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第4話 初依頼は薬草採取のはずでした

 翌朝、チェルシーは宿を出ると、真っ直ぐ冒険者ギルドへ向かった。


 昨日もらったばかりの黒銀色のバッジは、旅装の胸元にしっかりと付けてある。

 なくせば再発行に十ゴールド。普通の宿なら十泊できる金額なので、絶対になくすわけにはいかない。


 けれど、それ以上に――。


「今日から本当に冒険者なんだ……!」


 胸元へ目を落とすと、自然に口元が緩んだ。

 昨日登録を済ませた時点で、もちろん冒険者にはなっている。

 だが、まだ依頼は一つもこなしていない。今日が初仕事なのだ。


 ギルドへ入ると、朝早い時間にもかかわらず、すでに大勢の冒険者が集まっていた。


 昨日の夕方とは少し雰囲気が違う。

 酒場で飲んでいる者は少なく、代わりに掲示板の前で仲間と相談したり、装備を確認したりする姿が目立った。これから仕事へ向かう人々なのだろう。


 チェルシーも早速、D級の依頼が並ぶ区画へ向かった。


「ええと……」


 昨日も一通り眺めたが、改めて見ると迷う。


 荷運びに、街道沿いの清掃、家畜探し、小型モンスターの素材集め。

 並ぶ依頼を順番に眺めていたチェルシーは、その中から一枚を外した。


 ――癒しの森にて、ヒールリーフ二十株の採取。報酬、一ゴールド。


 癒しの森は、王都シュタルグラードの西にある森だ。

 ヒールリーフをはじめ、傷薬や回復薬の材料になる植物が、森の浅い場所にも多く自生していることから、その名前で呼ばれている。


 初心者冒険者の採取場所としても有名で、ゲームでも序盤に何度か足を運ぶ場所だった。


「まずはこれくらいからだよね」


 ヒールリーフなら、ステラリア周辺でも何度も採ったことがある。

 薬草採取は黒猫亭へ出入りしていた冒険者たちから教わったし、状態の見分け方も分かる。初仕事にはちょうどいい。


 チェルシーは依頼票を手に、受付へ向かった。


「この依頼をお願いします!」


 受付の女性は依頼票を受け取ると、チェルシーの胸元にあるD級バッジを確認してから、内容へ目を落とした。


「癒しの森でのヒールリーフ採取ですね。二十株、根を傷めずに採取してください」


 チェルシーが元気よく返事をすると、女性は少しだけ表情を引き締めた。


「それから、最近、癒しの森の北側でロックスチールボアが目撃されています」


 その名前に、チェルシーはわずかに目を見開いた。


 ロックスチールボア。ゲームにも登場したモンスターだ。

 岩と鋼を合わせたような硬い外殻に全身を覆われた、体長三メートルほどの巨大な猪。大きな牙を持ち、その重量を生かした突進をまともに受ければ、人間など簡単に吹き飛ばされる。


