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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第2章 社畜生活、レベル2へ

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第8話 妬いてないし、魅了されてない

 定時という概念は、弊社に存在しない。


 少なくとも、鬼頭課長の辞書には載っていない。載っていたとしても、たぶん赤ペンで「甘え」と書き足されている。


「ちょっと、飯買ってくる」

「……わかりました」


 鬼頭課長はそう言い残し、財布だけを持って事務所を出て行った。

 時刻は十九時四十二分。


 普通の会社なら、そろそろ晩飯の話をしても許される時間帯だ。だが、かんばり支援サービス株式会社では違う。


 夕食とは、残業という長距離走の給水ポイントでしかない。

 俺はパソコン画面に向き直った。


『鬼頭剛志帰還までの予測時間、十八分から二十六分』


 頭の中で、機械音声のような声が響く。

 アナだ。


「現実的な数字を出されると、心が折れるな」

『心拍数、通常時より微増。疲労の蓄積が見られます』

『眠太くん、もう帰っちゃおうよぉ。お腹も空いたしぃ』


 続いて、おっとりした声が割り込んでくる。

 ヒーラだ。


「お前は俺の良心みたいな声で、欲望を代弁するな」

『良心じゃないよぉ。胃袋だよぉ』

「なお悪いわ」


 俺は小さくため息をつき、机の端に置いたスマホを手に取った。

 その瞬間、画面が震えた。


 通知。

 差出人は――水瀬綾。


『水瀬綾よりメッセージを受信』

「実況しなくていい」


 俺はチャットを開く。


『今日、話したいことあるんだけど。いつもの居酒屋、来れる?』


 俺は思わず、背筋を伸ばした。


「……え」

『心拍数、上昇』

『おお~?』

「黙れ、二人とも」


 水瀬さんから、話したいこと。

 しかも、居酒屋集合。


 俺の方から、昼に見たニュースのことを話そうと思っていたところだった。

 ただ、こちらから誘う勇気はまだなかったんだよなぁ。


 なかったのだが、向こうから来た。

 これは行くしかない。


 行くしかないのだが――。

 俺は事務所の入口を見た。


 鬼頭課長は、飯を買いに行っている。


 帰ってきたら、俺がいないことに気づくだろう。間違いなく気づくだろう。そして明日の朝、机の上に雷が落ちる。


 俺はスマホを握りしめたまま、数秒ほど固まった。


『鬼頭剛志から怒号を受ける確率、明朝九時時点で八十二パーセント』

「意外と低いな」

『なお、現在逃走した場合、当日中に捕捉される確率は低下します』

「逃走って言うな。退勤だ」

『会社的には逃走だよぉ』

「それも言うな」


 俺は水瀬さんに返信した。


『行きます。二十分くらいで着きます』


 送信。

 その直後、俺はパソコンの画面を閉じた。


「……よし」

『よし、ではありません。未完了タスクが複数存在します』

「明日の俺に任せる」

『明日の灰谷眠太の負荷増大を確認』

「未来の俺、すまん」

『未来の眠太くん、泣いてるねぇ』

「今の俺も泣きたいわ」


 俺は最低限の荷物だけを鞄に突っ込み、事務所を出た。

 廊下を歩きながら、スマホの電源を落とす。


 画面が真っ暗になる。


 これで鬼頭課長からの電話は届かない。


「……明日の朝、どやされるな」

『確定事項です』

『でもぉ、水瀬さんに会えるんでしょ?』

「そういう問題じゃない」

『じゃあ、行かないのぉ?』

「行く」

『即答だねぇ』

「うるさい」


 外に出ると、夜の空気が頬に当たった。

 ……なんて浸ってる場合じゃない。


 見つからないように道を選ばないとダメだからな。


 いつもの居酒屋に着くと、水瀬さんはもう席に座っていた。

 俺を見るなり、軽く手を上げる。


「灰谷くん、こっち」

「すみません。待ちました?」

「ううん。私もさっき来たところ」


 定番のやり取りだ。


 俺は向かいの席に座り、店員さんにビールを頼んだ。


「それで、話したいことって何ですか?」


 俺が尋ねると、水瀬さんは待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「聞いてよ、灰谷くん」

「はい」

「今日の神代先輩、すごかったの」

「……神代先輩?」

「そう!」


 水瀬さんの顔が、ぱっと明るくなる。

 その瞬間、俺の胸の奥に、よく分からない何かがもやっと広がった。


「今日の営業先、かなり頑固で有名な担当者さんだったのね。あの人はなかなか首を縦に振らないって言われてて」

「へえ」

「でも神代先輩、事前準備がものすごく丁寧で。相手の会社の課題とか、過去の導入事例とか、想定される反論とか、全部まとめてたの」

「神代先輩らしいですね」


 俺は何を聞かされてるんだろう?


「そうなの。説明もすっごく分かりやすくて。数字だけじゃなくて、現場の人がどう感じるかまで話しててさ。あの担当者さんが、途中で少しだけ眉を動かしたの。普通なら見逃すくらいの反応なんだけど、神代先輩、それをちゃんと拾って」

「拾う?」


「『今の点、少し引っかかりましたか』って、自然に声をかけたの。そしたら相手が、実は現場からこういう不安が出ていて、って話し始めて。そこから神代先輩が、事前に用意していた別資料を出して、すぐフォローして」

