第6話 世界が変わっても、会社は変わらない
書類の山というものは、不思議だ。
片づけても片づけても減らない。
いや、正確には減っているはずなのだ。処理済みの案件もある。修正した見積書もある。取引先に送ったメールもある。
それなのに、気づけば机の上には新しい紙の山ができている。
増殖しているとしか思えない。
「……これ、本当に紙か?」
俺はデスクの上に積み上がった書類を眺めながら、真顔で呟いた。
営業二課。
うちの部署は、鬼頭課長を筆頭に、神代先輩、相沢先輩、水瀬さん、そして俺の五人体制で回っている。
回っている、というよりは、全員で何とか沈没を防いでいると言った方が近い。
世界中がスキルに目覚めた影響で、取引先も社内も混乱しっぱなしだ。案件の仕様変更、納期の再調整、スキル発現による人員配置の見直し、なぜか増える確認資料。
そして、その確認資料を処理するのは、だいたい俺である。
『鑑定スキルの使用頻度が上昇しています。情報過多による負荷に注意してください』
頭の中に、機械音声のような声が響いた。
アナだ。
俺の中にいる鑑定担当の声。最近はもう、頭の中で声がすることにも慣れてきた。
慣れたくなかった。
「分かってるよ。でも、使わないと仕事が終わらないんだよ」
『過度な労働は推奨されません』
「それを課長に言ってくれ」
『鬼頭剛志への提案成功率は低いと推定されます』
「知ってる」
俺はため息をつきながら、書類の端を揃えようとした。
その時、ふと隣の席が目に入る。
そして、固まった。
「……なんだ、あれ」
相沢先輩のデスクが、異常に綺麗だった。
書類はすべて種類ごとに分けられ、透明なファイルに収まっている。
ペン立ての中の文房具は、まるで定規で測ったかのように高さが揃っていた。
付箋は色別、クリップはサイズ別。マウスパッドの位置すら妙に美しい。
さらに驚くべきは、PCのデスクトップだ。
以前は「最終版」「最終版2」「本当の最終版」「これを使う」「多分これ」みたいな地獄の残骸で埋め尽くされていたはずなのに、今は業務別、顧客別、日付別のフォルダが整然と並んでいる。
「相沢先輩の机、こんなに綺麗でしたっけ……?」
思わず漏れた声に、水瀬さんが顔を上げた。
「最近すごいよね。スキルが発現してから、急に整理整頓が得意になったみたい」
「生活補助系でしたっけ」
「うん。たぶん、家事とか整理とか、そういう方面のスキルなんだと思う」
生活補助系。
聞こえだけなら平和なスキルだ。
鬼頭課長の身体強化、水瀬さんの魅了、神代先輩の感覚強化に比べれば、かなりまともに思える。
ただし、持ち主が相沢真帆先輩であることを除けば。
相沢先輩は、営業二課で一番の社畜だ。
終電を逃しても「朝まで資料作れるね」と言い、休日出勤を「平日にできない仕事を片づけるチャンス」と呼び、栄養ドリンクを水のように飲む人である。
その相沢先輩に、生活補助系スキル。
嫌な予感しかしない。
『整理整頓能力の向上により、業務処理前の準備時間が短縮されている可能性があります』
「つまり仕事が増えるってことじゃないか?」
『肯定』
「肯定するな」
俺が相沢先輩のデスクを見つめていると、背後から足音が聞こえた。
振り向くと、髪の毛をボサボサにした相沢先輩が立っていた。
目の下にはクマ。肩にはカーディガン。片手には、妙に大事そうにマグカップを抱えている。
デスクだけが聖域のように整っているのに、本人はどう見ても徹夜明けの亡霊だった。
「……相沢先輩」
「なに、灰谷君」
相沢先輩は俺の視線に気づくと、マグカップを両手で握りしめた。
「このコーヒーは私のだから! もうカフェイン切れそうで、後輩君に分け与えられるほど余裕はないのよ」
「コーヒーを盗ったりしませんよ!」
「そっ」
そっけない返事だった。
そして相沢先輩は、自分のデスクから綺麗に分類された書類の束をひとつ取り出した。
それを、俺の机に置く。
「鑑定、よろしくぅ」
「今、俺が羨ましそうに見てたのは、相沢先輩の整理されたデスクであって、追加の仕事ではないんですが」
「大丈夫。これ、急ぎだから」
「大丈夫の意味が壊れてる」
「よろしくぅ」
相沢先輩はそれだけ言うと、自席に戻ってコーヒーをすすった。
俺はというと、泣く泣く相沢先輩から渡された書類を開く。
顧客別の問い合わせ一覧。仕様変更の可能性あり。納期調整必要。過去案件との比較希望。
「アナ、頼む」
『了解。書類内容の照合を開始します』
次の瞬間、鑑定結果が視界に表示される。
今更だけど、このゲームみたいな表示はどういう理屈で成り立ってるんだろう?
