その8
魔界に来てから、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
私は今日、日本に帰る。
昨日の夜はポポタンと魔王(+コウモリ)、そしてハンズ部隊と小さな送別パーティーをした。
新しくなった大空間のリビングでお菓子を食べ、お茶を飲み、床に転がって天井の星空を眺めながら、二人で色んな話をした。
家族のこと、仕事のこと、友人のこと。
本来なら共通点なんてほとんどないはずなのに、同じような悩みを抱えていたり、くだらない冗談で笑い合ったりできる。
目を細めて無邪気に笑う魔王を見ていると、なんだか同世代の普通の男の子のように見えた。
楽しかった思い出を何度も振り返りながら、見送ってくれるポポタンとハンズ部隊に笑顔で手を振り返す。
虹色のゲートをくぐり、マーブル模様のぐにゃぐにゃした幻想的な空間を、魔王と2人、はぐれないように手をつないでゆっくり歩く。
来るときは一瞬だったけれど、帰り道は少し異空間を歩く必要があるらしい。
よく分からない仕組みだが……魔王と共に過ごす最後の時間が少しでも伸びることが、素直に嬉しかった。
「魔王さん、この前は守ってくれてありがとうございました。なんだかバタバタしていて、ちゃんとお礼も言えてませんでしたね」
「……ああ、リリアのことかな。お礼なんていらないよ。僕が、君に傷ついてほしくなかっただけだから」
サラリと言われた言葉に胸がキュッとなる。
どうしてこんなに優しい声で話すのだろう。
固めたはずの決意が揺らいでしまいそうだ。
もし私が「帰りたくない」と言えば、魔王はきっと優しく頷いて許してくれるのだと思う。
けれど、このお家はもう完成した。
例え元の世界で私を待っているのがブラック企業だったとしても、向こうにはまだ見ぬ「未来のお客様」がいるはずだ。
だから、私の本来の居場所は日本にある。
「魔王さん、私、この一ヶ月すごく楽しかったです。本当にありがとうございました」
色んなことがあったけれど、本当に夢みたいな時間だった。
魔王の非常識でめちゃくちゃな言動も、これで最後かと思うと無性に名残惜しい。
「僕も、すっごく楽しかったよ。サクラはいつもめちゃくちゃで、見ていて飽きなかったなぁ」
(……まさか魔王も同じことを思っていたとは)
日本の常識は魔界の非常識、ということだろうか。
複雑な心境が顔に出ていたのか、魔王は私の顔を見て「アハハ」と楽しそうに笑った。相変わらず魔界にデリカシーという概念はなさそうだ。
ふと、魔王が何か考え込むように無言で遠くを見据えた後、口を開いた。
「ねえサクラ、シリウス、だよ」
「え? なんですか?」
「シリウス、僕の名前だよ」
「えっ!? それって……人に言っちゃダメなやつじゃないんですか……!?」
過去の自分の発言を、あまりにあっさりと反故にする魔王に驚く。
彼の名前を知りたくないわけではない…どちらかと言うと知りたかったけれど、魔界の未知のルールに対する恐ろしさはある。
「本当はね、教えないようにしてたんだけどさ。サクラには、知ってほしくなっちゃったんだ」
こちらの困惑をよそに、魔王シリウスはいつも通り、ふわりと穏やかに笑う。
見慣れた笑顔に、淡い期待があふれ出してしまいそうになる。
名前を知りたい、知ってほしいと思うその理由が、私の抱いている感情と同じなのかどうか、確かめたい。
「それって……どうしてですか?」
勇気を振り振り絞って尋ねた私に、魔王はいつもの調子で煙に巻いてきた。
「さあ。なんでだろうねぇ。次に会う時までに、考えておくよ」
はぐらかすような答えだったけれど――「次」という言葉が、嬉しかった。
私たちに、本当に「次」なんてあるのだろうか。
あるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも、この出会い自体が奇跡だったのだから。
魔王は私の方に向き直り、繋いでいた手を優しくほどいた。
「着いたよ。お別れだね」
「え……?」
周りはさっきと変わらないマーブル模様の空間だが、確かに境界線に達したらしい。私の足元が、ゆっくりと透明に透け始めていた。
(出口なら出口らしく、扉とか作ってくれないと……心の準備ができないじゃないか)
どんどん透けて消えていく自分の体に焦り、何か言葉をかけようとしたけれど、胸がいっぱいでうまく声が出ない。
そんな私を愛おしそうに見つめて、魔王が先に口を開いた。
「またね、サクラ」
ああ……これで本当にお別れなんだ。
最後くらい、ちゃんと笑顔で返事をしなくちゃ。
溢れ出しそうな涙を必死でこらえながら、私は目いっぱいの笑顔を返した。
「またね、シリウスさん!」
次の瞬間、私の視界は眩しい真っ白な光に包み込まれた――。




