26話 ココロのソコ
ずり
ずり、ずり、ずり
首のない骸。
夢菜の躰。
ゆっくりと、僕たちに近づいてくる。
銀月が首の断面を映し出す。樹脂化して血が止まり、いままであった雛菊の代わりにそこに乗せるナニカを求めて彷徨うかのように、彼女の体は蠢いていた。
潮風に乗って漂ってくるのは錆びた鉄のような血の匂い。
それとどことなく、薬品のような鼻につく刺激臭。
僕とひかりは、じりじりと後退する。
夢菜の意志なのか、それとも本能か。
すこしずつ下がる僕たちの方向に、確実についてくる。
ずり、ずり、ずり
悪寒が背を撫でる。鳥肌が首筋で震える。
ただゆっくりと僕たちに迫るその首のない姿に、僕の手のひらから冷たい汗が滲む。
雛菊の後頭部が転がっている。
僕はそれを、拾いにすら行けない。
「……兄ちゃん、いちどペンションに戻るわよ」
焦りと警戒の色を隠せないひかり。
こうなることを危惧していた。
彼女の声はそう語っていた。
僕はだから、うなずくしかない。
これは夢菜なのか。
はたしてただの化け物になり下がった夢菜なのか。
それがわかるのは、おそらくひかりだけだろう。
僕はひかりとうなずきあって、同時に踵を返して駆けだした。
ペンションはすぐそこにある。
背中に迫る異様な圧力を感じながら、振り返ることなく走った。
すぐ後ろから、夢菜の息遣いすら聞こえてくるような気がした。
「兄ちゃん! これも!」
ソファを立てかけたと同時に、扉がドンと叩かれる。
ドン、ドン!
と繰り返し扉が揺れる。
木の扉はいまにも折れそうに軋み、振動がペンション全体を揺らす。
ひかりが不安げな顔で僕を見上げてくる。
夢菜の体が生みだす異様な力は、僕は身をもって体験済みだった。このままじゃすぐに扉を破られることが目に見えている。
「――二階に!」
僕たちは二階の最奥の部屋に駆け込んだ。
ちょうど部屋の扉に鍵をかけたとき、階下から、ズン、と重たい音が聞こえてきた。扉が倒れた音だろう。
急いで棚やらベッドやらを扉のまえに移動させる。
簡単なバリケード。
……心もとない。
僕とひかりはありったけの物を扉の前に設置すると、ベランダまで遠ざかる。
ぬるい空気が、僕たちの冷や汗を舐める。
「……兄ちゃんは……夢のこと、好き?」
「なんだ、いきなり」
「いいから答えて」
ひかりは扉から目を離さずに、聞いてくる。
「夢は兄ちゃんのことが本気で好きだったの。あたしがどれだけそれは変だって言っても、聞かなかった。聞こうとすらしなかった。あたしと夢がほんとうは仲良くなかったのは知ってると思うけど……それ以上に、あたし、あの子と本当に双子なのか怖くなるくらい、考え方が違ってた」
「……それは……」
「あたしはできそこないの妹。夢はなんでもできる姉。……それだけじゃないの、わからないのよ。あたしには、夢の心の底が見えなかった。いつも完璧で、いつも愛されてて、そんな夢がなにを見てたのかわからなかった。だからあたしは夢が最初から怖かった。ずっと怖かった」
自分が夢菜に劣るということに、ひかりはコンプレックスを抱かなかった。割り切っていた。でも、それは単にひかりが前向きだからとかじゃなかった。
怖れていた。
ひかりは夢菜のことを怖れていた。そんな相手にコンプレックスを感じることなんてない。
ただ、ひかりは夢菜が怖かったのだ。
だから不安になるのだろう。
僕が、夢菜をどう想っているか。
「……僕は、夢菜のことが好きだったよ」
ひかりが息を止める。
「僕はひかりと違って夢菜のことは怖くなかった。このいまでさえ、夢菜のことだけなら怖くないんだ。包丁を持って追いかけられていなければ、僕は彼女を受け入れることだってできると思う。僕の心も、醜い化け物だから」
「なら、兄ちゃんは――」
「だけど僕は、あくまで兄として夢菜のことが好きだっただけだ。自慢の妹だった。誰よりも懐かれてるってわかってたし、そのことに優越感もあった。だけどそれだけだ。夢を妹としてしか見ることはできない。好きだけど、狂うほどには好きじゃなかった。僕はね、ひかり……………………僕がむかし好きだったのは、ひかり、おまえだったから」
こんな状況で言うことじゃないかもしれない。
嫌われているのはわかっている。
気持ち悪いのはわかっている。
僕は雛菊のことが好きになった。
努力して、好きになった。
その雛菊はもう、いないけれど。
それでも僕は雛菊を愛していたし、いま、誰よりも愛している。
だけど。
だけど僕のなかの怪物は……
怪物が初めて求めたのは、ひかりだった。
「僕は、むかし、ひかりのことが異性として好きだった」
初恋は妹だった。
だから僕は、夢菜の気持ちを否定できない。
夢菜の行動を拒絶しきれない。
化け物だから。
同じ穴の狢だから。
「…………そう、だったの」
ひかりの声は単調だった。
とくに驚いた様子もなかった。
その声には、いつもの忌諱が宿っているだけだった。
「やっぱ、キモいね、シスコン兄貴」
そんなことわかってる。
初恋だった妹。
だからこそ、僕はひかりにだけはなにもしたくない。
ひかりが他の誰かと結婚して、幸せになってくれるのを夢見ている。
それこそが僕に残された、唯一の望みだから。
ひかりが不幸になるのは、ひかりを傷つけるのは、誰であろうと許さない。
それがたとえ……夢菜だろうと。
ドンッ!
