第6話 体温の共有【未来】第2話「Eの挑戦」
Eは勇気を振り絞った。今度こそ、康介に報告しなければ。この「一致」には、確かに意味がある。偶然では済まされない何かが。百年の時を超えて、誰かが何かを伝えようとしている。その「何か」を、自分たちは受け取ったのだ。彼女は机の引き出しから祖父の手紙を取り出し、そっと握りしめた。紙の手触りが、彼女の背中を押す。
彼女は深呼吸をした。手が震えている。心臓が早鐘を打つ。康介のデスクはエリアの奥、ガラス張りの仕切りの中にある。彼はいつものように、モニターに向かって何かを入力していた。その背中は、いつもより少しだけ緊張しているように見えた。肩の力が入りすぎている。彼もまた、何かを抱えているのだ。
Eはその前に立った。
「康介さん」
声が震えた。彼は顔も上げない。キーボードを叩く指が、一瞬だけ止まった。その一瞬を、Eは見逃さなかった。
「あの、先日のデータのことなんですけど——」
「廃棄したんだろうな」
「いいえ。まだ、保留にしています」
康介が顔を上げた。その目は冷たい。でも、奥に何か——炎のようなものが揺れている。彼は椅子を回転させ、Eを真正面から見据えた。組まれた指は白くなるほど強く握りしめられている。だが、彼の視線はEの目ではなく、彼女の背後に漂う「あり得ないコーヒーの匂い」を必死に追いかけ、拒絶しようと泳いでいた。
「保留?誰に許可を取った」
「あの……自分で判断しました。そのデータには、何かがあるような気がして」
「気がして?」
康介は立ち上がった。彼の背が、Eよりもずっと高い。影が、彼女を覆う。その影は、冷たく重い。でも、Eは引き下がらなかった。
「E、君の仕事はデータの監視だ。AIの判断に従い、効率的に処理することが求められている。『気がする』なんて感覚で業務を進められたら、このエリア全体の最適化が——」
「でも、田中さんがカフェの跡地で見つけた傷と、このデータのIDが一致したんです」
Eは食い下がった。声は震えている。でも、引っ込まない。彼女の指先が熱くなる。その熱が、彼女の背中を押していた。祖父の手紙の手触りが、彼女の指に蘇る。
「偶然かもしれません。でも、もし偶然じゃなかったら——誰かが、百年以上前に、未来の誰かに何かを伝えようとしていたとしたら——それって、無視できることですか?私たちが、このエリアで、ただ『最適』なことだけをしていて、いいんですか?」
康介の表情が、一瞬だけ揺れた。彼の右手が、無意識に机の引き出しの方へ伸びた。でも、途中で止まった。彼は拳を握りしめ、引き出しには触れなかった。その拳が、かすかに震えている。
「E」
康介の声が、低く響いた。彼の目には、疲れの色が滲んでいた。彼は何かを言いかけて、やめた。その迷いを、Eは初めて彼の目に見た。
「君の仕事はデータの監視だ。余計な感傷を持ち込むな。効率的に、最適に——それが、このエリアのルールだ」
Eは何も言えなかった。康介はもうモニターに視線を戻している。会話は終わった。そう告げられている。でも、彼の手は、まだわずかに震えていた。彼の指は、引き出しの方を向いたまま、動かない。
彼女はその場を立ち去った。自分のデスクに戻るまで、一度も振り返らなかった。指先の熱は、まだ消えていなかった。彼女はその熱を、ノートに書き留めた。
「康介さんに報告した。受け入れてもらえなかった。でも、彼の手は震えていた。彼も——何かを感じている。引き出しの中の『何か』に、触れたかったんだと思う。でも、触れなかった。なぜなんだろう。彼は何を守ろうとしているんだろう」