「……すごいですね」

「でしょ? あれは本当にすごかった。私、横で見てて、こういうのが仕事できる人なんだなって思ったもん」


 水瀬さんは楽しそうに語る。


 神代先輩がいかに準備していたか。

 どれだけ相手の表情を見ていたか。

 質問への返しがどれほど的確だったか。

 声のトーンが落ち着いていて、相手に安心感を与えていたこと。


 それを聞くたびに、俺の胸のもやもやは少しずつ濃くなっていった。


『嫉妬かなぁ?』

「違う」

『心拍数、上昇。表情筋に微細な緊張を確認』

「分析するな」

『神代恒一に対する対抗意識の可能性があります』

「ない」

『あるよぉ』

「ないって言ってるだろ」

「灰谷くん?」


 水瀬さんが首を傾げた。

 俺は慌てて顔を上げる。


「いえ、何でもないです」

「本当に?」

「本当です」


 ちょうど運ばれてきたビールを手に取り、俺はごまかすように一口飲んだ。

 喉に染みるなぁ。


『アルコール摂取を確認。判断力低下に注意してください』

「今さら俺に判断力があると思うな」

『眠太くん、やさぐれてるねぇ』


 俺はビールをさらに飲もうとして――ふと、対面からの視線に気づいた。


 水瀬さんが、じーっと俺を見ている。

 笑っている。

 いや、にやにやしている。


「……何ですか?」

「灰谷くん」

「はい」

「妬いちゃった?」


 ぶっ。

 危うくビールを吹き出すところだった。


「なっ、何言ってるんですか」

「だって、さっきから反応が薄いんだもん」

「普通です。普通の相づちです」

「ふ~ん?」


 水瀬さんはいたずらっぽく目を細めた。

 その表情が、妙に近い。

 いや、距離は変わっていない。テーブルを挟んでいる。でも、視線だけが近い。


 俺は思わず目を逸らした。


『心拍数、さらに上昇』

『ときめいてるねぇ』

「うるさい」

「え?」

「いえ、こっちの話です」

「こっち?」

「脳内会議です」

「何それ」


 水瀬さんがくすっと笑う。

 その笑顔を見て、俺はまたビールに逃げた。

 しかし、水瀬さんはそこで急に表情を変えた。


「まあ、神代先輩がすごかったのは本当なんだけど」

「はい」

「本当に話したかったのは、別のこと」


 空気が、少しだけ変わった。

 俺はジョッキを置く。


「別のこと?」

「うん」


 水瀬さんは枝豆を一つつまみ、指先でころころ転がした。


「神代先輩、どうして今日あんなに絶好調だったのかなって」

「どういうことですか?」


 俺が問い返すと、水瀬さんはほんの少しだけムッとした顔をした。


「灰谷くんさ」

「はい」

「今日、神代先輩と休憩室に入ったよね」

「……入りましたね」

「その後、神代先輩の顔色が明らかによくなってた」

「そうでした?」

「そうでした」


 即答だった。

 水瀬さんは枝豆を口元に添えたまま、さらに続ける。


「それ、今日だけじゃないよね。前にもあった。神代先輩がきつそうにしてた後、灰谷くんと一緒に休憩室に入って、戻ってきたら少し楽そうになってた」

「気のせいじゃないですかね」

「二回も?」

「偶然という可能性も」

「へえ」


 水瀬さんの目が細くなる。

 まずい。


「私に何か隠し事してない?」


 その瞬間、全身から冷や汗が噴き出した。


『発汗量、増加』

『眠太くん、顔に出すぎだよぉ』

「気、気のせいですよ」

「そう? 顔に出てるように見えるけど」