部屋の扉が唸る。
あの扉の向こうに、夢菜の体がある。
僕を求めて、追いつめてくる。
邪魔者は殺すだろう。
さっきも、ひかりに向かって包丁を振りかざした。
それは許さない。
夢菜であろうと、それは絶対に許さない。
「……下がってろ、ひかり」
僕は前にでる。
軋む扉の向こうを見据えて、手に力を込める。
どうやったら夢菜を止められてるかわからない。
でも、止めなければならない。
それが、兄の義務だから。
「くるわよっ!」
ひかりの叫びと同時。
扉が破裂するような音を立てて、二つに折れまがった。
衝撃で、枠から外れて倒れる扉。
そのむこうには、首なし肢体。
ゆらり、と包丁をきらめかせ、倒れた扉を乗り越えてくる。
「夢菜……」
声のない怪物は、僕が正面に立っていることに気付くと、包丁を落とした。
そのままヨタヨタと、両手をあげて歩いてくる。
『お兄ちゃん』
僕を求める彼女の声が、聞こえた気がする。
愛されることは素敵なことだ。
誰かがそんなことを言っていた気がする。
だけど僕にはそうは思えない。
愛することは素敵なことだ。
誰かがそんなことを言っていた気がする。
だけど僕にはそうも思えない。
いつだって、愛は苦しくて。
いつだって、愛は狂ってて。
いつだって、愛は重くて。
いつだって、愛は泣いている。
僕は夢菜が落とした包丁を、そっと拾い上げた。
抱きつかれる。
ギリギリと締め付けてくる夢菜の腕。
体を折られるかのようなその力。
僕もまた、彼女を抱き返す。
薬品と血の匂いにまみれた僕たちの抱擁は、そう長くは続かなかった。
ザクリ。
夢菜の背中につきたてた包丁。
手に跳ねかえってきた嫌な感触。
それでも僕は、さらに力を込めて、包丁を奥へと進ませる。
ずぶり
力を込めて、根元まで差し込む。
最後は、やけに軽い感触がして、刃は最奥へと到達した。
びくん、と夢菜が体を震わせる。
心臓を貫かれて、痙攣を始めた夢菜の体。
僕はそっと後ろにさがって、倒れこむ彼女を眺めた。
僕の服を、ぎゅっと握りしめるひかり。
「…………夢…………」
ひかりのつぶやきに含まれているものは、いったいどんな感傷だったのだろう。
こうして僕は、大好きだった妹を、殺した―――――
むくり
「――っ!?」
まだ、終わりじゃなかった。
夢菜の体はまだ、死なない。
とっさに硬直する僕たち。
動けない。
――そんなバカな!
心臓を止めたはずの夢菜の体は、まだ止まらない。
びたっ
顔のないその怪物は、樹脂化した血液を床に落としながら、なにごともなかったかのように、立ちあがった。
その背中に深く突き立った包丁を引き抜いて、ぽろぽろと樹脂化した血液の塊をこぼし、こちらにゆっくりと歩いてくる。
僕はひかりをかばうようにして、後退する。
ベランダ。
手すりぎりぎりまでさがる。
ぼた、ぼた、ぼた……
彼女の背中から血液の塊が零れる。
その姿態は――ひどく畏ろしい。
しっかりと握られ、振りあげられた包丁は、月に反射して鋭く輝き。
腕を僕たちに向かって、振り下ろす――
パンッ!
乾いた音。
火薬音。
ぐらり、と夢菜の体が倒れる。
身をすくめた僕たちは、倒れていく夢菜の背後に、小さく黒い鉄を構えた背の高い男を見た。
彼は拳銃を構えて、驚愕の表情で立ち尽くしていた。
「…………なんだ…………こいつは」
警視庁捜査一課刑事。
播磨の戸惑いの声は、夏風に揺られて幽かに消えていった。




