第23話 だから立野さんに、のど飴あげる。
「……はぁ」
他の生徒に聞かれない程度のボリュームで溜め息を吐く。
今日は1月の中旬、共通テストの1週間前だ。
今は6時間目の自習時間、設問をなんとなく目で追って解答を考えている。
『傍線部イの人物の心情を次の選択肢から答えよ』
どれも似たような選択肢で、どれが正解かわからなかった。
なんとなく納得感のある (d) を選んで、次の問題に進む。
——クリスマスイブの夜、私は宮永さんにキスをした。
唇と唇が触れ合う程度の軽いキス。
でもそれは、とても重い意味を持っていた。
あの日以降、宮永さんと話をしていない。
受験勉強という都合の良い理由を見つけて、何も行動を起こさなかったのだ。
自責の念が、少しずつ首を絞める。
私のしたことは、これまでの関係を壊すようなものだったんじゃないかって。
宮永さんは私とそういうことをするのを望んでなかったんじゃないかって。
私ひとりだけ盛り上がってたんじゃないかって思って寂しくなった。
取返しのつかないことをしたという後悔が、いつまでも心の底に残った。
採点に入るタイミングで、6時間目を終えるチャイムが鳴る。
担任の先生は連絡事項を伝えて、すぐに教室から出て行った。
「今日は一緒に帰って良い?」
勉強道具を鞄の中に入れていると、西川さんに声をかけられた。
「塾はないの?」
「明日が最終模試だから、今日は来なくても良いんだって」
塾のことはよくわからないけど、一緒に帰ることができるみたいだ。
「じゃあ準備するまで待ってて」
「オッケー」
西川さんはゆったりと自分の席に戻っていった。
待たせたら申し訳ないと思い、急いで準備を済ませていると——
「ごめん、立野さん」
視線を向けると、宮永さんが立っていた。
宮永さんと目があったから、わずかに逸らす。
黒板に書かれている日付になんとなく焦点を合わせた。
「……なに?」
「いま、ちょっと時間ある?」
目を伏せながら、宮永さんは尋ねて来た。
声には少し硬さが残っている。
その距離感の遠さが、キスしたことの後悔を強めた。
やっぱり宮永さんは嫌だったのかなって。
「今ってどのくらい?」
「5分とか」
「それなら大丈夫だけど」
平静を装いながら呟いた。
「反対校舎の一番上の階段のとこにいるから、準備ができたら来て欲しい」
宮永さんは私の返事も聞かないで教室から出て行った。
「私、ひとりで帰った方がいいかな」
ひとり取り残されると、西川さんが近づいてきた。
「5分で終わるって言ってた」
「なら待っとくけど」
「もし10分超えたら、ひとりで帰るから」と釘を刺されて教室を出た。
渡り廊下に出ると、肌を刺すような冷たい風が吹き抜けた。
身体を小さくして反対校舎に入る。
理科室を抜けると階段が見えてきた。
深呼吸をしてからゆっくり階段を上る。
足音を立てないように、宮永さんに気づかれないように。
「ごめんね、わざわざ」
静かな校舎の中、宮永さんの声が反響した。
ここは屋上に向かう階段の踊り場。
反対校舎だからか、ほとんど物音がしない。
宮永さんの顔を見ないで続ける。
「大丈夫だけどさ、どうしたの?」
私の声も少し響いた。
それが気になって、咳払いを一つする。
数秒だけ反響してから、すぐに輪郭を失った。
「ほら、共通テスト来週じゃん」
「うん」
「で、それが終わったらすぐ二次試験でしょ?」
「そうだね」
「だから、えーっと……」
次の言葉を探しているのか、宮永さんの視線が絶え間なく動いている。
ちょっとの隙間を埋めるため、私は階段に腰を下ろした。
コンクリートの冷たさが、スカート越しに伝わる。
「……クリスマス、あったじゃん」
空気が一気に張りつめた。
クリスマスが意味しているのは、たぶんその日の夜のこと。
私が宮永さんにキスをしたことを言っているのだろう。
宮永さんに視線を向けると、私の目をじっと見ていた。
その状態のまま、宮永さんは一呼吸おいて呟いた。
「私は、ちゃんと嬉しかったから」