「数日前から街道付近まで出るようになりまして、すでに怪我人も出ています。そのため現在、C級の討伐依頼が出ています」

「C級……」


 チェルシーが呟くと、女性は頷いた。


「はい。通常ならC級冒険者が複数人で対応する相手です。D級の方が戦う相手ではありません」


 そこで一度言葉を切り、念を押すように続ける。


「癒しの森は広いので、北側を避けて採取していれば遭遇する可能性は高くありませんが、もし見かけた場合は絶対に近づかず、その場から逃げてください」

「分かりました!」


 チェルシーは素直に頷いた。


 勝てない相手とは戦わない。それは父ゴードンにも散々言われてきたことだ。

 そもそも今日は薬草採取へ行くだけなのだから、わざわざ危険なモンスターを探しに行く理由もない。


 依頼の手続きを終え、チェルシーはギルドを出た。

 癒しの森までは徒歩で一時間ほど。朝の街道は空気が澄み、歩いているだけでも気持ちがいい。


「初依頼かあ」


 思わず何度も呟いてしまう。


 ゲームでは依頼を受けることなど、何度もやった。

 掲示板から選んで、指定された場所へ行き、必要な物を集めて帰る。ただそれだけだった。

 けれど今は、自分自身が歩いている。足元には土があり、風が吹き、遠くでは鳥が鳴いていた。


「やっぱり全然違うなあ」


 頬に触れる風を感じながら、チェルシーは足取りを弾ませた。


 一時間ほど歩くと、やがて街道の先に深い緑が見えてきた。癒しの森だ。

 森へ一歩入ると、外よりも少し空気がひんやりとしていた。木々の間から朝日が差し込み、ところどころで小さな花が咲いている。


「この辺もゲームと似てる」


 とはいえ、やはり広さはまるで違う。ゲームでは数画面も進めば奥までたどり着けた森が、現実ではどこまでも続いている。

 チェルシーは道を外れすぎないよう気をつけながら、足元へ視線を落とした。


「ヒールリーフ、ヒールリーフ……」


 探し始めて十分もしないうちに、一株目を見つけた。

 丸みを帯びた鮮やかな緑色の葉には、中央に一本だけ薄い銀色の筋が走っている。間違いない。


「これだ」


 しゃがみ込み、葉や茎の状態を確認する。

 まだ若すぎる株や、虫食いがひどいものは避けなければならない。

 目の前の株は、どちらも問題なさそうだ。根を傷めないよう周囲の土を少しずつ掘り、丁寧に抜き取った。


「一株目!」


 余分な土を落として布袋へ入れると、次の株を探す。

 その後も順調だった。五株、十株、十五株。癒しの森というだけあって、探せばあちらこちらにヒールリーフが生えている。


「あと五株か」


 想像していたより早く終わりそうだ。

 少し離れた木の根元にも、それらしい緑色が見えた。チェルシーがそちらへ足を向けた、その時だった。


 地面が、かすかに揺れた。


「ん?」


 足を止めると、鳥たちが一斉に木々から飛び立った。続いて、森の奥から低い唸り声が聞こえてくる。


「これって……」


 嫌な予感がした。

 目の前の茂みが激しく揺れ、枝がへし折られる。舞い散る葉の向こうから、巨大な影が姿を現した。


「わあ……」


 チェルシーは思わず見上げた。


 体長は三メートルほど。猪をそのまま何倍にも巨大化させたような体躯だが、普通の猪とは決定的に違う。

 背から脇腹、脚の付け根まで、灰黒色の硬い外殻がびっしりと覆っている。

 それは皮膚というより、岩盤か鋼鉄を体に貼り付けたようだった。

 口元から伸びる二本の牙は、チェルシーの腕より太い。


「ロックスチールボア……」


 受付で聞いたばかりの名前が口から漏れた。よりによって、初仕事で出くわすとは。

 遭遇したら逃げてください。受付の女性の言葉が頭をよぎる。


「うん。逃げよう」


 今日は採取依頼だ。戦う必要はない。

 チェルシーはゆっくりと距離を取ろうとした。

 だが、ロックスチールボアは頭を下げ、太い前脚で地面を掻いた。


「こっち来る?」


 次の瞬間、巨体が突進してきた。


「わっ!」


 とっさに横へ飛ぶと、巨大な牙が直前まで立っていた場所を通り抜けた。

 勢いを止められなかったロックスチールボアは、そのまま木へ激突する。太い幹が大きく揺れ、表面が抉れた。


「危なっ!」


 あんなものを真正面から受ける気はない。

 距離を取ろうとするチェルシーを追い、ロックスチールボアはすぐに向きを変えた。

 どうやら逃がしてくれるつもりはないらしい。


「仕方ないなあ……」


 チェルシーは腰の剣を抜いた。

