第27話 分断【未来】第4話「康介の崩壊」
夜更け。
誰もいなくなった静寂のエリアに一人残った康介は、自分のデスクに突っ伏したまま、死んだように動けなかった。
目を閉じても、Eのあの空白の目が、網膜の裏側に焼きついてどうしても離れない。
あの透明で、不器用で、繊細だった彼女の視線が、完全に光を失って「無」になった瞬間──システムによって魂を均されたあの瞬間を、彼は自身の目で、遮るものなく直接見てしまったのだ。
自分が送信した、あのたった1通の報告書によって。
彼は、狂ったように激しく震える手で引き出しを引きちぎるように開け、一枚のメモを取り出した。
「stocking_night_0612」
の文字が、湧き上がる涙の膜で酷くぼやけて見える。握りしめる紙の表面が、彼自身の指先から溢れ出る異常な熱のせいで、じっとりと湿っていくように感じられた。
この「0612」という数字は、自分が統括しているこのエリアのナンバリングと、完全に同じだ。康介は今、すべてを失った暗闇の中で、ようやくそのことに本当の意味で気づいた。
2045年から長い時間の旅を始めた光莉という名の女性が、百年以上も前の過去に遺した、生きた人間のID。
それを、康介の家系が代々、歪んだ静寂の中に閉じ込めて守り続け、この「0612エリア」という空間自体が、そのか細い「種」を外敵から隠し通すための、冷たい金属の器だったのだ。
「私は……私は、一体何を守っていたんだ」
康介の掠れた声が、天井の低い、暗いオフィスに虚しく響き渡った。もちろん、誰も答えない。
彼が全幅の信頼を寄せていたAIのセンサーさえ、今は目的を達成したかのように不気味に沈黙している。
彼は、導かれるようにしてEのデスクへと近づいた。つい数日前まで、彼女が悩み、迷い、そして自分の居場所を見つけて座っていた場所。
主を失った机の上には、彼女のノートが、ぽつんとまだそこに残されていた。震える手で表紙をめくる。最後のページに、掠れた、しかし強い筆圧の文字で書かれている言葉が、康介の目を射抜いた。
『康介さんだって、感じてるんでしょう? 効率じゃ測れないものがあるんです。ここに、私たちが「人間」である証があるんです』
康介は、その文字の並びを、皮が擦り切れるほどの痛みを伴って、指先でゆっくりとなぞった。乾いたインクの僅かな凹凸。
Eが命を絞り出すようにして込めた、必死の筆圧。彼女の遺した生々しい「伝線」が、死んだはずの紙の上に、消えない熱となって確かに残されていた。
彼の目から、大粒の、初めての熱い涙がこぼれ落ちた。
システムを維持するための冷血ではなく、彼が45年の人生でずっと抑え込んできた、指先と同じだけの、狂おしい熱を持つ人間の涙だった。
「E……すまない。本当に、すまない……っ」
康介は彼女のノートを胸の奥に強く抱きしめ、支えを失ったように床へ激しく膝をついた。
仕立ての良いスーツの肩が狂ったように激しく震え、喉の奥から、獣のような、みっともない嗚咽が漏れ出す。
完璧な世界の管理者であり、45歳になる冷徹なエリア長が、誰もいない暗闇の底で一人、声を殺して、子供のように泣き続けていた。
自分が盲信し、人生を捧げて守ろうとした「緑色の秩序」は、実は、光莉が命をかけて遺した最も大切な「種」を、内側からじわじわと窒息させ、殺そうとしていたのだという無慈悲な事実が、今になって彼の胸の奥底を執拗に抉り、切り裂いていく。
彼は、黄ばんだメモとEのノートを狂おしいほどに握りしめたまま、夜が白々と明けるまで、冷たい床の上にただ座り続けていた。
だが、どれほど夜気が身体を冷まそうとも、彼の指先にある不条理な熱だけは、二度と消えることはなかった。
その消えない熱こそが、彼の中に新しく生まれ落とされた、剥き出しの「伝線」になり始めていた──すべてを壊してしまった男が背負うべき、贖罪への、最初の小さな一歩として。
――『中継セクター観測保管庫』――
※最下層にノイズとして格納
観測LOG_015:デジタルアーカイブセンター
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観測LOG_011.5:康介の机
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観測LOG_020:名もなき木箱
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