さよなら、愛しい人4
カナン・スフィアの出立の準備は短かった。いつも通りの朝の身支度とさほど変わらない。服装が軍服から旅装へと変わっただけだ。背負ったリュックには一日分の食料とわずかな給金。掃き清められた部屋には住人の名残はない。
「行くのか」
「はい」
振り向きもせずカナンは答えた。届いたタバコの匂いがハマナ・ローランドの険しい表情を容易に想像させる。昨日は月影、陽炎相まって飲み明かしていたから、マルスの再来との呼び声高いハマナの凛々しい風貌もぼさぼさ頭に半裸という残念な姿だろう。腰に帯びた『月影』だけがハマナを英雄たらしめる。そんな想像が容易にできるほど自分はここに長くいたのだと改めて気づきカナンは思わず苦笑した。
零れた息は白く煙らない。そんな小さな事実に「ああ、春が過ぎる」そんなことを思った。
「なにもこんな朝早くに出ることもないのに」
世界はまだ青い。空の端がようやく白んできているころだ。早番の侍女たちでさえ目を覚ましていないはずだ。
「遅すぎるくらいですよ。あなたにも見つからずに出るはずだったのに」
「別れの挨拶ぐらいしていけ」
「たくさんしましたよ」
いつどうなる生活か分からないから。明日、おはようがあるかわからない。おやすみはさよならの代わりだ。けして腕っぷしの強くないカナンが生き残ってこれたのは自分でも予想外だった。
「ここを出てどうするんだ」
「どうしましょう」
「……からかっているのか」
「いいえ、なにも決めていないのですよ。自由にどこかをふらふらとしてみようかと」
戦いは終息した。タハルも雪深いアリオスを攻めるのは得策ではないと判断したのだろう。同盟によってしばしの安息を得た。季節は巡り、傷は癒える。だが失ったものは大きく月影は火が消えたようだ。
嫌いだと公言しているタバコの匂いがハマナからするのは、毎日欠かさずメイガンに供えているせいだ。メイガンは月影の古株でカナンにとっても良き先輩だった。いいことも悪いことも彼に教わった。
「そうか」
「世界を見に行こうと思います」
メイガンの最期を見たのはカナンかもしれない。いまだに理解はできてない。どうして役に立たない一兵士であるカナンを庇って彼は一撃を浴びたのだろう。
夢の中でアンザの声を聴いた。
幸せなことがたくさんあると。
生きろと。
この命を惜しむことが出来るようになったらここへ戻ってこようと思う。
共に戦った彼らと正面から向き合うことが出来るようになったら。
「ねぇ、ハマナ様」
「なんだ」
「今日は良い一日だといいですね」
「……ああ」
カナンはゆっくりと城門を出た。振り返った城は、はじめて登城した日と同じく天に刺さる様にそびえている。あの日は目に焼き付けておこうと思った。今では王族しか知らない抜け道さえ知っている。
おかしなものだ。さよならではなく行ってきますと言葉が浮かぶ。
いきなり頬に衝撃が来た。吹っ飛ばされて道へと倒れこむ。口の端から滴った血が数滴砂の上に落ちる。
衝撃が過ぎ去れば頭の芯までジンと痛い。戦場で切り付けられた時よりもよほど痛かった。
見上げた先には怒りに満ちた表情のエンがいた。カナンを殴ったであろう右手は彼の激情を現すように震えている。
「どこへでも勝手に行け」
吐き捨てるように言うとエンは背を向ける。
「エンさん」
振り返らない背に再度呼びかけた。
「エングランド」
彼の真名。
共にアリオスのために戦おうと誓ったはずなのに、ここから出ていく自分にはもう呼ぶ資格はないだろうか。
「なんだ」
苦々しい声がかえってくるのが、可笑しくてうれしかった。
「ありがとう」
カナンはぺこりと頭を下げ、城門を後にした。




