第30話 分断【過去】第7話「未来への手紙」
光莉は、血の滲む指で端末を操作し、ついに完成させた設計図のすべてのデータを、小さな、無機質な記憶媒体へと焼き付けた。
カチリ、とデータ書き込みの終了を告げる冷たい電子音が暗い部屋に響く。
彼女はその小さなチップを、棚から取り出した古い布で、壊れ物を扱うように丁寧に、幾重にも包み込んだ。
その布は、かつて長い旅の途中のどこかで拾い上げた、誰かが手縫いした歪なハンカチのようなものだった。
針目が不揃いで、形もいびつで、お世辞にも美しいとは言えない不完全な布。
しかし、最適化されたこの世界で、誰かの指先が確かに格闘したその「不完全さ」こそが、今の彼女には何よりも愛おしく、誇らしかった。
「これを、未来の誰かに……必ず」
彼女は乾いた白紙の前に座り、最後の力を振り絞って短い手紙を書き始めた。
宛名はない。ただ、百年先の時空の果てにいるであろう『受け取った者へ』とだけ、静かに記した。
『私は、光莉。2045年から長い旅を始めた者です。AIが人間を「最適化」し、すべての感情を均していく美しい世界の中で、私は「隙間」を──AIが決して管理することのできない「人間の不条理な体温」を、孤独に探し続けました。この設計図は、私の人生のすべてを賭けた、その集大成です。
あなたがこの文字を受け取ったとき、きっと私はもう、この世界にはいないでしょう。肉体も、データも、ここに書いた文字も、すべて消え去っているはずです。でも、私の遺した「伝線」は、時空を超えてあなたの中に確実に繋がるはずです。あなたの凍えそうな指先に、かすかな、消えない熱を残すはずです。
どうか、この「種」を、あなたの手で育ててください。
管理される幸福という名の檻から、人間を卒業させてください。
──stocking_night_0612』
書き終えたとき、彼女の名前を記した黒いインクは、涙に滲んでいた。
光莉はその手紙を、歪なハンカチに包まれた記憶媒体とともに、小さな木箱の奥へと大切に収めた。そして、箱の表面に、自分の爪を、指を、深く突き立てるようにして「0612」という数字を抉り刻んだ。
強い筆圧が硬い木目に深く食い込み、摩擦で指先が火を噴くように熱くなる。
これが、彼女がこの廃墟で行う、最後の「儀式」だった。
すべての点と線が収束する場所
──カフェ「あおい」
へ向かう前の、静謐で、厳かな準備。
彼女は木箱を古びたバッグの底に深くしまい込み、重い二重の錠を外して、住み慣れた廃墟の家を後にした。
引きこもり生活で衰えた足取りは泥のように重く、肉体は限界まで疲弊しきっていたが、その背筋だけは、一本の美しい伝線のように不思議とまっすぐに伸びていた。
「私は、消える。でも、消え方にだって美学がある」
外へ出ると、春の終わりの柔らかな風が、彼女の細い髪を優しく、祝福するように揺らした。
彼女の足を包むストッキングの伝線は、もうこれ以上ないほどに大きく、美しくほつれ、裂けかけていた。破れたまま、歪なままにしておく。
それこそが、彼女が人間として生き、戦い、この最適化された世界を「卒業」したという、何よりも雄弁な、至高の証だったからだ。




