さよなら、愛しい人2
前方にハマナ・ローランドの姿を見つけカナンの歩みは僅かに遅くなった。ハマナの呆れ顔にアンザとのやり取りをすべて聞かれたのだと気づき、ため息が出た。ハマナが近くにいたことに気が付かないほど動揺していた自分にだ。
「お前、バカだろう」
「ハマナ様には言われたくないのですが」
「私がバカだと言いたいのか」
ハマナは眉を吊り上げる。月影の将であり、五大貴族の嫡男という立場のハマナに正面きってバカだと言う人物はそういない。
「そうですねぇ。ユンナ殿に関することになると貴方は限りなくバカになりますね」
「それは認める」
腕組みをして神妙に頷いたハマナの姿に笑みが漏れる。正直なところが、ハマナの美徳だ。
「おや、お認めになるので? われらの月影の将軍としては情けないですね」
「私はバカだが、お前は救いようのないバカだ」
「バカにも種類があるのですか」
知りませんでしたとハマナの傍らをすり抜けようとしたカナンの腕は見事に掴まれ、回廊から庭へと追い出される。回廊の先にアンザの背が消えたところだった。僅かに震えるその背からカナンは視線を反らす。
「あの娘は本気だぞ。お前だって少なからず想っているのだろう」
アンザが告白をするまでもなく、彼女の気持ちは月影中に筒抜けだ。アンザがカナンに差し出すのはいつも食堂の一番人気メニューだし、新作の味見はいつもカナンが最初だ。二人で議論を交わす時なんて、それは顔を輝かせている。カナンが料理を褒めれば、一日中幸せそうに笑っている。嬉しそうに見えるのはアンザだけではない。
料理の話ばかりで中々進展しない二人の仲にじれた連中がいろいろしかけようとしたこともあったが、侍女たちから余計なことはするなとキツク言い含められていた。
カナンは観念したように一つ息を吐いた。
「俺、美味いも不味いも分からないんです」
「そうなのか? お前の入れる茶はうまいぞ」
「それは良かった。だけど、俺にとっては美味くも不味くもないのですよ。ずっと人の顔色窺うように生きてきたから、なんとなくこの味は一般的にうまいと思われる味なんだろうなと分かるだけなんです」
帰り道も分からないような遠い遠い故郷は、同族しかいない小さな村だった。女をさらってきて子供を産ませ、共同体を維持する。そんな村だ。
カナンの母は子供を愛しはしなかった。事務的に世話をし、それ以外はわが身を嘆いていた。
それでも、自身を慕う子供らに愛情を覚えることもあったのだろう。母はカナン以外の子を時折抱いて歌っていた。耳になじまぬ調べは、母の故郷のものだったのだろう。カナンはその歌を部屋の外から聞いていた。
母はカナンが側に行くことを良しとしなかった。表情を引きつらせ、歌は沈黙へと変わる。
兄弟たちが何気なくやっていることがカナンにはできなかった。母の手料理に美味しいと一言言うだけができない。微笑むタイミングが分からない。常に笑っていれば気味が悪いと遠ざけられる。
カナンには理解できない小さな小さな決まり事が、家の中にも村の中にもいたるところに存在した。
母の嫌悪は、兄弟に広がり、家に広がり、村へと広がった。
十歳になった夜、村を出た。殊更、収穫の少なかった年だ。口減らしに選ばれるのは自分だと分かっていた。カナンは方々を転々として食い入るように人を観察して生きる術を見つけた。嘘だとわからぬほど巧妙に己を偽ろう。人好きのする仮面を張り付けて、望まれる言葉を吐き出すのだ。
対峙する相手によって内面を作り変える。そんなことをやっていれば次第に自分を失っていく。いつしか出来上がったカナン・スフィアの中身は空っぽで、好きか嫌いかの判断さえできなくなっていた。
「俺に好みなんてないんですよ」
ふとなんだってこんな話をハマナにしているのだろうと思った。あまりに違う生き方を、ハマナに話して何になる。いつものように煙に巻けばいい。嘘なんていくらでも出てくるはずなのだ。だが、ハマナがあんまりにも真剣に聞いているから洗いざらい話してしまおうと思った。
「アンザさんの料理だって正直、味の良しあしなんて分からないですよ。今までの経験を踏まえて食堂で人気が出るかどうか判断しているだけなんです。彼女の望む回答をしているに過ぎないんですよ」
