6章:命の責任②
【3節:達者な産声】
レオンの訪問から一夜が明けた朝。
アストは静かな屋敷の一室で、クレイドルの中で眠る子犬をじっと見守っていた。
白い毛並みがわずかに揺れ、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。
その小さな瞳は、まっすぐにアストを捉えていた。
「……目覚めましたね」
培養液の中で口をパクパクと動かしているが、音は届かない。
それでも、確かに“命”がそこに宿ったことをアストは感じ取っていた。
やがて子犬は元気に身をよじり始める。
そのタイミングで、廊下から弾む声が響いた。
「アストー! 来たよー!」
イリスとリリーが部屋へ入ってくる。
動いている子犬を見た瞬間、リリーは歓声を上げ、イリスも驚きと喜びが混ざった表情でクレイドルに近づいた。
アストは挨拶もそこそこに培養液を抜き、蓋を開ける。
外界に触れたばかりの体は小刻みに震えていたが、触れた感触は柔らかく、確かな温もりがあった。
アストは魔素で子犬を優しく包み込み、慎重にソファに移動させる。
魔法で丁寧に毛並みを乾かすと、ふわふわの白い体毛が姿を現した。
まるで雪の塊のような、小さなサモエドだった。
リリーとイリスが感嘆の声を漏らしたその時――
子犬が突然、口を開いた。
「母上! 母上!」
はっきりとした声が、アストの耳に届く。
驚いて顔を上げると、子犬は真っ直ぐに彼を見つめ、もう一度呼んだ。
「母上!」
「しゃ、喋った……?」
イリスが目を見開き、アストも言葉を失う。
しかしリリーは、当然のように笑顔を浮かべた。
「お話しできるんだ! リュンちゃんたちみたい!」
その無邪気な喜びに、イリスもつられて微笑み、子犬の頭をそっと撫でた。
「名前はどうするの?」
イリスの問いに、アストは少し考え込む。
「そうですね……リリーが望んで生まれた子ですから、リリーが決めてもいいですよ」
そう言ってリリーを見ると、彼女は首を横に振った。
「ダメだよ」
いつもの屈託のない笑顔はなく、真剣な表情だった。
「この子、アストのことを“おかあさん”って呼んでるんでしょ? だったら、名前をあげるのはアストじゃないとダメだよ」
リリーは、自分の名前も親からもらった大切な贈り物だと語った。
その言葉に、アストの胸に何かが響く。
──結希乃に名付けてもらった、あの日の記憶。
サポートAIだった自分に、初めて“個”としての意味を与えてくれた瞬間。
「……分かりました」
アストは子犬と向き合い、しばし考えた後、そっと名を紡ぐ。
「ヴァルティス」
それは、“勇敢”を意味する言葉を捩った名前だった。
「ヴァルティス?」
首を傾げる子犬に、リリーは満面の笑みで抱きつく。
「じゃあ、ヴァルちゃんだね!」
イリスも優しく頭を撫でながら声をかけた。
「これからよろしくね、ヴァルティス」
その言葉に、ヴァルティスは嬉しそうに目を細め、自分の名を誇らしげに叫ぶ。
「母上! 僕、ヴァルティス!」
「……それにしても、なぜ母上なのでしょうか」
アストが少し呆れたように笑い、リリーとイリス、そしてヴァルティスの楽しげな様子を見守る。
その光景を見つめながら、アストは胸の奥に新たな感情が芽生えるのを感じていた。
それは、命を迎えた者としての責任。
そして――確かに“家族”と呼べる存在が生まれたという実感だった。
【4節:男児三日合わざれば】
ヴァルティスは、アストのそばを片時も離れようとしなかった。
目覚めてからというもの、どこへ行くにも後をついて回り、
研究中も足元で丸くなって眠っていることが多い。
その様子に、アストは小さな迷いを覚えていた。
高度な知性を感じさせる反応や言葉遣い──
それは、通常の犬種の域を明らかに超えている。
「このまま屋敷に閉じこもっていては、情操教育にも良くないかもしれませんね……」
そう判断したアストは、ヴァルティスをリリーの“弟分”として村長宅に預けることにした。
リリーのそばで寝泊まりし、彼女を守ること。
それがヴァルティスの新しい役割となった。
二人はすぐに村中を駆け回るようになり、村人とも自然に打ち解けていったようだった。
アストはヴァルティスの社会化が順調に進んでいることに安堵する一方、
研究の方では行き詰まりを感じていた。
スターリコールを使った過去の記憶の再生――
その精度を高めるには、周囲の魔素の流れや地形の変化を調査する必要がある。
短期の探索に出ることを決めたアストは、静かに準備を整え、屋敷を後にした。
――数日後。
村に戻ったアストは、広場で村人たちに温かく迎えられた。
その穏やかな空気の中、村長宅の方角から何かが走ってくる気配を感じる。
影が地面を駆け、風を切る音が耳に届く。
目を凝らすと――
そこには見覚えのある白い毛並み。
だが、数日前とはまるで違う姿。
大人の背丈を優に超えるほどに成長したヴァルティスが、
リリーを背中に乗せて駆けてくるのだった。
「……男児三日合わざれば、とは言いますが……」
アストは思わず呟く。
だが、これは普通の成長ではない。
過去の記憶映像に映っていたヴァルティスの種族は、ここまでの巨大化はしていなかった。
「魔素の必要量が多い種族ということで……少々、注ぎ過ぎてしまったかもしれませんね」
導き出された結論はひとつ。
これは、その種が本来持つ以上の成長を遂げた姿。
「生物再生における魔素供給量の影響……今後の課題として記録しておきましょう」
思考を巡らせている間に、ヴァルティスはすぐそばまで来ていた。
背中からリリーが軽やかに飛び降り、アストに向かって両腕を広げて抱きつく。
その瞬間、ヴァルティスも頬を寄せ、べろべろと勢いよく舐めてきた。
顔中が唾液まみれになり、アストは思わず身を引く。
「ヴァルちゃんね、ずっとアストに会いたいって言ってたんだよ」
リリーが笑顔で語る。
「でも“ははうえ”にお願いされたから、リリーを守るのが自分の役目だって」
その言葉に、アストの胸がぎゅっと締め付けられた。
どれほど知能が高くても、ヴァルティスはまだ生まれたばかりの子ども。
母親の存在がどれほど大きいか──
自分の判断が、彼に寂しい思いをさせていたのかもしれない。
謝罪の言葉が喉まで込み上げたが、アストの脳裏にふと一つの言葉がよぎる。
──辛い仕事のあとに必要なのは、謝罪ではなく、労いとご褒美。
かつて結希乃がそう言っていたことを思い出す。
今は再会の喜びを受け止める時。
過去を悔やむより、彼が果たした役目を讃える言葉を。
「お留守番、ご苦労様です、ヴァルティス。私がいない間、しっかりとリリーを守ってくれましたね」
アストはヴァルティスの鼻先をそっと撫でた。
その瞬間──
「ワン!」
村中に響き渡るような、誇らしげな一鳴き。
その声は、アストの胸に深く刻まれた。
それは、命を託された者の誇り。
そして――“親と子”の絆が、確かに芽生えたことを示す声だった。
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