 再び迫る巨体をぎりぎりまで引きつけ、横へかわす。すれ違いざまに外殻へ剣を叩き込むと、甲高い金属音とともに、手に強い衝撃が返ってきた。


「硬っ!」


 刃はほとんど入っていない。表面に白い傷が一本ついただけだった。

 ゲームでも、物理防御がやたら高かった。確か、中途半端な攻撃ではまともにダメージが通らない。


「剣で普通に斬るのは無理か……」


 魔法ならどうだろう。チェルシーは距離を取り、片手を向けた。


「えいっ!」


 炎の塊が飛び、ロックスチールボアの横腹へ直撃した。

 爆ぜた炎が外殻を包むが、煙の向こうから現れた巨体には、焦げ跡がついた程度だった。


「こっちも駄目か」


 この程度の魔法では、外殻を正面から突破するのは難しい。ならば、覆われていないところを狙うしかない。


 チェルシーは素早く視線を走らせた。

 腹部も大部分が覆われている。脚の関節付近には隙間があるが、暴れ回る巨体へ近づいて狙うのは危険だ。

 残るのは――。


「目」


 顔面まで硬い外殻に覆われているが、眼球そのものはむき出しだった。

 ロックスチールボアが再び地面を蹴る。

 チェルシーは剣を構え、真正面から迫る巨体をぎりぎりまで待った。


「今!」


 身を沈めて牙をかわし、その横をすり抜けると同時に剣先を跳ね上げた。

 ロックスチールボアが甲高い悲鳴を上げ、右目から血が飛び散る。激しく頭を振る巨体から、チェルシーは素早く離れた。


「もう一つ!」


 反対側へ回り込もうとしたが、暴れる頭部が邪魔をして、すぐには狙えない。

 無理をせずに距離を取ると、ロックスチールボアは残った片目でチェルシーを捉え、怒り狂ったように突進してきた。


 再び横へかわす。その先にあった木へ巨体がぶつかり、体勢が崩れた。

 その隙を逃さず、チェルシーは一気に距離を詰め、残った目へ剣を突き入れた。


 咆哮が森に響き渡った。

 完全に視界を失ったロックスチールボアが、木へぶつかり、地面を蹴り、牙を振り回す。


「よし。これで見えない」


 剣を引き抜いて離れたチェルシーは、そこで考え込んだ。

 目を潰しただけでは、この巨体は止まらない。むしろ、下手に近づけば危険だ。

 さて、ここからどう倒そう。


「うーん……」


 周囲を見渡し、改めてロックスチールボアへ目を向ける。

 重そうだ。あれだけ硬い外殻を全身にまとっているのだから、当然だろう。


「だったら……」


 チェルシーは片手を地面へ向けた。

 土魔法で土を盛り上げたり、掘り下げたりする程度なら、子どもの頃から何度もやってきた。

 問題は大きさだ。三メートル級の巨体を落とすには、それなりの穴が必要になる。


「少し大きめに……!」


 魔力を流し込むと、地面が低く鳴った。土が左右へ押し退けられ、一気に窪んでいく。

 深く、広く。ロックスチールボアが落ちても、簡単には這い上がれない程度に。


「このくらいかな」


 穴を作り終えると、チェルシーはロックスチールボアとの間に穴を挟む位置へ回り込み、剣の腹で近くの木を叩いた。

 乾いた音に反応し、視界を失った巨体がこちらを向く。


「こっちだよ!」


 もう一度音を鳴らすと、ロックスチールボアが走り出した。

 前が見えないまま一直線に突き進み、その前脚が穴の縁を踏み越える。

 巨体が穴へ転がり落ち、地響きがした。


「入った!」


 チェルシーは穴の縁から慎重に覗き込んだ。


 ロックスチールボアは必死に這い上がろうとしていたが、重い体を支えきれず、土壁を滑り落ちてしまう。

 牙で土を削ろうにも、視界を失っているため方向すら定まっていなかった。


「落とせたけど……」


 これだけでは倒せない。

 上から魔法を撃ち続ける方法もある。

 ただし、外殻を突破できるほどの威力を出そうと思えば、かなり魔力を使うことになる。


「どうしようかな」


 硬くて重く、防御力が高いロックスチールボア。ゲームではどう倒していただろう。

 確か、真正面から剣で攻撃するより、属性攻撃を使った方が楽だった。

 火でも風でも、土でもない。何属性だったか。


「あ。そういえばこのモンスター、水属性に弱かったよね」


 理由まで考えたことはなかった。ゲームでは単純に弱点属性として覚えていただけだ。

 けれど、今目の前にいる実物を見ると、別の方法も思いつく。


 これだけ重い外殻をまとっているのだから、水に入っても、まともに浮くことなどできないのではないか。

 チェルシーは穴を見下ろした。深さも十分にある。


「じゃあ、水を入れればいいか」


 両手を穴へ向け、魔力を込めた。

 勢いよく水が噴き出し、穴の底へ溜まっていく。

 

