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12章:人々の思い、一人一人の想い②

【2節.エヴァ・クロウフォード】


皆が退出していく頃には、館の窓から差し込む光が、夕暮れの色へと変わり始めていた。


エヴァはアストを膝に乗せたまま、しばらく沈黙していたが――

やがて、落ち着いた声で口を開いた。



「お時間をいただきありがとうございます、アスト様。リンネお姉さまが何も言わずに出て行かれたのは、少し不思議でしたが……」



リンネは、眠気に負けそうだったリュミナを客室へ連れて行ったのだ。

その際、何かを託すような目配せをされた気もするが──。



「リンネの言動は自由奔放で自己中心的ではありますが、決して愚かではありません。貴女が私と話したがっている雰囲気を察したのでしょう」



その言葉に、エヴァは小さく頷いた。



「そうですね……お姉さまは本当に優しい方です。ご存じですか? アスト様がグラナテイルに赴いていた二ヶ月の間、領主の任を途中で引き継いだ私を、カイルや父たちと共にずっと支えてくださったのですよ。一度だけですが、私があまりに無理を続けるので、紅茶に睡眠薬を入れられたこともありました」



薬を盛られたという話にアストが目を丸くすると、エヴァはくすりと笑って続けた。



「もちろん、皆に頼まれてのことだったそうです。それに、その時は私がほとんど一日中眠ってしまって……“食事も水分も取らないのでは、かえって体に悪い”と、お姉さまが言われたそうで。それ以降は、スケジュールと食事の管理だけでした。フロック村への休暇をいただいた時も、体の方はずいぶん楽になっていたんですよ?」



あの時以上に無理をしていたのかと思うと、アストはリンネの献身に対して感謝を新たにした。



「……リンネには、あとで何か一つ、望みを聞いてあげるべきかもしれませんね」



エヴァは「ぜひ、そうしてあげてください」と微笑んだが――

すぐにその表情に陰りが差す。



「私は今、クロウフォードの家督を継ぎ、領主の座を頂いています。ですが……私は女。普通であれば弟の誕生を待つか、貴族の殿方を迎え入れて家督を任せるのが筋だったのかもしれません」



エヴァは胸元で手を握り、少しだけ視線を落とした。



「それでも……父の後を継ぐのは私の夢でした。だからこそ、無理を言って“貴族の学校”ではなく、王家の方々も通う“王都の学院”へ進学させてもらったのです。あの場所で学び、努力した日々は……今でも私の誇りです」



訥々と語られる心情。

リンネの言葉を受け、アストに自分を知ってほしいという思いが芽生えたのかもしれない。

あるいは、話すことで心を整理したかったのかもしれない。


アストはそれをあえて問うことはせず、ただ静かに耳を傾けた。



「父の身を案じる気持ちは確かにありました。ですが……私が直接家督を継げる機会が目の前に転がり込んできた時、思わず飛びついてしまったのです。その恥じた行為を正当化したいがために、つい頑張り過ぎてしまったのかもしれませんね」



自嘲気味に笑うエヴァに、アストは柔らかい声で応じた。



「“人のためだけ”に行動できるのは、美徳ではあります。ですが、行動の理由が人のためだけである必要はありません。何かをしたいと思った気持ちの中に、“自分のため”の理由があってもいい。……その点だけは、リンネを少し見習っても良いと思いますよ」



エヴァはその言葉に、わずかに肩の力を抜き、穏やかな笑みを浮かべた。



「そうですね……お姉さまにも、アスト様にも、そして皆にも。私は教えられてばかりです」



しばし柔らかな空気が流れた後、アストはふと気になったことを尋ねた。



「しかし、学校ですか……どのような場所だったのでしょう? 私も今、ヴェルディアで子どもたちに読み書きや計算を教える場を作っています。参考までに、教えていただけますか?」



エヴァは少し考え、懐かしむように語り始めた。



「そうですね……貴族の子は基本的に家庭教師から初等教育を受けます。ですので、学校で学ぶのは領地の治め方、法律、国内外の地理、歴史、礼法……そして婚約者探しや、貴族同士の付き合い方の機微などでしょうか」



最後の方は、やや苦笑を含んでいた。

どの世界でも、上流階級の付き合いは骨が折れるらしい。



「なるほど……地理や歴史は市民にとっても必要な知識かもしれませんね。ありがとうございます。婚約者探しも行われていたとのことですが……失礼ながら、エヴァ様には婚約を結んだ方はいらっしゃるのでしょうか?」



エヴァは少しだけ目を伏せ、苦笑した。



「幸か不幸か、見つかることはありませんでした。私はクロウフォードの一人娘。ゼフィレイア王国の四大地方の一つ、ウィンター・ホルン一帯を統括する家系です。夫となる相手には婿として来ていただく必要がありますが、貴族の殿方がそれを望むことは稀なようで……」



