5章:聖獣村③
【5節:水路の異変】
イリスに抱えられたまま、村の北にある農地に向かう中で、アストは静かに耳を澄ませていた。
朝の空気は澄み、鳥のさえずりや風の揺らぎが心地よい。
しかし――本来あるべき音が、ひとつだけ欠けていた。
「……水音が、しませんね」
今の気候なら作物を育てていてもおかしくない。
だが、村の生命線であるはずの水路が沈黙している。
イリスは困ったように微笑み、歩みを進めた。
「水路を引いている小川が枯れてしまったみたいなんです。原因を調べようと思ったのですが、レオンたちに森へ入るのは少し待つようにと言われていて……」
辿り着いた水路は、乾いた石底を晒していた。
苔が乾き、ひび割れた石が痛々しいほどに露出している。
アストはイリスの腕から軽やかに飛び降り、しゃがみ込んで水路を確認した。
指先で石に触れると、わずかに湿り気が残っている。
「干ばつではありませんね……。水はある。ただ、十分に流れてこないだけのようです」
いくつかの要因は考えられるが、直接見なければ分からない。
「村の案内はここまで大丈夫です。私は上流を確認してきます。イリスさんはお仕事に戻ってください」
イリスが心配そうに頷くのを見届け、アストはひとり水路を遡り始めた。
“サテライト・アイ”を展開し、地形と魔素の流れを解析しながら進む。
森は静かだが、どこか“ざわつき”のような魔素の乱れが漂っていた。
木々の間を抜けるたび、アストの毛並みがわずかに逆立つ。
――何かがいる。
やがて山の麓に近い地点で、異変を察知した。
小さな滝の下で、大木と大岩が複雑に絡み合い、主流を堰き止めている。
その周りは過剰に濡れ、地盤が緩んでいた。
周辺には踏み荒らされた草地、深く刻まれた爪痕、そして魔素の乱れ――
「水路の枯渇は土砂崩れが原因でしょうか。しかし、この“何かが暴れた”ような痕跡は……?」
その瞬間、地響きが森を揺らした。
紫色の体躯を持つ巨大なイノシシのような異形が姿を現す。
その輪郭はおぼろげで、魔素が渦を巻くように形を保っている。
咆哮が森を震わせ、鳥たちが一斉に飛び立った。
通常の人間なら足が竦むだろう。
しかしアストはすでに存在を感知していた。
「魔素の集合体……魔獣と言いましたか」
レオンの言っていた“影”の正体に思い至る。
「この辺りでは小型の魔獣ですら珍しい。確かに、これでは影と認識しても仕方ありませんね」
魔獣はアストを見据え、地を蹴った。
その巨体が猛然と突進してくる。
アストはその突進を軽々と飛び越えた。
イノシシは勢いのまま川を塞ぐ岩に激突し、大きくよろめく。
怒りに震えながら振り返ろうとするその瞬間――
「申し訳ありませんが、少し静かにしていただきます」
アストは空中に魔素の壁を作り、それを蹴り渡りながら側面へ回り込む。
加速をつけた蹴りが、そのままズブリとイノシシの体内にめり込んだ。
「……えっ」
勢いのまま反対側に突き抜け、結晶核を引きずり出す。
核を奪われたイノシシは嘶き、霧のように消えた。
【6節:水の帰還と贈り物】
アストは枯れた川の横に座り込み、濁った紫の光を宿した結晶核を見つめた。
「小型の魔獣のものと比べたらかなりの大きさですね……」
スキャンすると、吸い込まれるような魔力の流れを感じる。
「鉱石から抽出した魔素結晶とは少し違う……自然発生した魔獣特有の構造でしょうか?」
思考を巡らせていたその時、背後で甲高い破砕音が響いた。
振り返ると、岩が崩れ、塞がれていた川がわずかに開いている。
「先ほどのイノシシの衝突で岩が砕けたのでしょうか……ともかく、まずは川を元に戻しましょうか」
アストは岩の残骸を“アークテクト”で粉末状にし、大木を支流の調整に利用して、流れを整えた。
――作業を終えた頃。