最初は足元だけだった水が腹まで達すると、ロックスチールボアは異変に気づき、さらに激しく暴れ始めた。

 だが、這い上がれない。もがいている間にも、水位は上がっていく。


「もうちょっと……」


 チェルシーが魔力を込め続けると、水は外殻を覆い、首元へ達した。

 ロックスチールボアが必死に頭を持ち上げる。しかし、足場はぬかるみ、重い体を支えられない。

 

 やがて、その頭まで水に沈んだ。

 しばらくは激しい水音が続いていたが、それも徐々に弱くなり、ついには静かになった。


「倒せた……?」


 十分に待っても、反応はない。

 チェルシーは慎重に穴へ近づき、長めの枝でロックスチールボアをつついてみた。

 それでも巨体が動かないことを確かめ、ようやく息をつく。


「よし!」


 剣を鞘へ戻した。

 正面から外殻を突破する必要などなかった。ゲーム知識と今使える魔法、それに地形。全部組み合わせれば、何とかなるものだ。


 チェルシーは腰へ手を当て、穴の底を見下ろした。


「さて。これ、どうやって穴から出そう」


 倒すことばかり考えていたが、三メートルの猪を穴から引き上げる方が、よほど大変だった。


 結局、土魔法で排水用の溝を作って穴の水を抜き、片側を緩やかな斜面へ作り替えた。それから身体強化を使い、どうにか巨体を引きずり出した。


「疲れた……」


 戦闘より疲れた気がする。


 そのまま全部持って帰るのはさすがに無理なので、必要な素材を回収することにした。

 巨大な牙に魔石、それから比較的取り外しやすい外殻の一部を回収していく。


 黒猫亭へ泊まりに来ていた冒険者たちから、倒した魔物の売れる部位は覚えておけと何度も言われていた。

 役に立つものは回収する。それも冒険者の仕事だ。


 作業を終えた頃には、随分時間が経っていた。


「そうだ、依頼!」


 ようやく本来の目的を思い出した。まだヒールリーフは十五株しかない。


 チェルシーは急いで残りを探し、ほどなくして必要な二十株を揃えた。少し多めに採れた分も、状態が良かったので一緒に持って帰ることにする。


「よし。帰ろう!」


 荷物を背負い直し、チェルシーは森を後にした。


 王都へ戻った頃には、ちょうど昼を過ぎたところだった。朝に出発したばかりなのに、初依頼はもう終わった。


 冒険者ギルドは朝より人が少なくなっていたが、受付も買取窓口もまだ忙しそうだった。

 チェルシーはまず、依頼を受けた受付へ向かった。


「ヒールリーフ、採ってきました!」

「お帰りなさい。早かったですね」


 受付の女性は少し驚きながら袋を受け取り、一株ずつ状態を確認していった。


「二十株。どれも状態は問題ありません。依頼達成です」

「やった!」


 声を弾ませるチェルシーに、女性が笑みを向ける。


「報酬は一ゴールドになります」


 差し出された金貨を、チェルシーは両手で受け取った。

 初めて自分で受けた依頼で得た、初めての報酬。たった一枚の金貨なのに、妙に嬉しい。


「ありがとうございます!」

「こちらこそ、お疲れさまでした」


 チェルシーは受け取った一ゴールドを大切にしまった。

 これで普通の宿なら一泊できる。冒険者として稼いだ、初めてのお金だ。


「あ、それと」


 思い出して、背負っていた荷物へ手をかける。


「途中で魔物に襲われたので倒したんですけど、素材も買い取ってもらえますか?」

「もちろんです。素材買取窓口へお持ちください」


 チェルシーは元気よく返事をすると、言われた通り、隣の買取窓口へ向かった。列に並ぶと、ほどなく順番が回ってきた。


「素材の買い取りをお願いします!」

「はい。こちらへどうぞ」


 職員が示した受け取り台へ、荷物から取り出した巨大な牙を置く。

 ごとん、と重い音が響き、職員の手が止まった。


「はい……?」


 チェルシーは続けて魔石を取り出し、回収した外殻も並べていった。


 職員はしばらく無言でそれらを見つめてから、ゆっくりとチェルシーを見た。

 その視線が胸元の黒銀色のバッジへ落ち、もう一度、牙へ戻る。


「少々お待ちください」


 何か問題でもあるのだろうか。チェルシーが首を傾げる前で、職員は巨大な牙を両手で持ち上げ、角度を変えて確かめた。

 表面には剣でつけられたような古い傷がいくつかあり、一部には小さな欠けもある。


「これ……ロックスチールボアの牙ですよね。どこで手に入れました?」

「癒しの森です」


 職員の表情が変わった。


「今日ですか?」

「はい」


 チェルシーが頷くと、職員は牙を台へ戻した。


「誰が倒したんです?」

「私です」


 その手が、再び止まる。


「一人で?」

「一人です」


 周囲にいた別の職員まで振り返った。一人が「ちょっと待って」と近づき、台の上を覗き込む。


「癒しの森のロックスチールボア? この傷……前に討伐へ行ったC級パーティがつけたものじゃないか?」


 横から伸びた指が、牙に残る傷をなぞった。「魔石も確認して」と声が飛び、記録を取りに奥へ向かう者もいる。

 急に慌ただしくなった窓口で、チェルシーは職員たちの顔を見比べた。


「どうしました?」


 運ばれてきた記録と素材を照らし合わせていた最初の職員が、顔を上げた。


「このロックスチールボア……現在、C級討伐依頼が出ている個体です。牙についている古い傷が記録と一致します。数日前、討伐を試みたC級パーティがつけたものです。それに、回収された外殻の特徴も報告と一致しています」


