第8話 体温の共有【未来】第4話「康介のメモ」
その夜、康介は一人、自分のデスクに残っていた。
エリアの照明は落とされている。モニターの青白い光だけが、彼の顔を照らしている。彼は机の引き出しを開けた。鍵を回す音が、静寂に響く。その音は、誰かに聞かれていはいけないような、密やかなものだった。
彼は周りを見回した。誰もいない。誰もいないことを確認してから、ゆっくりと引き出しを開けた。
奥にしまってある、一枚のメモ。黄ばんだ紙。折りたたまれた跡。ところどころ、インクが滲んでいる。
彼はこのメモを、子供の頃から知っている。父が持っていて、父の父が持っていて——代々、このメモだけは、誰にも見せずに受け継がれてきた。彼がこのエリアの管理を任された時、父はこのメモを彼に手渡した。その時、父は何も言わなかった。ただ、このメモを守れ、と。その言葉の意味を、彼はずっと考えてきた。
そこには、こう書かれている。
「stocking_night_0612」
彼はこのメモを、代々受け継いできた。
その裏蓋には、歴代のエリア長たちが密かに刻んできた、鋭い爪痕のような署名の列があった。
父から、祖父から、そのまた前から。誰が書き残したのかはわからない。何を意味するのかもわからない。ただ、「これを守れ」と言われて、彼はこのエリアの管理を任された。このエリアのナンバリング「0612」も、このメモに由来している。彼はそのことを、ずっと知っていた。でも、その意味を、ずっと考えないようにしていた。考えたら、自分が守ってきたものが、何だったのかわからなくなる気がしたから。
康介はメモを手に取った。指先がかすかに熱くなる。彼はその感触を、子供の頃から知っている。いつも同じ。熱くもなく、冷たくもない。でも、確かに「何か」がそこにある。その熱は、彼の指先から、手のひらへ、腕へと広がっていく。彼はその熱を、ずっと拒んできた。拒むことで、自分を「管理者」として繋ぎ止めてきた。
「E——」
彼は呟いた。彼女の言っていた「一致」が気になっていた。でも、認めたくなかった。認めたら、自分がこれまで信じてきた「管理」と「最適化」が、すべて崩れてしまう気がしたから。自分が守ってきたものが、何だったのかわからなくなる気がしたから。彼はメモを引き出しに戻した。鍵をかける。ガチャリ、という音が、やけに大きく響いた。その音が、誰かに聞かれていないことを祈りながら。
康介は窓の外を見た。夜景が広がっている。その光のどこかに、彼が守るべき「何か」がある。まだわからない。でも、彼の指先には、確かに「熱」が残っていた。彼はその熱を、握りつぶすように拳を閉じた。指の関節が白くなる。痛みが、彼を現実に繋ぎ止める。
彼はもう一度、引き出しを開けた。メモを手に取る。今度は、じっくりと眺めた。百年以上前の紙。誰かが、力を込めて書いた文字。その筆圧が、紙の裏側まで達している。彼はその文字を指でなぞった。Eが言っていた「データの手触り」というものが、今なら少しだけわかるような気がした。彼はメモを引き出しに戻し、そっと閉じた。鍵はかけなかった。それが、彼の小さな「抵抗」だった。
康介はオフィスを出た。エリア長としての一日が終わる。
「お疲れさまでした」
誰に言うでもなく、呟いた。
扉の外に出たとき、壁のモニターが無機質に数字を表示した。「186文字」。
「……ふっ、まずまずか」
彼は小さく呟き、暗い廊下を歩き出した。
――『中継セクター観測保管庫』――
※最下層にノイズとして格納
観測LOG_011.5:康介の机
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