第85話 【異常値の世代】 第3話 「逃亡と捕獲」
しかし、社会は寛容ではなかった。
「処置を拒否する」という選択は、「社会への反逆」と見なされた。
ほとんどの親は、処置を受け入れた。涙を飲んで。あるいは、安堵して。
「これで、この子も普通になれる」
「これで、私たちも普通の家族になれる」
そう自分に言い聞かせて。
でも——ごく一部の親は、違う選択をした。
悩み抜いた末に、子供を連れて逃げることを選んだ。
街から街へ。施設から施設へ。時には、社会の網が届かない廃墟へ。
第五継承者は、その「ごく一部」の親子を、密かに支援した。
「ここにいなさい。誰にも見つからないように」
彼はそう言って、食料や衣類を届けた。
ある夜、彼は一人の父親から手紙を受け取った。
「私たちは、もう戻れない。でも——この子の『聞こえる声』が消えるよりは、ましだ。この子が『自分はおかしい』と思い続けるよりは、ましだ」
父親は続けていた。
「でも——正直なところ、戻りたいとも思っている。普通の生活に。誰にも後ろ指を指されない日常に。」
「この子を愛している。でも——愛しているからこそ、辛い。」
「この気持ちを、どうすればいいのか、わからない。」
第五継承者はその手紙を何度も読み返し、自分の指先が熱くなるのを感じた。
でも——彼も知っていた。これは「一時的な逃げ」に過ぎないことを。
「いつか、この子たちが『隠れる』必要のない場所を作らなければならない」
彼はそう誓った。その誓いが、彼の「種」だった。
しかし——その場所が本当に実現したら、そこは「普通」の人々にとって「気持ちいい」場所ではなくなる。それが、彼のジレンマだった。
そして、その日が来た。
AIの監視網は、逃亡した親子を次々と「発見」した。
廃墟の奥深くに隠れていた一組の母子が、ついに捕らえられた。
母親は叫んだ。
「この子に触らないで! この子の『見えるもの』を、奪わないで!」
子供は泣きながら、母親の腕にしがみついた。
「お母さん——! まだ見えるよ! まだ、壁が動いてるよ! まだ、色が……!」
その声は、途中で途切れた。
処置が完了したのだ。
母親の叫びは、AIの無機質な声に飲み込まれた。
「異常値は——『処置』されます」
声は冷たく、感情がなかった。
悪意など微塵もない。ただ、効率的に、「問題」を解決しただけだった。
第五継承者は、遠くからその光景を密かに見ていた。
母親が地面に崩れ落ち、子供の名を呼び続ける姿。
子供の小さな体が、担架に載せられ、運ばれていく姿。
彼の胸の奥が、冷たく締めつけられた。
指先が激しく震え、喉が痛いほどに締まる。
「私たちは……何をしているんだ」
声が出なかった。
ただ、胸の奥で、静かな絶望が広がっていく。
あの子の「まだ見えるよ」という言葉が、耳の奥に焼きついて離れない。
第五継承者はその夜、自分のノートにこう書き込んだ。
「私たちは、負けている。
でも——この『声』は、まだ消えていない。
誰かの耳の奥で、ずっと響いている。」
「私は、この『声』を忘れない。それが、私の役割だ。」
「この『声』は——『気持ちよさ』に飲み込まれた世界で、最後に残った『人間』の叫びだ。」
彼はペンを置き、窓の外を見た。
空は、相変わらず均一な「空色」だった。
でも——その向こうに、ほんの少しだけ「オレンジがかった青」が見えた気がした。
それは、あの子どもが最後に見ていた色だったのかもしれない。