「じゃあ、朝言われたやつだったんだ」


 チェルシーが目を丸くすると、職員は怪訝そうに眉を寄せた。


「朝言われた?」

「ヒールリーフの依頼を受けた時、遭遇したら逃げてくださいって」


 職員たちが黙った。


「それで?」

「襲ってきたので倒しました」


 再び沈黙が落ちた。ややあって、職員の一人が身を乗り出す。


「どうやって?」

「外殻が硬くて剣が通らなかったので、まず両目を狙いました」


 聞かれたので素直に説明すると、職員は「両目を」と繰り返した。その横で、別の職員が記録用の紙を引き寄せる。


「そのあと土魔法で落とし穴を作って、そこに誘導して落としました」

「落とし穴」


 紙の上を走っていたペンが止まったが、チェルシーは構わず続けた。


「それでも倒せなかったので、水に弱かったのを思い出して、水魔法で穴をいっぱいにして」


 そこで両手を合わせる。


「溺れさせました」


 買取窓口が静まり返った。

 やがて誰かが「なるほど」と呟いたが、どういう意味の「なるほど」なのかは分からなかった。


「何かありましたか?」


 その時、背後から落ち着いた声が聞こえた。

 振り返ると、眼鏡をかけたヘンリーが歩いてくる。騒ぎを聞きつけたらしい。


「ヘンリーさん!」

「チェルシーさん。初依頼はどうでしたか?」


 いつも通りの穏やかな問いかけに、チェルシーは胸を張った。


「無事終わりました!」

「それは何よりです」


 そこでヘンリーの視線が、受け取り台にある巨大な牙の上で止まった。


「これは?」


 買取担当が事情を説明すると、ヘンリーは途中で一度も口を挟まず、最後まで聞いてからチェルシーへ向き直った。


「チェルシーさん。今朝、D級のヒールリーフ採取依頼を受けたんですよね?」

「はい!」


 チェルシーの返事を受け、ヘンリーは台の上の素材へ目をやった。


「その途中で、C級討伐依頼の対象だったロックスチールボアと遭遇し、単独で討伐した」

「はい!」


 ヘンリーは眼鏡の位置を直した。


「昨日、冒険者登録したばかりですよね」

「そうですね」


 その時、酒場の方から豪快な笑い声がした。


「だから言っただろ?」


 昼食でも取っていたのか、グスタフがジョッキを片手にこちらへ歩いてくる。

 チェルシーが名前を呼ぶと、軽くジョッキを掲げて応えた。台の上の牙を見ても、特に驚く様子はない。


「チェルシーはD級じゃないと思うって」


 ヘンリーは無言でグスタフを見つめ、それから口を開いた。


「あなたの言う通りでしたね。ですが、登録翌日にC級討伐対象を単独で狩ってくるとは聞いていません」

「そこまでは俺も知らん」


 グスタフは悪びれもせず、ジョッキを傾けた。


「先にもう少し詳しく教えておいてください」

「聞かれなかったからな」


 ヘンリーが小さく息を吐く。チェルシーは二人を見比べ、口を挟んだ。


「でも、依頼はヒールリーフだったので、ちゃんと二十株採ってきましたよ?」

「そこは問題ありません」


 即答したヘンリーは、チェルシーの胸元にある黒銀色のバッジへ視線を落とした。


「ロックスチールボアは通常、C級冒険者が複数名で討伐する相手です。B級なら単独討伐も珍しくありませんが……少なくとも、D級が一人で相手をする魔物ではありません」

