10章:親と子、子と親②
【2節:休暇の提案】
翌朝。
エヴァの腕からそっと抜け出したアストは、静かな廊下を抜けてマルコムの元へ向かった。
館内には朝の冷たい空気が漂い、まだ人の気配もまばらだ。
「おはようございます、マルコム様」
中庭に出ると、マルコムが木剣を振るっていた。
鋭く空気を裂く音が響き、剣筋には素人離れした重みが宿っている。
農耕を主体とする地方の領主とはいえ、
貴族としての鍛錬を怠らない姿勢がそこにあった。
「おはようございます、アスト殿。いや、こうして体を動かせるようになったのも、アスト殿のおかげですな!」
マルコムは手を止め、汗を拭いながら笑顔を向ける。
病に伏していた頃の弱々しさは消え、今は武人のような逞しさすら漂っていた。
「時に……エヴァはまだ眠っておりますかな?」
真剣な声音に、アストは静かに頷く。
「ええ。相当お疲れのようでした。まさに疲労の限界と言ったところでしょうか……」
「うーむ……」
マルコムは眉間に皺を寄せ、深く唸った。
「アスト殿に抱き枕になっていただく手段も、そう何度も通じないと思います」
冗談めかした言葉の裏に、娘を案じる本気の心配が滲む。
アストは、胸の奥に冷たい痛みが走るのを感じていた。
――結希乃の姿が脳裏をよぎる。
過労の果てに命を落とした、あの最後の光景。
(同じ轍を踏ませてはならない)
その思いが、アストの声に強い圧を宿らせた。
「ですが、やはり無理は禁物です。絶対に無理は禁物です。間違いなく無理は禁物です」
珍しく語気を強めるアストに、マルコムは思わず一歩引いた。
「そ、そうですな……」
アストは小さく息を整え、マルコムの肩へ軽やかに飛び乗る。
「そこで、ご提案があるのですが……」
耳元で囁かれた内容に、マルコムの目がぱっと見開かれた。
「……なるほど、それは妙案ですな!」
──朝食の席。
エヴァは昨日よりも血色が良く、姿勢もいくらか落ち着いていた。
それでも目元には疲労の影が残り、無理を押しているのが分かる。
食事の準備が進む中、マルコムが上座に座り、左にはセリーヌとエヴァ。
対面にはアスト、リンネ、リュミナが並び、エルバートとカイルはそれぞれ主人の背後に控えていた。
アスト用に高い椅子の前には、木の実や新鮮な野菜が丁寧に盛られている。
その隣では、リンネがリュミナにテーブルマナーを教えていた。
食事を終えた頃、アストがマルコムにそっと目配せをする。
マルコムは頷き、自然な流れを装って話を切り出した。
「時にエヴァよ。そろそろ納税の時期が迫っているが、フロック村が納める貢納品の内容はどうなっているかな?」
その問いに、エヴァは少し気まずそうな表情を浮かべる。
「フロック村ですか……。あの村はここ最近の発展が目覚ましく、収穫量や交易収入も未知数な部分が多いため、決めかねているのです……」
「それは困ったな。偏りがあっては近隣の村々からの不満を生むだろう……」
わざとらしいほどの言い方に、エヴァはさらに肩を落とす。
事情を知らない者たちは、心配そうに彼女を見守っていた。
「どうだろう。アスト殿は今日にでもフロック村に向かうとのことだ。領主就任の顔見せも兼ねて、視察に行くというのは?」
「ですが、まだ他にも確認しなくてはならない書類が……」
エヴァが戸惑うと、マルコムは胸をドンと叩いた。
「私も復調してきているし、エルバートもこうして帰って来ている。書類仕事をするくらいなら問題はない!」
そう言ってマルコムは後ろを振り返り、エルバートにそっと目配せを送る。
ここまで来ると、さすがに何人かは察したようだった。
エルバートは軽く頷き、悪戯っぽい笑みを浮かべながら口を開く。
「ええ、ええ、エヴァ様。領地の視察も領主として大切なお仕事です。ぜひその目で直接フロック村の現状をご確認されるのがよろしいかと」
エルバートの言葉に、エヴァはようやく頷いた。
「……そういうことでしたら。視察の件、承諾いたしました、お父様。では、カイルと何名かの騎士を伴って、フロック村に向かうことにいたします」
「おっと」
マルコムがわざとらしく声を上げる。
「カイルは将来、政務長官を任せるつもりの人材だ。今のうちにエルバートから仕事を教えてもらった方が良いだろう」
カイルもそれに合わせて頭を下げた。
「申し訳ありません、エヴァ様。引継ぎの仕事が多く、今回の視察には同行することが叶いません」
「そうですか……仕方ありませんね……」
とんとん拍子に決まっていく話に、エヴァは戸惑いながらも受け入れた。
(補佐官であるカイル様が同行しないのは本来不自然……。それすら判断できないほど疲れているということですね)
アストは胸の奥でそっと安堵する。
――休ませる口実を作って良かった。
ふと視線を感じて振り向くと、セリーヌが静かに微笑んでいた。
その目は、母が娘を案じる優しい光を宿している。
アストが視線を合わせると、彼女は僅かに頭を下げた。
リュミナは何が起きているのか分かっていない様子で、リンネも怪訝な表情を浮かべていたが──
マルコムもセリーヌも、子を想う親の顔をしていた。
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