第66話 【種の予感】 プロローグ
世界が静かに変わり始めたのは、誰も気づかないほど小さな"揺らぎ"からだった。
最初にそれを感じたのは、光莉だった。
朝、目を覚ました瞬間、彼女は自分の身体が"少しだけ遅れている"ことに気づいた。
指先を動かすと、動いたという感覚が一拍遅れて返ってくる。
呼吸をすると、胸のふくらみが自分のものではないように思えた。
世界の方が先に動き、自分が後から追いかけている。
そんな奇妙な感覚。
それは痛みでも、恐怖でもなかった。
ただ、静かに、確実に——"ずれて"いた。
彼女は窓を開けた。
外の空気は、いつもより透明だった。透明すぎて、触れたら割れてしまいそうだった。
遠くで鳥が鳴いた。その声が、ほんの少しだけ遅れて届いた。
「......始まっている」
光莉はそう呟いた。
何が始まっているのか、自分でもわからなかった。
ただ、この"ずれ"が自分だけのものではないことだけは、確信していた。
世界のどこかで、誰かが同じように"ずれ"を感じている。
誰かの背中が痒くなり、
誰かの指先が熱を帯び、
誰かの胸の奥がざわつき、
誰かの視界が歪み、
誰かの言葉が壊れ、
誰かの時間が遅れ、
誰かの体温が消えていく。
それらはまだ、互いに気づき合っていない。
ただ、世界の底で、静かに、ゆっくりと——
同じ方向へ向かっている。
光莉は机の上のノートを開いた。
そこには、昨日まで書いたはずの文字が、少しだけ滲んでいた。
まるで、紙の中で別の時間が動いているようだった。
彼女はペンを取り、ゆっくりと書いた。
「これは、私の意志ではない」
書きながら、彼女はその意味を理解していなかった。
ただ、書かずにはいられなかった。
その言葉が、未来の誰かに届くことを、身体のどこかが知っていた。
風が吹いた。
ページが一枚めくれた。
その瞬間、光莉は自分の輪郭が薄くなるのを感じた。
"消える"のではない。"見えなくなる"のだ。
世界から切り離されるのではなく、世界の"裏側"に沈んでいくような感覚。
彼女は立ち上がり、部屋の中央に立った。
影が、ほんの一瞬だけ先に動いた。
「......大丈夫」
光莉は微笑んだ。
恐怖はなかった。むしろ、解放に近い静けさがあった。
ただ一つだけ、気がかりがあった。
——この"ずれ"は、どこへ向かうのか。
——誰が受け取るのか。
——百年後、世界はどうなっているのか。
光莉は最後にノートを閉じ、静かに目を閉じた。
世界が一度、音を失った。
次の瞬間、彼女の姿は薄い霧のように溶けていった。
身体は消えた。
しかし、彼女の"伝線"は残った。
風に乗る種のように。水に溶けるインクのように。誰にも気づかれないまま、世界の隙間へと散っていく。
百年後、その"種"が芽吹くことを、彼女だけが知っていた。
その理由はわからない。
人間の感覚的伝承のタイムリミットかもしれない。
それまでに——届く。届ける。
それが、伝線というものだと。




