さよなら、愛しい人3
コバットの地で、タハル軍と戦闘を開始したとの知らせが届いて三日が経った。日に何度も伝令が駆け込んできて、城の中の空気はピリピリとしている。今朝に入って3人目の伝令が駆け込んできてから、にわかに城の中が慌ただしくなった。戦況が思わしくないらしい。
侍女の一人が、慌てて部屋へとやってくる。彼女の顔色を見ればこれから伝えられる内容の重さは分かっていた。
「どうなのさ」
アンザの問いに、彼女は一つ息を吐いて話し始めた。
「皆の安否は?」
「詳しくは何も。だけどかなり被害が出たみたいです。メイガン隊は壊滅との噂も。陽炎の一部もそちらへ向かうとのこと」
「メイガン隊が」
隊長であるメイガンは『首切りメイガン』と異名が付くほど、月影でも屈指の武闘派の隊だ。今回の戦いの要になるはずの隊だと聞く。
集まった侍女たちの顔色が悪くなる。その中でも、一際アンザの顔色は悪かった。カナンはコバットの作戦に参加すると言っていた。「さよなら」ともう二度と会えないかのような挨拶もした。たまらず立ち上がったアンザをユンナが制した。
「アンザ!」
「止めないでちょうだい。私は行かなきゃ……」
行ってカナンに会わなければ。
言わなければならないことがある。
「私も行きます。それほどにひどい被害ならば衛生班を組織するはずだわ。そこに入れてもらいましょう」
「……そうね。あんたも行かなきゃね。旦那が向こうにいるんだもん」
「だっ旦那じゃないけど」
少しの軽口も今は慰めにはなりはしない。
ユンナの予想通り、衛生班が組織された。負傷者の救護に侍女たちも多数呼ばれた。コバットまでの五日間は恐ろしく長かった。日ばかり暮れるのが早くて、一行の歩みは遅々として進んでいないような気がする。伝令がやってくるたび、皆が体を固くして耳を澄ませた。
メイガンの死が伝えられた時には隊を重苦しい沈黙が包んだ。侍女の中には泣き出す者もいた。
ようやくたどり着いた幕舎の中は血と膿の匂いがした。けが人はうめき声さえあげることが出来ないのか、意外なほどしんとしている。顔まで包帯で覆われたもの。深く毛布をかぶったもの。誰も身じろぎもしない。すべて死体ではないのかとアンザの足はすくんだ。
部隊の半数は顔見知りだ。名を知らないまでも食堂で会えば「うまかったよ」と声をかけてくれていた兵士たちだ。この中の幾人もがそうだろう。
アンザが天幕を開けたことにより吹き込んだ風が冷たかったのだろう。手前の毛布がふるりと揺れた。
「ごめんなさい」
アンザは慌てて天幕を下ろした。声が合図にとなったのか、もそもそと人の山が動く。
なぜかアンザには向かうべき方向が分かった。一番奥の右に目指す人はいる。
「……カナン殿」
血の気を失った頬の上にはいくつもの切り傷が走っている。首から肩にかけて巻かれた包帯はどっぷりと血で汚れている。毛布の下の体も同じような状態なのだろう。
「生きてた」
満身創痍だ。無事なんかじゃない。
けれど、かさついた唇から細い息が漏れている。
生きている。
「生きてる」
カナンにはどこか危ういところがあった。
兵士のくせにどこかほわほわしていて、生死なんて関係ないところを歩いているようでもあった。それが兵士らしくなくて血なまぐさくなくて好きになったのだと思った時期もある。違うと気づいたのはいつだろう。カナンは頓着していなかっただけだ。自分の死など、どうでもよいことだったのだ。生きることもどこか諦めているようだった。
でも生きている。いま、カナン・スフィアは生きている。
毛布を掴む手はこちらの世界にしがみつこうとしているかのようだ。アンザの目から、ほとほとと涙が落ちた。
「生きて。生きて。カナン殿」
涙の一つはカナンの頬に落ちた。
「幸せなこといっぱいあるんだよ。美味しいものもいっぱいあるんだよ。つらいことだっていっぱいあるけれど」
アンザと共にいなくてもいい。
どこかで生きていてほしい。
幸せになってほしい。
誰かを幸せにしてほしい。
「生きてよ。カナン・スフィア。あんたが笑うだけで私はその一日が最高に幸せだった。あんたの嘘っこの「おいしい」だって、特別な魔法だった」
知っていた。
カナンがアンザの料理をおいしいとは思っていないこと。誰の料理に対してもそうだった。何を出してもおいしいと言ってくれる。こうしたほうがいいとアドバイスをくれる。けれど、けっしてこれが食べられないと嫌いだと教えてもらったことはない。大好きな食べ物も教えてもらったことはない。彼にとって食事は体を動かすのに必要な行為以上のものではなかったのだ。
「わたしは何も返してあげられないけれど、最後においしいを教えてあげる」
アンザは涙を拭き天幕を出ると、ちょこまかと動き回っているユンナを見つけた。
ユンナの目もアンザと同じように腫れているが、表情からハマナは無事だと分かった。
「ユンナ。手伝って」
鍋にたっぷりの湯にパルの実を少し、火加減に注意してじっくり煮込む。塩を一つまみ。じっくりじっくり煮込む。パルの実が壊れたらとろりと液体になるまでさらに煮る。ふんわりと甘い香り。戦場には似つかわしくない香り。病気で弱った体にしみるスープ。
うっすらと記憶に残るアンザの母の得意料理だ。ハチミツと体を温める効果のあるノニの根をすりつぶして入れてもらえば、たちまちに元気が湧く。
匂いにつられたのか動けるものは、集まってきた。その多さに、侍女たちからほぅと安堵の息が漏れた。
お椀に一杯掬うとユンナに背を押される。
「ここは任せてカナン殿のところへ」
「ありがとう。ユンナ」
薄く開いたカナンの唇にスプーンを添えると瞼が開いて、喉がこくりと動く。彷徨うような瞳にはアンザの姿は映っていないだろう。
それでもよかった。カナンの体が彼を生かそうと動くなら、それだけで嬉しかった。
喉を落ちたスープはカナンの体を内側から温めていくだろう。心臓を動かし、全身にじわじわと広がっていく。太陽の一かけを体の中にいれたよう。アンザには分かる。
「カナン・スフィア」
アンザは女神のように厳かにそして優しく告げた。かつて母がアンザにそうしたように。
「これがおいしいってことよ」
「アンザ、そろそろ出発だって」
仲間の一人が手を振っている。アンザは負傷者を都まで運ぶ一団に便乗して帰ることになった。カナンの意識は完全に覚めていないが、日増しに顔色は良くなっている。
もう大丈夫だ。
気遣わしい表情のユンナににっこりと笑った。
「いいの? アンザ」
「うん」
カナンの傷が完全に癒えるころにはアンザは城にいない。イマムの故郷の地で彼の妻になる。
「私、大好きより大切なこと伝えれたような気がするんだ」
ーさよなら、カナン殿。




