第7話 体温の共有【未来】第3話「瞳の輪」
Eはカフェテリアの隅っこで、冷めたコーヒーを眺めていた。
窓の外は、曇り空だった。光が差し込まず、室内は薄暗い。カフェテリアには誰もいない。いつもなら、ここで誰かと話している瞳の姿があるはずなのに、今日はどこにも見えない。Eは一人で、冷めていくコーヒーの表面に映る自分の顔を見つめていた。その顔は、少しだけ青ざめている。康介と言い争った後の、やり場のない疲れが、そこにあった。
「Eさん、どうしたの?顔色が良くないよ」
顔を上げると、瞳が立っていた。彼女はいつものように、誰かの輪から抜けてきたところらしい。彼女の手には、二つのコーヒーカップがある。一つは自分のもの、もう一つは——Eのために持ってきてくれたのだろう。Eは彼女のそういうところが、憧れであり、同時に少し怖かった。誰とでも話せて、誰の「四方山話」も集めてしまう。自分には絶対にできない。でも、今はその「誰とでも話せる」瞳が、とても頼もしかった。
「大丈夫です。ちょっと、考え事を」
「康介さんに何か言われたんでしょ」
Eは驚いた。瞳は彼女の隣に座り、自分のコーヒーカップを置いた。彼女の指先は、カップの表面をそっと撫でている。その仕草は、いつも通りだった。でも、その目は——Eのことを、ずっと見ていたような優しさがあった。
「その顔、いつも私が見てる顔だよ。何か言いたいのに、言えない。何か感じてるのに、信じてもらえない——昔の私、そうだったから」
Eは何も言えなかった。瞳は優しく笑った。その笑顔には、長い時間をかけて積み上げてきた「何か」があった。彼女の目尻には、微かな皺。それは、何度も誰かの話を聞いて、何度も誰かを笑わせてきた証だった。
「ねえ、Eさん。私ね、昔はもっと無口だったんだよ。誰かと話すのも、自分の意見を言うのも、すごく怖かった」
「そうだったんですか?」
「うちの家、昔は——『おはよう』『ただいま』『おやすみ』。それだけだった」
Eは息を飲んだ。
「父も母も、それに従ってた。でも私——どうしても『今日、学校でこんなことがあった』って、話したかった。誰も聞いてくれなかったけど」
瞳は笑った。でもその笑顔は、少しだけ切なかった。
「だから、今は——たくさん話すの。誰かが『聞いてほしい』と思ったときに、私が聞いてあげられるように」
「うん。でも、ある時気づいたんだ。『四方山話』って、何でもない話ほど、誰かを救うんだって。」『今日のコーヒーは美味しかった』『昨日、変な夢を見た』——そんなことの積み重ねが、人と人を繋げるんだって。大きな話じゃなくていい。特別な話じゃなくていい。ただ、『今日、こうだった』って、それを誰かに伝えるだけで、人は一人じゃなくなるんだよ」
瞳の言葉は、Eの胸にゆっくりと染み込んでいった。彼女は自分のコーヒーカップを見つめた。もう冷めている。でも、その冷たさの中に、誰かの「温もり」が残っているような気がした。瞳が持ってきてくれた新しいコーヒーは、まだ温かい。湯気が立ち上り、ガラス窓に小さな曇りを作っている。
「EさんはEさんのままでいいんだよ。あなたの『気づく力』は、きっと誰かの役に立つから。たとえ、今は誰にも信じてもらえなくても。康介さんだって、いつか——」
瞳はそこで言葉を止めた。彼女もまた、康介のことを何か知っているのかもしれない。Eはそれを尋ねなかった。尋ねる必要がないことを、何となく感じたから。
「ありがとうございます、瞳さん」
「いいえ。私も、昔、誰かにそう言われたから。その人はね、私に『あなたはあなたのままでいい』って言ってくれた。それだけで、すごく楽になったんだ」
瞳はコーヒーカップを手に取り、軽く掲げた。Eもそれに倣った。カチリ、と小さな音がして、二人のカップが触れ合った。その音が、カフェテリアの静けさの中で、やけに長く響いた。温かいコーヒーの湯気が、二人の間にゆっくりと広がっていく。