「……っ」
胸が一気に締め付けられる。
不快感ではなく心地いい痛み。きゅっと音を立ててから、すぐに緩んだ。
キスしたことが、宮永さんに肯定された。
そのことがどうしようもないくらいに嬉しかった。
「でも、まだ待っててほしい」
宮永さんに視線を向けると、すぐに逸らされた。
何を、いつまで待てばいいんだろう。
せっかく宮永さんに受け入れてもらえたのに。
「そういえば立野さん、さっき咳してたよね?」
「……してたけど」
強引に話を変えられたけど、ひとまず頷く。
咳というのは、どのくらい声が響くのか確認したときのことだろう。
「実は私、立野さんの声めっちゃ好きなんだよね」
「そう、なんだ……」
なんとなく制服の裾を引っ張って手を隠す。
「立野さんの歌を聴いたときに一目惚れしたっていうか」
「この場合は一耳惚れかも」と言って、ポケットから何かを取り出した。
「だから立野さんに、のど飴あげる」
彼女の手には、個包装ののど飴が乗っていた。
「ありがとう……?」
戸惑いながら感謝の言葉を口にする。
私の言葉に軽く微笑んでから、宮永さんは続けた。
「じゃあ立野さん、今から目つぶってくれる?」
「目?」
「そう、目」
はっきりと宮永さんは呟いた。
のど飴を貰うだけなのに、目をつぶる必要ってある?
ていうか、なんでいきなり私の声の話になったの?
聞きたいことは色々あったけど、言われるがまま私は目をつぶった。
すぐに視界が真っ暗になる。
聴覚がより敏感になったような気がした。
「口も開けて」
宮永さんの声が耳に届く。
その声には、どこか硬さがあった。
ちょっと恥ずかしいな、と思いつつ軽く口を開ける。
少し遅れて、宮永さんの足音が聞こえた。
さっきより気配が濃くなった気がする。
「のど飴入れるから、飲み込まないように気を付けてね」
個包装を開ける音が聞こえた。
その袋をくしゃりと丸める音。
ポケットへしまうときの衣擦れ。
その一つひとつがやけに耳に届いて、緊張感を高める。
完全に音がしなくなってから、数秒もの間が空いた。
真っ暗な空間の中に、私一人だけ取り残されている感覚が強まる。
心拍数が早くなり、緊張感が限界を迎えたときだった。
「……んっ」
——私の唇に、柔らかなものが触れた。
少し遅れて口の中に爽やかな味が広がる。
丸い粒が歯にぶつかってからんと音を立てた。
宮永さんはのど飴を私に口移しした——。
それを理解するのに、少し時間がかかってしまった。
「……んむっ」
感じたことのない感触が口の中に入る。
びっくりして目を開けてしまいそうだったけど、なんとか我慢した。
静かな校舎の中、熱っぽい息遣いが響く。
頭の奥がふわふわしてきて、身体の力が抜けていく。
少ししてから、お腹の下あたりが温かくなってきた。
「はぁ……」
艶めかしい声がしてから、宮永さんの気配が薄まった。
おそるおそる目を開くと、彼女は少し離れた場所に立っていた。
こちらから顔を隠すように口元を拭っている。
でも髪の隙間から顔が真っ赤になっているのがわかった。
たぶん私も、似たような表情になっていると思う。
「ごめん立野さん、そろそろ10分なるね」
「……そうかも」
なにか言わないとと思って、とりあえず呟いた。
まださっきの余韻が微かに残っている。
でも宮永さんは、それを強制的に絶ち切った。
階段から立ち上がると、宮永さんは私に軽く触れながら口を開いた。
「共通テストと二次試験、一緒に頑張ろうね!」
私の返事を待たずに、宮永さんは渡り廊下を歩いていく。
「はぁ……」
彼女の姿が見えなくなってから、溜め息を一つ吐いた。
色んなことが頭の中をぐるぐるしている。
そのすべてが、宮永さんのことだった。
でも今は考えるべきじゃないと思う。
だって私たちは受験生だから。
「西川さん残ってるかな」
スマホで時間を確認すると、すでに7分が経過していた。
まだ待ってくれていることを願いながら、小走りで教室に向かう。
校舎は再び、元の静けさを取り戻した。