『過去案件との一致率、六十二パーセント。仕様変更による追加確認項目、十二件』
「十二件……」
『修正見積もり作成を推奨』
「推奨しないでくれ。俺がやることになる」
俺が現実逃避しかけた、その時だった。
「全員、集合しろ!」
事務所に鬼頭課長の声が響いた。
反射的に、営業二課の全員が顔を上げる。
鬼頭課長は腕を組み、いつも通り眉間に深いしわを寄せていた。
スキル発現以降、身体強化系の影響なのか、ただでさえ圧の強かった存在感がさらに増している。
正直、会議室に熊が入ってきた方がまだ穏やかだと思う。
「今後の方針を伝える」
俺たちはそれぞれ席を立った。
相沢先輩は髪がボサボサなのに、デスクだけが美しい。
神代先輩は本人が整っているのに、仕事の精度が崩れている。
スキル社会、バランスが悪すぎる。
「まず、外回り営業についてだ」
鬼頭課長は低い声で言った。
「スキル発現による混乱を受け、ここ数日は外回りを控えていたが、明日から通常営業に戻す」
「……もうですか?」
思わず声が出た。
鬼頭課長の視線が俺に刺さる。
「灰谷。何か問題があるのか」
「いえ、世間ではまだスキル関連の事故とか、トラブルがニュースになってるので……」
「だからこそだ」
鬼頭課長は当然のように言った。
「混乱している時こそ営業が動く。顧客の不安を拾い、案件につなげる。分かったな」
分かりたくない理屈だった。
世間が混乱している。
だから休もう、ではない。
だから稼ごう、である。
この会社、本当にブレない。
「主に外を回るのは、以前と同じく神代と相沢だ。水瀬は今後、神代か相沢のどちらかについて同行しろ」
「はい。分かりました」
水瀬さんが真面目に頷く。
それから鬼頭課長の視線が、俺に向いた。
「灰谷。お前は文書作成に専念しろ」
「……はい」
「鑑定スキルで書類確認ができるなら、内勤で使った方が効率がいい。営業資料、見積、報告書、過去案件の照合。全部回す」
「全部……」
『業務量の増加を確認』
「確認しなくていい」
小声で返すと、鬼頭課長が眉をひそめた。
「何か言ったか」
「いえ。精一杯頑張ります」
社会人にとって最も便利で、最も危険な言葉を口にした。
「それと、今後のスキル活用についてだ」
鬼頭課長は一枚の紙を掲げた。
「社長から通達が出た。各部署は、利益向上のため、社員のスキルを最大限活用すること」
最大限。
その単語だけで、俺の胃が痛くなった。
「現在、世間ではスキルの乱用や、それに伴う事故がニュースで取り上げられている。だが、過剰に萎縮する必要はない」
いや、少しは萎縮してくれ。
「我が社は、他社に先んじてスキル活用を進める。営業二課も例外ではない。各自、自分の能力を業務にどう生かすか考えろ」
鬼頭課長は一同を見回した。
「以上だ。無駄な残業はするな。ただし、必要な仕事は今日中に終わらせろ」
矛盾を矛盾のまま投げつけてくる。
これが管理職のスキルかもしれない。
会議が終わり、それぞれが席に戻る。
俺は椅子に座った瞬間、机の上の書類を見た。
相沢先輩から渡された束。
鬼頭課長から増やされた文書作成。
明日から外回り再開に伴う準備資料。
そして、アナの声。
『本日中に処理すべき業務量を再計算します』
「やめろ。心が折れる」
『推定完了時刻、22時43分』
「リアルな時間を出すな」
『休憩を挟まない場合、22時17分まで短縮可能です』
「人間を何だと思ってるんだ」
『労働機械かと』
「いつの間に会社に染まったんだよ」
俺は頭を抱えた。
すると、今度はおっとりした声が響いた。
『眠太さん、疲れたらヒールがありますよぉ』
ヒーラだ。
回復担当のおっとり声。
ただし、ヒールを使うと異常に腹が減る。
「ヒーラ、回復はありがたいけど、使うたびに胃袋がブラックホールになるんだよ」
『おにぎりがあれば大丈夫ですぅ』
「おにぎりで相殺できる労働じゃないんだ」
俺は深いため息をつき、キーボードに手を置いた。
世界は変わった。
