第28話 分断【過去】第5話「非存在の調律」
2053年、春。光莉は30歳になっていた。
彼女は山奥の、ほとんど人が近づかない、湿った緑に埋もれた廃墟となった小さな家に、ほとんど引きこもるようにして暮らしていた。
窓は厚い木板で外光を完全に遮断するように釘付けされ、古いドアには錆びついた重い錠が二重にかけられている。
カビと埃の匂いが沈殿する薄暗い部屋の中には、最小限の壊れかけた家具と、床に積み上げられた夥しいノート、熱を帯びて微かに駆動音を立てる古い端末、そして生命を繋ぐためのわずかな保存食料の缶詰だけ。
外の世界との接触を完全に断ち切り、AIの緻密な観測網を逃れるための「非存在」の訓練を過酷に続けながら、彼女は自分の脳内にある「非論理的回路」をデータ化する、孤独な作業に狂ったように没頭していた。
光莉は古びた端末の前に座り、骨が浮き出た細い指を、呪文を唱えるように機械的に動かしていた。液晶画面には、意図的に論理の隙間だらけに構築された、複雑怪奇な回路図が怪しく浮かび上がっている。
それは、現在のAIが決して解析できず、触れた途端に処理落ちを起こす「致命的な隙間」を作り出した設計図だった。論理の盲点。不快感の増幅領域。無価値な記憶の保存ゾーン。
彼女のこれまでの旅で、その全皮膚と魂で感じてきたすべての「伝線」──あの夏のストッキングのざらついた伝線、行き止まりの村の少年の冷たい手のひら、逃げ込んだ雨の日の容赦ない寒さ、古本屋の片隅で見つけた日記の掠れた温かさ、あのカフェで啜ったコーヒーの焦げたような苦味──それらすべてを、デジタルという冷たい二進法の中に「物理的な呪い(祈り)」として永久に埋め込むための、命を削る作業だった。
「これで……未来の誰かに、届けられるかもしれない」
最後に彼女は、カチカチと乾いた音を立てて一通のメールを打った。宛先は──母の元夫。彼女が両親以外で最も信頼する、この世界でたった一人の人物。
『いつか、私の「種」を受け取る者が、あなたのところを訪れるかもしれません。その者をどうか信じてください。そして──何があっても必ず守り抜いてください。このID「stocking_night_0612」とともに。百年先の誰かのために。私の「伝線」を──確実に、継承してください』
送信ボタンを人差し指で強く押し込んだ。電波はこの山奥の遮蔽を抜けて届くだろうか。相手はまだ、この狂った世界で生きているだろうか。わからない。でも──それでよかった。届くかどうかではない。遺すか、遺さないか。それだけが、彼女が己に課した唯一の美学だった。
送信済みの文字が明滅する画面をじっと見つめた後、彼女はそっと、熱を持った端末の画面を閉じた。
「……あ、あ」
彼女は独り言のように、小さく喉を鳴らした。声は砂を噛んだようにかすれ、喉の奥が引き裂かれるように痛んだ。
長い間、人とほとんど言葉を交わしていない。衣服の隙間から覗く体は痛々しいほどに痩せ細り、目は落ちくぼみ、頰は痛切にこけていた。しかし、その網膜の奥に灯る、世界への強い抵抗の光だけは、決して衰えていなかった。
作業の合間に、光莉は使い古されたノートを開いた。何百ページもの紙はもうほとんど埋まり、残された白地は最後の数枚を残すだけになっていた。そこには、彼女が世界から蒐集した「無価値なもの」のスケッチがびっしりと描かれ、下手な絵と、今にも消えそうな掠れた文字で埋め尽くされていた。
それらの不揃いなログこそが、彼女が「機能」ではなく「人間」であることの、かけがえのない血の証だった。
気が遠くなるほど孤独だった。誰も助けてはくれない。誰も、彼女の孤独な旅の意味を理解してはくれない。でも、それでいい。それが、彼女がシステムから卒業するために自ら選んだ、誇り高い茨の道だった。
ある夜、肉体の限界が音を立てて訪れた。
記憶を一つ一つ、システムから「漏れる」形に変換するたび、彼女自身の肉体の輪郭までが薄れて消えていくような、恐ろしい感覚に襲われた。思考が混濁し、呼吸が浅くなる。
そのとき、ふと──死んだ父の顔が、暗闇の中に浮かび上がった。
そういえば、以前、旅の途中、鬱蒼とした山道で土砂降りの雨に遭ったことがあった。道は容赦なく崩れ、携帯電話は完全に圏外。凍える暗闇の中、一晩中、がけの下で身を縮め、ただ雨風をしのいで夜明けを待った。
全身の体温が奪われていく今の感覚は、あの豪雨の夜と、まったく同じだった。
彼女は冷え切った手に無理やりペンを握らせ、掠れた手紙を書き始めた。宛先は父。でも、この手紙が実在の父に届いたかは、未来永劫分からない。彼女はもう、この世界から「見えなくなる」のだから。
『お父さん、私は──あなたの「わからない」というあの言葉を、ずっと誤解していたかもしれない』
『それは現実からの逃げじゃなかった。簡単に答えを出さないという、あなたなりのたった一つの答えだった。信じているから、待っているから、それ以外に言うことがないだけなんだと──一人になった今なら、わかる気がする』
彼女は手紙を小さく折りたたみ、ノートの最後のページにそっと挟み込んだ。誰の目に触れることもない。でも、それで十分だった。
データ化の作業は、単なる設計図作りではなく、自分の人生の記憶を一つ一つ素手で掘り起こし、心臓を擦り減らして再構築する過酷な精神的儀式でもあった。
行き止まりの村で出会った少年の冷たい手の質感。すれ違った女性の震える指先の軌跡。雨に打たれた皮膚の不快な感覚。父と母の残した言葉の温度。ストッキングの伝線。
それらを一つ一つ、システムから「漏れる」形として再現しようとするたび、彼女自身が記憶の巨大な渦に引き摺り込まれ、自己を喪失しそうになる。
突然、光莉は獣のような叫び声を上げて、端末の前に激しく崩れ落ちた。
「私……私は、一体誰? 光莉……? 私は、誰なの……っ!」
――『中継セクター観測保管庫』――
※最下層にノイズとして格納
観測LOG_027:光莉の執念が宿る廃墟
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