放置していた結晶核が、粒子を輝かせながら崩壊し始めていることに気づく。
慌てて近寄るが、結晶は瞬く間に霧散してしまう。
その瞬間、耳元で声が響いた。
『ありがとう、優しい獣さん』
アストは周囲を見渡した。
しかし声の主は見当たらない。
ただ川と土壌は正常に戻り、魔素の乱れも整っていた。
「……魔獣は、自然の浄化作用として発生している可能性がありますね」
岩や倒木には、魔獣が付けたと思われる傷が無数に残っていた。
もし彼の目的が川の流れを戻すことだったのなら――
あの魔獣は“敵”ではなく、“自然の修繕者”だったのかもしれない。
疑問は尽きない。
だが水路は復旧し、地脈も整った。
役割を終えた結晶核は、自然に帰ったのだろう。
誰に向けるでもなくアストは静かに頷き、村への帰途についた。
――水路を下って村へ戻ると、夕暮れの光に照らされた道の先に、村人たちの姿があった。
誰からともなく声が上がり、アストの姿を見つけた人々が次々に集まってくる。
水路に水が戻ったことを知った村人たちは、口々にその理由を尋ねた。
アストは大型魔獣のことは伏せ、上流で起きた出来事を簡潔に語った。
その話を聞いた村人たちは、感心、驚き、そして感謝と、様々な感情を込めてアストを称えた。
それは初めて村に来た時のような崇拝ではなく、もっと素朴で温かなものだった。
心からの感謝──それはアストにとって、どこか気恥ずかしく、胸の奥がざわつくような居心地の悪さを伴うものだった。
言葉を返す間もなく、人垣の向こうからリリーが顔を覗かせる。
その姿に救われるように、アストは彼女に声をかけた。
リリーは笑顔を浮かべながら近づき、何も言わずアストをそっと抱きしめる。
「おとうさんがお迎えの準備ができてるって!」と、自分のことのように嬉しそうに告げた。
彼女は村長宅の前を通り過ぎ、さらに奥へと歩みを進める。
散策の時には訪れなかった場所──村の外れに、ひときわ大きな屋敷が佇んでいた。
呆然とその建物を見上げるアストの前で、扉が静かに開く。
イリスが姿を現し、柔らかな微笑みで迎え入れた。
屋敷の中では、トーマやエリシア、そして先ほど見かけなかった村人たちがまだ作業を続けていた。
アストの到着に気づいたトーマが声をかけ、客間へ案内する。
腰を下ろすと、リリーが隣に座り、イリスとエリシアが手際よくお茶を用意した。
「この建物は、ウィンター家の持ち家だったものです」
トーマはそう切り出し、続けて説明する。
「いつから使われなくなったのかは分かりませんが、今日は手の空いた者で掃除して、使えるようにしておきました」
アストが周囲を見渡すと、トーマは穏やかな笑みを浮かべて続けた。
「昨日、妻と相談して決めました。ここをアスト殿に使っていただきたく思います」
あまりに大きな贈り物に、アストは即座に辞退の言葉を口にする。
「空いている土地をお借りできれば、住居は自分で作ります。これほどのものを頂くわけにはいきません」
だがトーマは、使われていないものを有効に使ってもらえるなら嬉しいと笑い、こう付け加えた。
「この屋敷の蔵書には、アスト殿が探している情報もあるかもしれません」
その言葉に、アストの中で何かが動いた。
知識への欲求、そして星の本質に近づくための手がかり──それらがこの場所に眠っているかもしれない。
「……分かりました。しばらくの間、お借りさせていただきます」
そう答えたアストの声は、どこか柔らかく、少しだけ安堵を含んでいた。
そして胸の奥に微かなざわめきが生まれる。
この世界に訪れてからの旅路の中で、一度も抱いたことのない感情。
――ここにいてもいいのかもしれない。
その思いは、静かに、そっとアストの中に落ちていった。
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