アンザは予想を超えてくる。いつかカナンの答えることのできる範疇を越えて問いかけてくるだろう。いつか彼女の望む答えが出来なくなる。それがたまらなく怖いのだ。
何かを怖いと思うことは久しくなかった。原因は分かっている。彼女に深くかかわりすぎたのだ。
「俺は欠陥品なんです」
家族もこの身を疎んだ。村中が気味悪がった。ここでも腹の底が見えぬと言われていることも知っている。
「私はお前が好きだぞ」
「……それは、どうも」
「むう。どうして私には望む回答を返さないのだ」
「ハマナ様の望む回答って何ですか。あなたは規格外すぎて最初から諦めています」
「俺もハマナ様大好きです! 次の戦も生き残って皆で祝杯をあげましょうね! だ」
ハマナは盃を振り上げる動作をしながら豪快に笑った。見慣れた光景で、酒のしぶきさえ見えるような気がしてくる。
「ほんとうに規格外ですね。いきなり戦の話に飛びますか。……勝ってじゃないんですか」
「生きてりゃ何とかなる」
「……何とかって大雑把な」
眉を顰めたカナンの背を叩きながら、ハマナは笑い声をあげた。
「たとえこの戦に負けようが、生きてりゃまた戦えばいいのさ。ジークが生きてりゃまた国を興せばいい。お前が複雑に考えすぎなんだろうさ。美味いも不味いも分からんと言ってみればいいじゃないか」
「忙しい方ですね! 国の興亡の話じゃなかったのですか」
「国のことなどお前の頭で考えたぐらいではどうにもならんわ」
言葉に詰まったカナンに向かってハマナは微笑んだ。
最初に出会った時から、この笑みを向けられると居たたまれなくて視線を反らしてしまう。空っぽの中身も逃げてきたことも全部知っていて、それでもカナンを受け入れてくれると錯覚しそうだから。
「少しは好かれたいと思っていたのだろう」
「……そういうわけでは」
「色恋については私の方が断然詳しいはずだ」
「そうでしょうとも。なにせハマナ・ローランド様ですからね。なのに、どうしてユンナさんのことはグダグダなんでしょうね」
「それが分かれは苦労はせん」
困ったと天を仰ぐハマナを見ていると体から力が抜けていく。俯けば自然と言葉は落ちてきた。
「アンザさんは俺といても幸せにはなれませんよ」
カナンはすっと息を吸い込んだ。
「俺がなんでここに来たか知っているのでしょう」
ハマナは答えなかった。
「なんだかんだでここまで生き残ってきちゃいましたけど。ここならちゃんと死ねるかなって」
何かの役に立って死ねるだろうか。必要ないと疎まれたこの命で。
自分を偽ることにくたくたに疲れたカナンの前に現れた兵士募集のチラシ。天啓だと思った。
「バカだなぁ。お前は。死んでしまえばそれまでだ。名誉の死なんてあるもんか。華々しい死なんてあるもんか。死にざまなんかで何か変わるものか。私の死もジークの死もすぐに忘れらるさ」
「……不敬ですよ」
「ふん。本当のことだ。マルスやリン・オニキスが今でも忘れられないのは彼らの死が劇的だったからじゃない。まぁ、月影を選んだことは褒めてやる」
ハマナの大きな掌がぐしゃりと頭を撫でた。
「……たまに陽炎に行けばよかったかと思うことがありますけど」
「ははっ陽炎でも構わんさ。だが、あいつらはうちの連中より暑苦しいぞ」
「それは、知っています」
カナンはじわりと浮かんだものものに気づかないふりをした。
「明日から。コバットだ」
「はい」
「厳しい戦いになる」
「はい」
「死ぬな。ここで勝ってもやることは山ほどある。お前のいうちゃんとした死が何かは知らんがコバットではない」
「……努力します」
「覚えておけ。お前を好いて想いを告げてきた娘がいたこと。月影以外にもお前に死んでほしくないやつはいるんだ」
ハマナは知っている。どんなに圧倒的に有利な戦場にもまさかがあること。至る所で死は口を開けて待っている。その淵で何がこちらに留めるか分からない。カナンを引き留めるのは、もしかしたらアンザの涙かもしれない。
「はい」
消え入りそうな小さなカナンの声を背にハマナは、歩き出した。




