第67話 【種の予感】 第1話 「違和感」
光莉は自分の身体が、少しずつ「ずれている」のを感じていた。
正確には——彼女の身体だけではない。
彼女の感覚、彼女の記憶、彼女の「いる」という感覚そのものが、世界からほんの少しだけずれ始めていた。
最初は気のせいだと思った。
目が覚めてコーヒーを淹れる。カップの取っ手を右手前に向ける。それが彼女の「いつも通り」だった。
ある日——ふと気づいた。取っ手の角度が、ほんの数ミリずれている。直そうとした指が、止まった。その「ずれ」が、なぜか正しい気がしたから。
旅を続けるうちに、自分の指先が熱くなる瞬間があった。誰もいないはずの場所で、誰かの気配を感じる夜があった。ストッキングの伝線をなぞるたび、その「ほつれ」が自分自身の輪郭のように思えた。
ある日、彼女は伝線を直そうとして、やめた。そのままにしておくことにした。誰にも気づかれない。誰にも伝わらない。
でも、自分にはわかる。その「小さな違和感」が、自分を自分にしている気がしたから。
「消える」のではない。
光莉はそう理解し始めていた。
「見えなくなる」のだ。
それは恐怖ではなかった。
むしろ——解放に近かった。
でも、一つだけ気がかりがあった。
この「ずれ」は、自分だけのものなのか。
それとも——誰かに伝わるものなのか。
彼女はノートを開き、こう書いた。
「私は、消えたくないのではない。消え方を見失いたくないのだ。」
その言葉の意味は、まだ自分にもわからなかった。でも——書かずにはいられなかった。