 水瀬さんがにっこり笑った。

 その笑みは可愛い。

 可愛いのだが、今は怖い。


「眠太くん」

「はい」

「私と眠太くんの間に、隠し事なんて酷いんじゃなぁ~い?」


 いつもの水瀬さんと、少しだけ違う口調だった。

 甘い。

 柔らかい。

 けれど、こちらの逃げ道を塞ぐような響きがある。


 俺の頭の中が、一瞬ふわっとした。


 ああ、そうだ。


 隠し事はよくない。


 水瀬さんにはお世話になっている。

 魅了スキルの相談にも乗ったし、俺だって相談した方がいい。

 むしろ全部話すべきだ。

 話して謝るべきだ。

 隠していてすみません、全てを詳らかにお話ししますと頭を下げるべきだ。


「す、すみません。実は――」

『警告』


 アナの声が、頭の中で鋭く響いた。


『スキル魅了の発動を検知しました。現在、水瀬綾は灰谷眠太に対して魅了を行使しています』


 はっとした。

 目の前の水瀬さんを見る。

 彼女は相変わらず笑っている。


 でも、その目には自覚のない熱があった。

 俺はゆっくり息を吸い、どうにか言葉を絞り出した。


「水瀬さん」

「なぁに?」

「もしかして、魅了スキルを使ってます?」

「……え?」


 水瀬さんの表情が止まった。

 次の瞬間、みるみるうちに顔が赤くなっていく。


「えっ、うそ。私、今、使ってた?」

「たぶん」

「うそでしょ……!」


 水瀬さんは慌てて水のグラスを手に取り、一気に飲み干した。


「ゴメン! 無意識だったの。わ、私、何言っちゃってるんだろね。ちょっとお手洗いに行ってくる!」

「あ、はい」


 そう言うなり、水瀬さんは席を立った。

 残された俺は、ジョッキを握ったまま固まる。


『魅了効果、低下』

『今の、水瀬さんもびっくりしてたねぇ』

「……だな」

『練習が必要と推測されます』

「練習台、俺なんだよな」

『そうだねぇ』

「笑い事じゃないぞ」


 それから十分ほどして、水瀬さんは戻ってきた。


 席に座った彼女は、さっきより少しだけ大人しくなっていた。


「……ごめん」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないよ。今の、完全にアウトだったでしょ」

「まあ、危なかったのは危なかったですけど」

「本当にごめん」


 水瀬さんは深く頭を下げた。

 俺は慌てて手を振る。


「いや、元々、俺が練習台になるって話でしたし」

「でも、今のは練習じゃなかった。無意識だった」

「それなんですけど」


 俺は昼に見たニュースの話をした。

 精神・感情系スキルの誤発動トラブルが増えていること。


 本人に自覚がないまま、周囲の感情を揺らしてしまう例があること。


 特に魅了や威圧、安心感を与えるタイプのスキルは、日常会話の中で発動しやすいらしいこと。


 水瀬さんは話を聞きながら、げんなりした表情を浮かべた。


「……ついさっき実感したわ」

「ですよね」

「笑えないね、これ」

「笑えないです」

「灰谷くん、気づいてくれてありがとう」

「まぁ、あらかじめ知ってたというのが大きいですね」

「頼もしいなぁ」

『評価の横取りを確認』

『すごいのはアナちゃんなのにねぇ~』

『ちゃん付けは不要です』


 頭の中が少しだけ騒がしい。

 でも、気まずかった空気は、少し和らいだ気がした。


 水瀬さんはもう一度、俺に向かって頭を下げる。


「本当にごめんね。次から、気をつける」