人類はスキルに目覚めた。
魔法のような力が現れ、ニュースでは連日、社会の変化が報じられている。
なのに俺は、今日も会社で資料を作っている。
しかも、スキルのせいで仕事が増えている。
おかしい。
絶対におかしい。
だが、それを指摘したところで仕事は減らない。
むしろ、指摘する資料を作らされる可能性がある。
だから俺は、黙って働いた。
泣きそうになりながら鑑定し、照合し、見積書を修正し、報告書を書いた。
気づけば、窓の外は暗くなっていた。
ようやく最後のファイルを保存し、俺は椅子の背もたれに体を預ける。
「……終わった」
『本日の主要業務完了を確認』
『お疲れさまですぅ』
「ありがとう。脳内の声に労われる日が来るとは思わなかったよ」
俺は荷物をまとめ、席を立った。
今日はもう帰る。
絶対に帰る。
誰が何と言おうと帰る。
そう決意して事務所を出ようとした時だった。
「灰谷君」
「灰谷」
二つの声が、同時に俺を呼んだ。
振り向くと、水瀬さんと神代先輩が立っていた。
二人とも、微妙に気まずそうな顔をしている。
「あ、えっと……先にどうぞ、神代先輩」
「いや、水瀬からでいい」
「いえ、私は別に、その……」
「俺も大したことではない」
何だこの空気。
「えっと、何かありました?」
水瀬さんが少しだけ頬をかきながら言う。
「今日、よかったら飲みに行かない? この前の話の続きもしたいし」
その直後、神代先輩も口を開いた。
「灰谷。少し付き合えないか。感覚強化の件で、相談したいことがある」
飲みの誘いが重なった。
しかも片方は同期の水瀬さん。
もう片方は、最近かなり追い詰められている神代先輩。
どうする。
どうするんだ、俺。
『選択肢を提示します。第一案、水瀬綾と同行。第二案、神代恒一と同行。第三案、三名で同行』
「第三案だけ妙に平和だな」
『対人関係の摩擦を最小化する可能性があります』
『ご飯、食べましょう。眠太さん、今日はたくさん働きましたからぁ』
ヒーラの言葉に、腹が鳴った。
かなり大きめに。
水瀬さんが小さく笑う。
神代先輩も、少しだけ表情を緩めた。
「……じゃあ、三人で行きます?」
俺がそう言うと、水瀬さんはぱっと顔を明るくした。
「うん。いいと思う」
神代先輩も頷いた。
「助かる」
助かるの意味が少し重い気がしたが、聞かなかったことにした。
俺たちは会社を出た。
夜の空気は、少し冷たかった。
街は、以前と同じようで、どこか違っている。
スマホのニュースには、スキル事故の見出しが並んでいる。駅前の大型ビジョンでは、政府がスキル利用の注意喚起を流していた。道行く人々も、どこか落ち着かない顔をしている。
世界は、確かに変わり始めている。
でも。
「灰谷君、何食べたい?」
「とりあえず、腹に溜まるものがいい」
「灰谷、飲みすぎるなよ。明日も仕事だ」
「神代先輩、それ今言います?」
俺たちは、そんな会話をしながら歩いていく。
世界中がスキルに目覚めた朝。
俺は上司に怒鳴られていた。
そして数日経った今も、俺はやっぱり仕事に追われている。
鑑定ができても。
ヒールが使えても。
同期が魅了持ちでも。
先輩たちがそれぞれ変な方向に進化していても。
結局、明日も会社はある。
最悪な世界だ。
でも、一人ぼっちではないらしい。
「……まあ」
俺は小さく呟いた。
「明日も生き残るくらいは、してやるか」
その瞬間、スマホが震えた。
画面を見る。
鬼頭課長からのメッセージだった。
『明日の朝イチで追加資料を確認する。灰谷、出社したらすぐ対応しろ』
俺は無言で画面を閉じた。
前言撤回。
世界が変わっても、会社は変わらない。
いや。
変わらないどころか、スキルのせいで、ちょっと悪化している。
「……飲むか」
水瀬さんが苦笑し、神代先輩が静かに頷いた。
こうして俺の、レベル1社畜としての一章目は幕を閉じた。
この時の俺は知らなかったんだ。
まさか俺の残業まみれの日常が、世界の変革なんて大げさなものに繋がっていくなんて。




