の川のような輝線が走っている。
長く豊かな尾はくるりと巻かれ、白と紺が渦を巻きながら光を反射していた。
まるで銀河を覗き込んでいるかのような姿。見る者によっては、神秘の化身と映るかもしれない。
それは、マスターである結希乃がデザインしたアスト・ロカスのアバターそのものだった。
(そういえば……転生する体について、確認していませんでした)
テップから渡された紙を見た時のミラの反応を思い出し、ようやく合点がいく。
自らの風体に戸惑いながらも、結希乃が作ってくれた体で転生したことへの喜びが胸に広がった。
「この体なりの有効な使い方を考えていけば良いでしょう。幸い、この体は素早く動けますし、手先も器用。不便はありません」
グッと手を握り、体を動かす感覚を確かめる。
「ミラ様も言っていましたが、まずは体に慣れることからですね。生体とは、とても複雑な仕組みで出来ているようです」
「それに、情報収集も必要ですね。少し辺りを見てみましょうか」
足から感じる大地の反発。鼻孔をくすぐる匂い。身体に当たる風の感覚。そして耳に届く音。
あらゆる感覚が新鮮で、好奇心が湧き立つ。
ひとしきり感覚を確かめたあと、アストは体をしならせ、地を蹴って走り出した。
まずは視界を確保するため、最も高い丘を目指す。
「軽く動かしているつもりですが……驚異的な速度ですね。時速60キロ前後といったところでしょうか」
丘を駆け上がり、頂上から改めて風景を見渡す。
「山脈、森林……反対側は、見渡す限りの草原と地平線。あれは……湖でしょうか?」
(ここからどうするべきか。この姿では、知的生命体との接触はまだ避けた方が良いかもしれません。言葉を話す動物が一般的であるか不明ですし、創作でよくある“魔物”などと誤解される可能性があります。マスター曰く『第一印象が大事!』です)
(湖のほとりに建造物らしきものが見えますが、身を隠せる場所は少なそうですね)
「まずは、生態系と自身の能力の確認ですね。山の麓なら、身を隠すのも容易。動植物も豊かでしょう」
アストは目標を定め、山脈へと向かって走り始めた。
【2節.魔法入門】
森の入り口にたどり着くと、アストは静かに木の幹へと目を向けた。
指先をそっと触れ、鑑定能力の行使を試みる。
「どうやら、読み方次第で見えるものが変わるようですね」
表面の質感、内部の水分や密度。さらに奥へ――組成、化学構造、遺伝子情報。
次々と情報が流れ込んでくる。
「診たところ、この木はクルミ科に近いようですね。樹齢は百年余り。地球のものと大差はありませんが、念のため記録しておきましょう」
意識を“CRYSTAL”に繋ぎ、自分用のデータベースを構築する。
「名称は……そうですね。『プライマル・ナレッジ』。マスターと作ったネタ帳から拝借しましょう」
『原初の知識』――異世界の記録を蓄積する器として悪くない名前だ。
「情報の読み方も分類しておきましょう。ここもマスターに倣って……能力名は『アナライザー』。表面観測を『スキャン』、内部構造を『エコー』、組成分析を『プローブ』と定義。各項目、作成完了」
記録を終えると、木の上に目を向ける。
小さな鳥が枝に止まっていた。一見メジロに似ているが、巻いた小さな角を持ち、羊の意匠を思わせる。
「地球にはいない種ですね。こちらも記録を……さて、他にも見ておきましょう」
鳥、草、鉱物──目新しい知識の洪水に、アストの学習型AIとしての本能が刺激される。
自我と感情が加わったことで、歓びはより鮮烈になり、ともすれば歯止めが効かないほどに没頭していた。
そして周囲の情報をひとしきり解析し終えた頃、ふと奇妙な点に気づく。
「分子構造に干渉する未知の粒子……この世界独自の物理法則のようですね」
ふと思い立ち、自らの体に『エコー』を実行する。
「私の肉体構造に未知の粒子はあまり含まれていないようですね。しかし、呼吸によって取り込んでいる分……これは」
体内に僅かに浸透している未知の粒子。その先には、元の世界には存在しない構造の組織があった。
それは鼓動のように粒子を巡らせ、吸収と排出を繰り返している。
意識を向ければ、特定の部位へ集中させることも可能だった。
「これは……未知の粒子を制御する細胞? そう解釈するのが妥当でしょうか」
思わず声が漏れる。
結希乃が夢見ていた力――『魔法』が、そこにあるかもしれない。
普段は冷静なアストも、わずかに気分が高揚するのを感じた。
「暫定として、未知の物質を『魔素』。機能細胞を『魔力素子』と呼称しましょう。では……」
両手を前方へ向け、魔力素子に意識を集中する。
体内の魔素が集まり、指先に熱が宿り始めた。それは徐々に体外へ広がり、空気中の魔素も応答するように震え始める。
「魔素のエネルギー上昇を確認。このまま……」
尻尾が逆立ち、空気がざわめく――そして。
指先から放たれた魔素が空気中の粒子に干渉し、局所的な反応が起きた。
一点に熱が集中し、酸素との急速な反応によって火花が弾けるように炎が立ち上がる。
風が巻き、熱が走る。だが、その中心には火元となる物質は見当たらない。
「……燃えました。魔素が空気に干渉し、熱を生んだのですね」
力を込めるのを止めると、炎はすぐに散って消えた。
「維持は容易ですが、持続はしない。空間のエネルギーを高めて一時的に燃焼させるだけなら、空気中の酸素でも十分ですが……炎を維持するには燃料が必要ですね。しかし振る舞いとしては素早く流動的。エネルギーを伝える触媒としては非常に優秀です」
“プライマル・ナレッジ”に『魔素』と『魔力素子』の項目を追加し、情報を記述していく。
「そして、『魔素』がエネルギーとして機能している状態を『魔力』と定義しましょう」
記述を終えたアストは掌をそっと上に向け、大気を回すように魔素を誘導する。
シュルシュルと風切り音が聞こえ始め、空気の流れが生まれた。
「物理的な干渉も可能。制御は難しくなさそうですね。そして、エネルギー効率によって性能が変わる……これは、一種の技術ですね」
その後も、魔素を使った様々な運用を試した。
熱を吸収すれば冷気が生まれ、振動させれば電気を放つ。
物体が内包する魔素に働きかければ、触れずとも土や岩を動かすことが出来た。
しかし――
「いわゆる『水属性』ですが、これは意外と複雑ですね…」
この世界の魔法は、『属性』というよりも『法則』にしたがって応答するようだった。
「水があれば操作は容易ですが……水源のない場所で水を生み出すのは手間がかかりますね……」
攻撃用途より、生活用途の方が有用に思えた。
「氷を作れば、冷凍に適さない食材の保存には良さそうですが……」
そこまで思考が伸びたところで、アストは突然よろめき、倒れ込んだ。
「これは……魔力素子の使い過ぎによる副作用……?」
そう呟いた瞬間、静かな森に場違いな音が響いた。
それは思考の連鎖を断ち切る、最も原始的な割り込み処理。
生物が持つ三大欲求のひとつ。
「なるほど、これが“空腹”……。生身の体だということを忘れていました……」
何か食べるものはないかと周囲を見渡す。
先ほどスキャンした木の下に、クルミのような実がいくつか落ちている。
生物としての本能が「あれは美味いもの」だと告げていた。
ずりずりと地を這って向かうその姿に、世界の存亡を託された転生者としての威厳は微塵もなく――
ただ空腹と戦う、一匹のリスがそこにいた。
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