「俺も、異変があったらすぐ言います」

「うん。お願い」


 そこで話は落ち着いた。


 落ち着いた、はずだった。


 水瀬さんは枝豆を一つ口に入れ、もぐもぐと噛んだ後、ふと思い出したように言った。


「で」

「はい」

「何を隠してるの?」


 目ざとい。

 目ざとすぎる。


 俺は思わず天井を仰いだ。


『逃避行動を確認』

『観念しよぉ?』

「お前ら、他人事だと思って」

「灰谷くん?」


 水瀬さんがじっと俺を見る。


 さっきの魅了とは違う。

 今度は、ただの疑いの視線だ。

 それがまた痛い。


 俺はジョッキに残ったビールを見下ろし、深く息を吐いた。


「……水瀬さん」

「うん」

「これ、あまり人に言わないでほしいんですけど」

「分かった。言わない」

「本当に?」

「うん。約束する」


 水瀬さんの声は真剣だった。

 俺は少しだけ迷った。


 あまり大勢の人に明かすのは、後々自分の首を絞める気がする。

 でも、水瀬さんには、もうかなり勘づかれてるし。


 それに、神代先輩の件もある。ヒールのことを隠し続けるのは難しい。


 俺は観念した。


「俺、スキルを二つ持ってるみたいなんです」


 水瀬さんが目を瞬かせた。


「二つ?」

「はい」

「鑑定だけじゃなくて?」

「もう一つ、回復系です」

「……回復」

「はい。ヒールが使えます」


 水瀬さんはしばらく黙った。

 そして、ゆっくりと身を乗り出す。


「だから神代先輩の体調がよくなったの?」

「はい。感覚強化の負荷を、少しだけ緩和できたみたいで」

「灰谷くん」

「はい」

「それ、めちゃくちゃ大事な話じゃない?」

「ですよね」

「ですよね、じゃないよ」


 水瀬さんは額に手を当てた。


「え、ちょっと待って。普通、1人1スキルじゃないの?」

「どうなんでしょうか? 確かに、周りを見る限り2つのスキルを持ってるって話は聞かないですけど」

「じゃあ、灰谷くんは特別?」

「そうなんですかね?」

「なんで他人事なのよ」

「俺もよく分かってないんです。鑑定のアナと、回復のヒーラがいて」

「……アナとヒーラ?」

「あ」


 しまった。

 そこまで言うつもりはなかった。

 水瀬さんの目が、すっと鋭くなる。


「いて、って何?」

「いや、その」

「灰谷くん」

「はい」

「まだ隠してること、あるよね?」


 俺は両手で顔を覆った。


『説明を推奨します』

『私たちのこと、紹介してよ~』

「どうやって紹介しろって言うんだよ……」

「灰谷くん?」


 水瀬さんの声が、逃げ道を塞ぐ。

 俺はゆっくり顔を上げた。


「……順番に話します」

「うん」

「ただし、聞いても引かないでください」

「内容によるかな」

「そこは嘘でも引かないって言ってほしかったです」


 水瀬さんは少し笑った。

 その笑顔に、俺はまた少しだけ救われる。

 そして俺は、観念して口を開いた。


「あの日から俺の頭の中には、鑑定スキルのアナと、回復スキルのヒーラっていう声がいます」

「スキルの声が聞こえるの!?」

「そういうことになりますね」


 水瀬さんの箸が、ぴたりと止まった。


「それって、かなり簡単に教えちゃダメなヤツじゃない?」


 沈黙。

 居酒屋のざわめきだけが、やけに遠く聞こえた。

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