第29話 分断【過去】第6話「消え方の美学」
古びた鏡に映る自分の顔が、二重、三重にグニャリとぼやける。慌てて自分のストッキングの伝線を指でなぞろうとしたが、手が激しく震えて、繊維を捉えることすらできない。自分の指先が熱いのか冷たいのか、神経の感覚すらも曖昧に麻痺していく。
「あ、う……」
彼女は床に這いつくばり、決して離してはならないとノートを胸に抱きしめた。紙のざらついた、乾いた物理的な感触だけが、辛うじて彼女の魂を現実に繋ぎ止めていた。目尻から溢れた熱い涙が頰を伝い、床に落ちる。その強い塩辛い味を、彼女は必死に舌で舐めとり、生きている感覚を確かめた。
「消え方にだって……美しい美学が、あるはずなのに……っ」
父の低い声が、遠い記憶の底から聞こえるような気がした──
「わからない。でも、それでいい」
母の優しい声も──
「特別じゃなくていい」
その言葉は、どこまでも優しかった。でも、同時に今の彼女にとっては、引き裂かれるほど残酷だった。彼女を不条理なシステムから自由にしてくれたあの言葉たちが、今、彼女をこの圧倒的な暗闇の中に、たった一人で置き去りにしている。
光莉はノートを骨ばった胸に強く押し当て、血が滲むほど震える指で、ストッキングの伝線をなぞり上げた。旅の途中で何枚もストッキングは入れ替わった。光莉は、ほつれたままにこだわり、何度も足を通した。それでもほつれた繊維の穴は、もう限界まで大きく広がり、裂けかけていた。「直したい、元に戻したい」という弱気な衝動が、一瞬だけ胸をよぎる。
でも、彼女は伝線を決して直さなかった。それこそが、最適化された美しい世界に対する、彼女の剥き出しの抵抗であり、生存の執念だった。
彼女は奥歯をガチガチと食いしばり、這い上がるようにして再び端末に向き直った。指先から血がじわりと滲み、キーボードを赤く汚していくのも厭わず、激しくキーを叩き続けた。
朝の冷たい光が板の隙間から差し込んだとき、光莉はノートの、最後のページを開いた。
ページの端は無惨に黄ばみ、インクは掠れ、紙自体が何百回も擦られて擦り切れていた。彼女はペンを折れんばかりに強く握り、ゆっくりと、しかしこれまでにない確かな筆跡で書き始めた。
『この設計図は、私が生きていた証ではない。私が愛した「不完全な人間たちの風景」を、この先も守り抜くための盾だ。伝線。冷たい手。コーヒーの苦味。雨の日の違和感。取るに足らない日常の、どうでもいいすべての熱。それらが、AIの管理から人間を漏れさせる最後の砦になることを、私は心から願う』
ペンが、ピタリと止まった。
目尻から溢れた涙が一滴、静かに紙に落ちて、最後の文字のインクをじんわりと滲ませた。
彼女はその黒い滲みを、愛おしむように指先でそっとなぞった。湿った紙の生々しい感触が、胸の奥へと、体温のようにじんわりと広がっていく。
「受け取った者よ……あなたは、私の見たこの景色を、覚えていてくれるだろうか」
声にはならなかった。心の中で、彼女は確かに語りかけた。
まだ見ぬ未来の誰かへ。
百年後の世界で、自分と同じように、指先に不条理な熱を感じるはずの、まだ見ぬ誰かへ。
光莉は静かにノートを閉じた。
閉じた表紙の上に、彼女の体温が、確かな質量となって残されていた。
彼女は痩せた身体を起こし、棚から小さな木箱を取り出した。
完成した設計図のデータを古い記憶媒体に焼き付け、父への届かない手紙とともに、丁寧に古い布で包み込んだ。
その布は、旅の途中で拾った、手縫いの歪なハンカチのようなものだった。縫い目が不揃いで、不格好で、不完全だったが、それがかえって、この世界で何よりも愛おしかった。
木箱の表面に、彼女は自分の爪を、指を、深く突き立てるようにして「0612」と刻み込んだ。筆圧が硬い木目に強く深く食い込み、指先が火を噴くように熱くなった。その熱を、彼女は二度と離さなかった。
「私は、消える。でも、消え方にだって美学がある。ただ消え去るのではない。消えない痕跡をこの世界に抉り残して、私は消える。それが、私の卒業だ」
外の春の風が、廃墟の隙間を優しく、祝福するように通り抜けていた。
光莉は自分のストッキングの伝線を、もう一度だけ、愛おしそうに指先でなぞった。
彼女はそれを、勝利した者の誇りを持って見つめ、静かに、美しく微笑んだ。
すべての点と線を繋ぐ、カフェ「あおい」へ向かう準備は、完全に整っていた。




