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8話 ~タヌキの神様再登場~

 


 王立士官学校の校舎の片隅。


 男子トイレの個室の中から、本日何度目になるか分からない長いため息が漏れ聞こえていた。


 中にこもっているのは、もちろんピーターだ。


 別にトイレに用があったわけではない。ただ、どうしても一人になって心を落ち着かせたかったのだ。


 先ほどの学院長の脳筋全開な演説によって、全校生徒に事情が知れ渡ってしまった。おかげで教室にいる時も、廊下を歩く時も、周囲からの好奇と興奮の混ざった視線が気になって仕方がなかった。


(どうしてこんなことになってしまったのか……)


 何度考え直しても、どうしようもなかった。


 まるで制御不能のウォータースライダーに無理やり乗せられたかのように、自分の意思とは関係なく、勝手にこの最悪な状況へと流されてきてしまった。あまりにも理不尽で、避けようがなかった。

 ピーターは再び、深いため息をついた。


「どうしたの? なんか辛そうだねぇ?」


 どこかで聞いたことのある、ぽてっとした気の抜けた声が個室の中に響いた。


 ピーターが驚いて目の前──トイレットペーパーのホルダーの上を見上げると、そこには手のひらサイズの、つぶらな瞳をした可愛いタヌキがちょこんと座っていた。


「え!? た、タヌ神様!?」


「タヌ神様だよ。君のことが心配で、ちょっと天界から様子を見に来たんだ」


「ありがとうございます! もしかして、僕を助けに来てくれたんですね!?」


 地獄に仏、いやトイレにタヌキである。ピーターが輝かせた目で縋り付くと、タヌ神様は短い前足を前で合わせて、申し訳なさそうにパタパタと振った。


「ううん、助けるとかは直接できないんだ。ごめんね」


「ふぇ?! 助けてくれないんですか!?」


「ごめんだけど、天界のルールで現世に直接干渉しちゃいけないことになってるの」


 タヌ神様は、ちょっぴり寂しそうな顔でキュウと鳴いた。


「そうですか……」とピーターは激しくがっかりしたが、もともと親切で転生させてくれた神様だ、それ以上責めるようなことは何も言えなかった。


「いまね、君の頭の中を覗いて見たよ。入学初日から『決闘』だって? 大変じゃない」


「そうなんですよ。本当に最悪です……」


「そんな危ないことはやらない方が良いよ。怪我でもしたら大変だ。……ねえ、わざと負けたりはできないの?」


「それが、そうもいかないんですよ……」


「どうして?」


「この学校のルールで、決闘に負けたら『退学』なんです」


「退学? でも、怪我をするよりは、学校を辞めて実家に帰った方が安全じゃない?」


 タヌキの至極真っ当な意見に、ピーターは苦笑混じりに首を横に振った。


「僕がこの学校に合格したことを、両親や親戚、それに実家の会社の人たちが、本当に涙を流して大喜びしちゃってるんですよ。奴隷たちまでお祝いの焼肉パーティーをしていて……。それなのに、僕が入学初日で退学になったなんてことになったら、みんなを心底ガッカリさせてしまう。正直、騎士になりたいとは思いません。でも、せっかく入ったからには学校をちゃんと卒業したいんです。だから、簡単に負けるわけにはいかないんです」


 ピーターの言葉を聞いたタヌ神様は、ハッと丸い目を見開くと、今度は優しく微笑んだ。


「大丈夫! 君なら勝てるよ! だって小さい頃から、ものすごい集中力でトレーニングしてきたんでしょ? 僕、ずっと天界から見てたから知っているよ」


「でも……これは普通の戦いじゃないんです。相手は上級生三人、僕は一人なんです」


「えっ、なにそれ! 三対一ってこと? 卑怯じゃない!?」


「この学校のルールでは、決闘をする者同士に身分の差(貴族と平民)があるときには、上の身分の側は『助太刀すけだち』を二人まで付けることができると決まっているんです」


「そんなの絶対に卑怯だよ!」


「そうなんですけど……それがこの学校の、延いてはこの世界のルールなんです」


 タヌ神様は、一人の少年にあまりにも多くの不条理が押し寄せていることに胸を痛め、真剣な目で見つめてきた。


「それでも君は……逃げずに、勝つつもりなのかい?」


「はい」


 ピーターはしっかりと頷いた。


「やっぱり君は強いね……。僕だったら、あんな怖い上級生たちに睨まれたら、それだけで怖くなっちゃって戦うなんて絶対にできないよ」


「いえ、強いわけじゃありません。一応『秘策』もあるので」


「……それってもしかして、魔法のこと?」


「はい。この世界に来てからゲットした特殊魔法があるのでそれを使おうかと思っています」


 タヌ神様は、少し心配そうに首を傾げた。


「たしか、攻撃に使えるような魔法じゃなかったと思うけど大丈夫?」


「大丈夫だと思うんですけどね、やってみないと分かりません」


「君ならできるよ」


「そうでしょうか?」


「そうだよ。僕にはわかるんだ。君の魂の輝きは、普通の人とは比べ物にならないくらいに強いんだ。だからこそ、僕は君に転生してほしいと思ったんだよ。君ならできる、間違いなく。この僕が保証するよ!」


 小さな太鼓のようなお腹をポンと叩いて太鼓判を押してくれるタヌ神様。


 その温かい言葉に、ピーターの胸の奥に眠っていた「生き残るための闘志」が静かに燃え上がった。


「……ありがとうございます。なんだか、できるような気がしてきました」


「うん、それじゃあ頑張ってねー! 相手を化かしてやるんだ! 怪我だけは絶対にしないようにねー!」


 手を振るタヌ神様の姿が、光の粒子となってフッと消え去った。


 後に残されたピーターは、完全に覚悟を決めていた。絶対に無傷で勝って、学校に残る。


 キリッと引き締まった、かつてないほど格好いい男の顔になったピーターは、個室の鍵を開けて外へと力強く一歩を踏み出した。


「──よし、行くぞ」


 その瞬間。


「あ、あれ……?」


 そこにはトイレの冷たい床にへたり込み、ボロボロと大粒の涙を流している生徒の姿があった。


「どうしたの?」


「トイレが空いていれば……トイレが空いていれば間に合ったのにぃぃぃ……ッ!!」


 絶望に打ちひしがれ、虚空を仰ぎ見ながら号泣する哀れな男子生徒。そして──あまりにも強烈な『便のにおい』が容赦なく貫いた。


(ま、間に合わなかったんだ……僕がたったひとつの個室トイレを占拠してたせいで……!!)


「う、うわあああああああ!! ご、ごめんなさいぃぃいいいいいッ!!」


 タヌ神様との感動的な会話で得たシリアスな覚醒感は、どこかへ完全に吹き飛んだ。ピーターは涙目になりながら、別の意味での地獄絵図が広がるトイレから、脱兎のごとく飛び出すのだった。






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