【終章】それでは、舞踏会へ参りましょう
「――わかった」
用意されていたペンを執ると、しかしルシウスは意外にも一気に署名した。
(もう少し、抵抗するかと思ったけれど――)
昨夜のフィオレンティーナの来訪を受けて、今朝の間に侯爵家内で誓約書を作成しておいた。大した内容ではない。正妻以外の女性については、ルシウスは人選・管理のすべてを正妻になるオウレリアに委任する。ざっとそんな内容だ。
もっとも実効性については疑問が残る。これはあくまでごく私的な覚書。
何ら法的強制力はなかった。実際、大して抑止力にもならないだろう。
ただし、確実に一定期間はルシウスを縛れる。
そういう性分なのだ。彼の小心ぶりを、オウレリアは熟知していた。
婚儀は約一年後。
ロザリンデに心奪われて夢現だったこの一年とほぼ同じ長さの時間を、これからルシウスはビクビクしながら過ごすことになる。
いつオウレリアに棄てられるかと怯えながら。
(前例があるものね……)
公国だった頃、大公シオンは成婚目前で婚約者だった侯爵令嬢ナターシャ・フォン・ブリゼに見捨てられた。だから彼は、花嫁だけを差し替えて取り繕ったのだ。
おそらくは用意された諸事万端を無駄にしないために。
「これで――いいのか?」
ルシウスがぞんざいに書類を渡して来る。
ルシウスのことだ。喉元過ぎれば、すぐに熱さを忘れるだろう。
この誓約書の心理的効果が持続するのは、ざっと二年程か。
痛い教訓としてルシウスが覚えていられるのは、せいぜいそのくらいだ。
「はい。確かに」
署名を確認しながら、オウレリアは一点だけ抜けがあったと気付く。
女性達への贈り物についてだ。それも承認制にしようと考えていたのに、朝から慌ただしくて追加してもらうのを失念していた。
(いいわ。時機を見て、誓約書自体を更新しよう)
どうせルシウスは、また何かをやらかす。その時点でも遅くはない。
「………では」
オウレリアは淑やかに手を差し伸べた。
明らかにホッと安堵して、直ちにたルシウスがその手を取る。
オウレリアは侯爵邸の犬達を思い出した。番犬だから対外的には猛犬のはずなのだが、侯爵家の者達にはよく懐いて、名を呼ばれると喜んで一目散に駆けて来る。何故か、あれを連想してしまった。
『必ず、君の手を取る』
カードの文言が一瞬だけ脳裏に浮かび、オウレリアは直ちに頭の片隅へと追い遣った。
(最低限――愛犬達くらいには躾けないとね)
「行こうか」
この国で最も毛並みの良い大型犬ルシウスが、腕を差し出して来る。
「ええ、殿下」
オウレリアがすんなり手を添えると、ルシウスは露骨に嬉しそうな顔になった。
バカな男だ。ルシウスこそは、ブルグ王国でもっとも高貴な生まれのおバカさんである。
――逆はないのよ?
あなたはわたくしを縛れない。今更何をしようが何を言おうが。
この先、わたくしが誰と恋をしてもどんな相手と愛し合っても、あなたではわたくしを止められない。
ああ、もちろん。あなたに気付かせるようはヘマはしません。
わたくしの方は、礼儀も思いやりも心得ておりますもの。
(これからよ。――その性根を、叩き直して差し上げるわ)
オウレリアは、今後は容赦しないことに決めている。
いいでしょう、わたくしに縋りたいと言うのなら。
従順である限りは、あなたを捨てないでいてあげてもいい。
その代わり、あなたをわたくしの思い通りにする。
濡れ落ち葉のように纏わりつきたいなら、どうぞ覚悟していらして。
徹底的に躾けてあげましょう。まずは二度と噛まないよう、完璧に教え込む。
「それでは殿下。まいりましょう」
金の姫は艶やかに嗤った。
(それでも、もし使い物にならなかったら――)
その場合でも、特に支障はない。若干の軌道修正を行うだけだ。
何もルシウスのために、母のような妻になってやる必要はなかった。
まだ一年ある。王妃の座は依然、空位なのだ。
オウレリアはその人生において、無駄な幻想を抱いたことがない。
持つべきは誇りと矜持であり、抱きしめるのはむしろ野望である。
世の女子がみな「運命の相手」を求めて、「真実の愛」だの「白馬の王子様」を夢見ていると思ったら、大間違いだった。
金の姫、オウレリアが好むのは出来る人間なのだ。
王になれるかどうかも怪しいヒョロヒョロの、さして権力を持たない白馬の王子様よりも、現役バリバリの黒馬の王様の方が魅力的に決まっているではないか。
だから、もしかまさかのその時は。
(あなたの姉のような継母に――なってあげてもいいのよ?)
王太子妃にはならず、一足飛びに王妃になる途が確と存在するのだから。
オウレリアの艶やかな微笑みの意味を知らないルシウスは、今や喜びの色すら浮かべて歩みを進めていた。
――そうなれば、あなたはどんな顔をなさるのかしら?
もっともそうなれば、もうあなたにも異母弟にも未来などないけれど。
「殿下、フォン・エーレ侯爵令嬢。よろしいですか」
オウレリアとルシウスで、舞踏会の入場は最後だった。
侍従がホールへ続く扉を開け放つ。
「ルシウス・フィン・ブルグント王太子殿下、オウレリア・フォン・エーレ侯爵令嬢、ご入場――‼」
高らかな声に音楽が響いて、会場中から一斉に歓声が上がった。
学院最後の行事。会場はきらびやかに飾り付けられている。
今宵の舞踏会は、一際華々しいはずである。
壮麗な金の姫の舞踏会が今、まさに始まろうとしていた。
Fin