「そうなんですね」


 チェルシーが頷くと、ヘンリーはわずかに眉を寄せた。


「受付でも説明されたはずですが」

「はい。逃げてくださいって」


 素直な返事に、ヘンリーは一瞬言葉を失った。


「なぜ倒したんです?」

「逃げようとはしたんですけど、向こうが襲ってきたので」


 ヘンリーは「なるほど」と頷き、しばらく考え込んだ。やがて買取担当へ向き直る。


「討伐対象の個体で間違いありませんね?」

「牙の傷と外殻の特徴、どちらも記録と一致しています」


 差し出された記録へ目を通したヘンリーは、「分かりました」と答え、再びチェルシーを見た。


「本来、D級からC級への昇格には、いくつかの依頼を問題なく達成して実績を積んでもらいます。ですが、今回は正式なC級討伐依頼の対象を単独で討伐した実績があります」


 チェルシーは瞬いた。話の行き先が見えずにいると、ヘンリーが続ける。


「少し待っていてください。本部長へ確認を取ってきます。おそらく、特例昇格になるでしょう」

「昇格?」


 思わず聞き返すと、ヘンリーは頷いた。


「C級へです」


 チェルシーは自分の胸元を見た。そこには、昨日もらったばかりの黒銀色のバッジがある。


「昨日D級になったばっかりなんですけど……」

「私もそう認識しています」


 ヘンリーは淡々と答えた。横ではグスタフが肩を揺らして笑っている。


「だから言っただろ?」


 その楽しそうな顔を、チェルシーはじっと見上げた。


「グスタフさん、楽しんでません?」

「そりゃな」


 否定する気すらないらしい。

 ヘンリーが本部長への確認に向かう間にも、ロックスチールボアの素材査定は進められていった。


 討伐依頼の報酬は十ゴールド。それとは別に、牙や魔石などの素材買取代も支払われるらしい。チェルシーは金額を聞いて目を丸くした。


「薬草よりずっと多い……!」


 グスタフが笑いながら頷く。


「そりゃC級討伐依頼だからな。危険な仕事ほど報酬も高くなる」

「なるほど」


 冒険者の世界は分かりやすい。


 しばらくして、ヘンリーが小さな箱を手に戻ってきた。


「本部長の承認が出ました」


 差し出された箱が開かれる。中に入っていたのは、ブロンズ色のバッジだった。

 中央に刻まれた文字は――C。


「チェルシー・クロンプトンさん。本日付でC級冒険者へ昇格します」

「ほんとに!?」


 ヘンリーが頷くのを見届けてから、チェルシーは胸元のD級バッジへ目を落とした。

 昨日もらったばかりで、まだ一日しか使っていない。


「このバッジ、もう返すんですか?」

「返していただきます」


 チェルシーは黒銀色の表面を指でなぞった。


「ちょっともったいない……」


 ヘンリーの眉がわずかに動いた。


「普通は昇格を喜ぶところですよ」

「嬉しいですよ! でも昨日もらったばっかりなので!」


 グスタフが腹を抱えて笑った。

 結局、黒銀色のD級バッジを返却し、新しいブロンズ色のC級バッジを受け取った。


 冒険者になって二日目。初めての依頼を終えたその日に、チェルシーは早くも一つ上のランクへ昇格した。

 本人としては、ただヒールリーフを採りに行っただけのつもりだった。

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