7章:魔素の医学③
【4節:女神】
アストは、特使隊の馬車に揺られていた。
窓の外を流れる景色を眺めながら、クロウフォード家の問題に備えて思考を巡らせる。
その隣で、ひとりだけ旅を満喫している者がいた。
リンネ・トゥリシュナー。
アストがこの世界で初めて救った人間であり、今では“弟子”を名乗る少女だ。
「アスト様と一緒に旅行……このリンネ、感無量です!」
アストは小さくため息をつく。
「旅行ではありません。領主様の問診です。あなたには医療の補助をお願いしたくて同行を頼んだのですよ」
「もちろん分かっておりますとも!」
リンネは胸を張る。
先ほどまでの浮ついた様子が嘘のように、声に落ち着きが宿る。
「診療所の引き継ぎも済ませました。急病人もおらず、持病を持つ方々も彼女たちが対応できます」
雇い入れた少女たちの顔が脳裏に浮かんだのか、リンネの表情には責任者としての静かな自信があった。
……が、次の瞬間にはアストの手を掴んで顔を寄せてくる。
「というわけで! 数日は村を離れても問題ありません! ともにこの旅を楽しみましょう!!」
「ですから、旅行ではないと……」
これさえなければ本当に優秀なのだが、とアストは内心で嘆く。
そんな二人を見て、エルバートが苦笑を浮かべた。
「無事解決していただければ、歓迎の宴を用意いたします。街の案内もいたしましょう。これから向かうヴェルディアは、ウィンター・ホルンでも随一の賑わいを誇る街。珍しい品も多くございますぞ」
その言葉に、リンネの目が一気に輝いた。
宴、観光、そしてアスト様。
彼女にとっては夢のような旅路だ。
一方、特使補佐のカイルはずっと暗い表情をしていた。
アストは気に留めつつも、本題を切り出す。
「そろそろ、詳細を伺ってもよろしいでしょうか」
エルバートは姿勢を正し、重い声で語り始めた。
「……“血咳症”」
彼はその名を重く告げた。
「我々はそう呼んでおります。初期は咳、微熱。
次第に呼吸が苦しくなり、咳に血が混ざり始め、中には幻覚を見る者も出ます。
最終的には大量の吐血に至り……命を落とします」
馬車の揺れに合わせて、カイルの拳が震えた。
「元は鉱山都市で流行した病でしたが……一月ほど前、クロウフォード家の当主マルコム様に症状が現れ、
看病をしていた一人娘エヴァ様にも……。それからは町中へ一気に広がっています。」
アストはリンネへ視線を向ける。
「どう思いますか?」
「肺の病……ですね。症状だけ見れば肺炎や感染症も考えられますし、
それらなら治療の手立てもあります。ですが、進行があまりに早い。
塵肺というにも急性すぎます。それに、幻覚症状が出るというのも説明がつきません。
意識が混濁すれば幻覚を見ることもありますが……普通は症例として挙げられるほど顕著ではありません」
リンネは少し考え、静かに答えた。
「私が以前いた場所で似た病を見たことがあります。診察してみないと断言はできませんが……アスト様なら、治せるかもしれません」
「以前いた場所……?」
アストが問い返すと、リンネは柔らかく微笑むだけだった。
その笑みの奥に、触れてほしくないという影が見えた。
話題を戻すように、リンネは続ける。
「その病ですが、おそらく“魔素”が原因です。淀んだ空気と反応した魔素が肺で結晶化し、呼吸を妨げます。さらに癒着した結晶が次第に拡大、組織を傷つけて出血を起こします」
アストは小さく頷いた。
「魔素が原因の塵肺……確かに、この世界の知識では特定は難しいでしょうね」
「ですので、アスト様が結晶を取り除けば、症状は治まります!」
リンネの確信に満ちた声に、馬車の中の空気が少し明るくなる。
その時、カイルが縋るようにリンネの手を握った。
「リンネ殿……本当に、マルコム様とエヴァ様は助かるのでしょうか……?」
リンネは微動だにせず、慈愛の笑みを向けた。
「勿論です。我が神、アスト・ロカス様にできないことなどありません」
夕暮れの光がリンネの髪を照らし、その姿はまるで女神のようだった。
「ですが……」
リンネの声が少し低くなる。
カイルが首を傾げた瞬間――
「アスト様以外の殿方は、おさわり厳禁です。以後、お気を付けくださいませ」
馬車の中が凍りついた。
カイルは慌てて手を離し、深々と頭を下げる。
エルバートは咳払いで場を整えた。
「確かに、断りなく突然女性に触れるなど、紳士の行いではありませんな……」
リンネはアストの方へ向き直り、膝をポンポンと叩く。
「アスト様」
「……まさか」
「ア、ス、ト、さ、ま」
圧をかけられ、アストは観念して膝に乗る。
次の瞬間、無遠慮に揉みくちゃにされた。
その様子にカイルは唖然とし、エルバートは苦笑を浮かべるしかなかった。
「アスト様はもっと神々しく扱われるべきでは……」
カイルが呟くと、リンネはぴたりと手を止めた。
「神々しさとは、慈しみと親しみの中に宿るものです。アスト様は、遠くから崇めるだけの存在ではありません。触れ、語り、共に歩むことで、その御心に近づけるのです」
その言葉に、カイルは何も返せなかった。
馬車は夕暮れの街道を進む。
アストはリンネの腕の中から外を見つめた。
「……マルコム様の容態が、少しでも安定していると良いのですが」
リンネは静かに頷く。
「大丈夫です。アスト様がいれば、きっと」
その声は、信仰というよりも、確信に近い響きを持っていた。
エルバートが深く頭を下げる。
「アスト殿……どうか、我々の主を……領地の民をお救いください」
アストは姿勢を正し、静かに答えた。
「できる限りの力を尽くしましょう。それが、私の役目ですから」
リンネはそっとアストの背に手を添えた。
「それが、我が神の御心……」
夕陽が沈む空の下、馬車はクロウフォード邸へと向かっていた。
その中で、リンネの存在は、まるで旅路を照らす“女神”のようだった。
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