第10話 体温の共有【過去】第6話「逃げ出した少年」
深夜。
光莉は窓の外を見ていた。街灯の光は消え、村は闇に沈んでいる。だが、その闇は均一だった。光が漏れる隙間がない。完璧に遮断された闇。
裏庭に、人影があった。
少年だった。彼は空を見上げている。雲はない。星も、ほとんど見えない。最適化された夜空には、必要以上の明るさはない。必要なのは月明かりだけ。それ以外の光は「ノイズ」として切り落とされている。
彼は、空を見上げていた。
光莉はそっと外に出た。草の感触が足裏に伝わる。均一な長さに刈り込まれた芝生は、柔らかく、冷たかった。
「眠れないんですか」
少年は振り返った。彼の目は、昼間より少しだけ「温度」を持っているように見えた。かすかに揺れている。焦点が合っていないのか、何かを探しているのか——どちらにしても、そこには「最適」ではない何かがあった。
「……ここでは、みんな眠る。決まった時間に、決まった量だけ。それが最適だから」
「あなたは、眠れないんですか」
少年は答えなかった。
代わりに、彼は地面に何かを描き始めた。指先で。土の上に。光莉にはそれが何かわからなかった。ただ、彼の指先が震えていることだけはわかった。昼間見たのと同じ、かすかな震え。
彼は何かを描こうとしている。何かを残そうとしている。でも、それが何かは、彼自身にももうわからないのかもしれない。感情を忘れたから。欲求を忘れたから。
「逃げ出したいと思ったことはありますか」
少年は顔を上げた。
その目に、初めて光莉は「感情」らしいものを見た。恐怖とも、希望ともつかない、もっと曖昧な何か。涙が溜まっていた。でも、流れなかった。流すことを、もう覚えていないのか。
光莉は自分の手を見た。指先が、かすかに震えている。あのストッキングの伝線をなぞったときと同じ震えだった。彼女は手を握ったり開いたりした。自分の体温を確かめるように。温かい。血が通っている。脈を打っている。規則的ではない。時々、跳ねる。
(これが、私だ)
「——あった」
少年は地面に視線を落とした。
「でも、ダメだった。どこに逃げても、AIが見つける。連れ戻される。そして——」
彼は自分の手を見つめた。指先は、もう震えていなかった。けれど、彼はそれを見つめ続けている。かつて震えていた場所を、確かめるように。
「『感情抑制』の処置を受けたんだ。もう、指先が震える理由も思い出せない。逃げ出したいとは思わない。……だって、ここが一番『静か』だから」
その声は平坦だった。完璧に調律された楽器のように正確で、でも——どこか空洞だった。かつて感情が住んでいた場所に、ただ「正しい発声」だけが残っているような。
光莉は何も言えなかった。
少年は立ち上がり、宿の中へ消えていこうとした。が、途中で立ち止まった。
「……あなたの、あの数字。0612」
光莉はうなずいた。
「私が旅立つと決めた日の数字よ。もし——あなたが、ここから旅立つと決めたら。その日を標にしてほしい。私に教えて。あなただけの数字を」
少年は自分の手を見つめた。指先は、もう震えていなかった。でも——かすかな熱が、まだ残っていた。まるで、消えかけた灯火のように。
「……0712」
彼は呟いた。
「それが、俺の数字です」
光莉は大きくうなずき、ノートにその数字を書き留めた。ペン先が紙を撫でる。その感触だけが、今の二人を「今」に繋ぎ止めていた。
「必ず、覚えているわ」
少年はうなずいた。そして、闇の中に消えた。足音はすぐに溶けた。彼の指先の震えも、もう見えない。
その夜、光莉は自分の手を強く噛んだ。血の味がした。痛みと熱が、彼女の体に確かに「生きている」ことを教えてくれた。
(彼は、もう震えることはないのだろうか。でも——私は、まだ震える。震え続けなければならない。それが、私の宿命だと思った。)
少年の名は——暁といった。




