第9話 体温の共有【過去】第5話「管理された幸福」
光莉は北海道の内陸部、かつて酪農が盛んだった小さな村に足を踏み入れた。
夏の終わりだった。
羊たちがのんびりと草を食む風景を想像していた彼女の目の前に広がっていたのは、幾何学模様のように整然と区画された住宅地だった。
どこもかしこも同じ白い壁。同じ高さの生垣。同じ間隔で並ぶ街灯。広大だったはずの牧草地は、AIが「効率的」と判断した区画ごとに均一に区切られ、そこに同じ設計図から生まれた家々が隙間なく並んでいた。
村は静かだった。
人の話し声は聞こえる。でも、どこか遠くに響く。靴音すら、吸い込まれるように消える。空気は澄んでいた——澄みすぎていた。湿り気も、埃の匂いも、草の青さも、何もない。まるで、誰も呼吸していない場所のようだった。
誰もが穏やかに笑い、誰もが丁寧に挨拶をする。信号は歩く速度に合わせて変わり、街灯は日没の瞬間に一斉に点灯する。ゴミ一つ落ちていない。雑草一本生えていない。
完璧だった。
言葉にできないほど。
光莉は小さな宿に泊まった。
木造の古い家を改修したその宿も、中に入ればすべてが最適化されていた。廊下の隅に埃はなく、障子の桟は一切歪んでいない。
女将は優しく笑い、部屋に案内してくれた。その笑顔も完璧だった。口角の上げ方、目の細め方、頭を下げる角度——すべてが「この場にふさわしい」正確さで配置されていた。
部屋に通され、光莉はふと自分のストッキングに手をやった。
伝線はまだある。
太ももの裏側、誰にも見えない場所で、一本の糸だけが規則的な編み目から外れている。彼女はそれを指でなぞった。ざらつく感触。それが、ここでは唯一「完璧じゃない」自分の部分だった。
夕食時、食堂で一人の少年と目があった。
十代半ば。ほっそりとした体つき。彼は席に着き、決められた量の食事を決められた速度で口に運んでいる。その動作は無駄がなく、機械的ですらあった。
しかし——彼が一瞬、顔を上げたとき、光莉は見た。彼の指先が、かすかに震えていた。
それはこの村ではあり得ない「違和感」だった。
他の住民たちの手は、食事のときも、箸を置くときも、一切震えない。指先は常に最適な温度で、最適な位置にある。
けれど、この少年の指先だけは、わずかに——ほんの数ミリの振幅で——震えていた。
光莉はその震えを見逃さなかった。彼女の「伝線」が、そこに反応した。
その夜、彼女は寝付けなかった。
窓の外の街灯が、決まった時間に消えた。その瞬間、村は完全な闇に包まれた。自分の手のひらさえ見えない。でも、自分の鼓動だけははっきりと聞こえた。規則的ではない。時々、早くなる。時々、遅くなる。時々、跳ねる。
(村の住民たちは、この跳ねる鼓動を持たないのかもしれない)
光莉は布団の中で自分の手首を押さえた。脈を数える。規則的ではない。それが、自分がまだ「ここにいる」証だった。
彼女はノートを開いた。ペンを握る。紙の表面のざらつき。インクの匂い。ペン先の微かな震え。それらだけが、彼女を自分の身体に繋ぎ止めていた。
何かを書こうとして、ペンが止まった。
(誰も「なぜ」を問わない)
この村では、誰もが満足している。不満を言う者はいない。文句を言う者はいない。でも——その「満足」に、理由がない。
光莉はゆっくりと書き始めた。
「この村には、『理由』がない。誰もが笑っている。でも、なぜ笑っているのか、誰も説明できない。笑うべきだから笑う。最適だから笑う。それでいいのだろうか。笑うことに理由はいらないのかもしれない。でも——理由がない笑顔は、本当に笑顔なのだろうか。」
ペン先が止まった。
あの少年の指先の震えを思い出した。あの震えには、理由があった。震えなければならない理由が、彼の中にあった。それが、彼の「生きた感触」だった。