悲観はしておらず、どこか達観した声音だった。


アストはそこでふと気になったことを口にする。



「そういえば、フロック村に送られた文書などでも爵位の記載を見た覚えがありませんでしたが……現在のこの国には“貴族の格式”のようなものは存在しないのでしょうか?」



エヴァは少し驚いたように瞬きをし、思い出したように続けた。



「そうでしたね。アスト様はご存じありませんでしたか。

クロウフォード家は形式上“伯爵位”を頂いている家系なのですが……」



アストは小さく首を傾げる。



「伯爵……ということは、この国にも爵位制度が?」


「ええ、名目上は。ですが今の王国では、爵位そのものはあまり重視されていません。

“どの地方や都市を治めているか”という立場の方が、よほど意味を持ちます。

ですので、私自身も伯爵位を名乗る機会はほとんどありませんでした」


「なるほど……」



(とはいえ、統括領主の家名を狙う人物が全く現れなかったというのは……何か別の理由があるのでしょうか……?)



「いずれにせよ、社交界を除いて男性との接点は少ない学生時代でした。思えば初恋のようなものもあったかもしれませんが……それも今となっては過ぎ去った感情ですね」



エヴァは懐かしむように微笑んだ。



「どちらかと言えば、女の子同士で話したり、お茶会をする方が楽しかった記憶があります。実は私の同学年に王女様がいまして、当時はとても仲良くしていただきました――」



そこまで語ったエヴァの表情が、不意に曇った。


その理由を悟ったアストは、優しく問いかける。



「その方が……貴女の気持ちを曇らせていた理由なのですね」



エヴァは小さく頷き、その名を告げる。



「イザベラ・ゼフィレイア・シーズン……私の大切な友人であり、この国の第一王女です」



その名は、アストも文献や人々の話から知っていた。



「……あの方が危険に晒されるかもしれない。そのことを思うと、不安に押しつぶされそうになってしまいました。今日の会議も、ほとんど父とヴァルドおじ様に進めていただいて……私は、とんだ“お飾り領主”ですね……」



自嘲するように俯くエヴァ。


アストはしばし彼女を見つめ、言葉を慎重に選んで口を開いた。



「人は、感情に振り回される生き物です。悲しみに沈めば気力を失い、怒りや恐怖に駆られれば、道理を見失うこともある。ですが――何かを成したいと願う力もまた、感情から生まれるものです」



アストの声音は静かだが、芯のある響きを帯びていた。



「顔を上げてください。王女様を案じるその気持ち……リンネの言葉を借りるなら、“心のエネルギー”はすでに十分に満ちています。あとは、それをどこへ向けるかだけです。自分を押しつぶすことに使ってしまうか、大切な人々を救うために使うのか……」



エヴァはゆっくりと顔を上げ、アストの瞳を見つめ返す。


アストはその視線をまっすぐ受け止め、続けた。



「私はこれまで、“聖獣”と呼ばれることを受け入れたことはありませんでした。けれど、人々がそう願うのなら、強く否定することもしてこなかった。その結果が、今回の事態を招いた……私にも責任の一端があります」



アストは一度息を吸い、決意を込めて言葉を紡ぐ。



「争いの行く末がどうなろうと、星の滅びとは関係がない。だから本来、私は介入すべきではないのかもしれません。ですが――」



エヴァの悲しげな表情が脳裏に浮かぶ。



「貴方が“お飾りの領主”であることを悔やむのなら、自分がどう在りたいかを考えてください。私は……この争いを、可能な限り平和的に治めたいと考えています。この際、私も聖獣でも何でもやって見せましょう。エヴァ様、どうか力を貸していただけますか?」



その言葉は、アスト自身の迷いを断ち切るような、静かな決意に満ちていた。


エヴァが王女の身を案じるように、アストもまた、これまで共に過ごしてきた人々を大切な存在だと感じるようになっていたのだ。


エヴァは息を呑み、そっとアストの名を呼ぶ。



「……アスト様」



彼女はアストを持ち上げ、視線を合わせる。



「ありがとうございます……。私に出来ることであれば、何なりとお命じください。この身は、アスト様と共にあります」



そう言うと、エヴァは静かにアストの鼻先へそっと唇を寄せた。



「ふぁっ……!?」



鼻先に触れた柔らかな感触に、アストは思わず声を上げた。

この身体になってから、誰かに“そこ”へ触れられたのは初めてだった。



「我が国に伝わる……誓いの証です」



気づけば、窓の外には月が昇り、淡い光が部屋を満たしていた。


月明かりに照らされたエヴァの姿は、静かに微笑むその表情も相まって――

まるで、『聖獣に寄り添い、誓いを捧げる乙女』かのように見えた。

お読みいただきありがとうございます。

次話も引き続きよろしくお願いいたします。

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