第5話 エース先輩は眠れない
世界中がスキルに目覚めて、数日が経った。
世間は相変わらず大混乱している。
テレビをつければ、スキルで火を出した会社員だの、駅前で宙に浮いた男だの、猫が飼い主のスマホを吹き飛ばしただの、もうニュースなのかバラエティなのか分からない。
そんな中でも、会社は動いている。
いや、動かされている。
「灰谷! この見積書、今日中に確認しておけ!」
「はいぃ!」
鬼頭課長の怒号に反射的に背筋を伸ばしながら、俺――灰谷眠太は、今日も社畜らしくパソコンに向かっていた。
スキルに目覚めたからといって、仕事が減るわけではない。むしろ増えた。
取引先も社内も混乱しているせいで、納期変更、受注キャンセル、謎の相談メールが山ほど届いている。
ただ、そんな混乱の中で、俺は別の異常に気づいていた。
「……まただ」
手元の資料に視線を落とす。
営業部二課の先輩、神代恒一さんが持ってきた提案資料だ。
神代さんはうちの部署のエース的存在だった。
仕事が速い。判断も速い。資料は綺麗。客先での受け答えもスマート。あの鬼頭課長ですら一目置いている。
つまり、俺とは違う生き物である。
なのに――。
「誤字、二つ。脱字、一つ。数字の桁ミス……いや、これは転記ミスか?」
いつもの神代さんなら、あり得ない。
以前の資料は、誤字脱字どころか余白の取り方まで美しかった。俺が作った資料がスーパーの特売チラシなら、神代さんの資料は高級ホテルのパンフレットだ。
『文書内に表記揺れを検出』
頭の中に、機械音声のような声が響いた。
アナだ。
『こちらも直しておくと、神代さんが助かると思いますよぉ』
続いて、おっとりした声。
ヒーラである。
俺は最近、この二つの脳内音声を当然のように受け入れ始めていた。人間、追い詰められると適応力が上がるらしい。
「……修正案だけ書いて返すか」
鑑定スキルでミスを拾いながら、赤字で修正案を書き込んでいく。
別に恩を売りたいわけじゃない。ただ、このミスが鬼頭課長に見つかったら、確実に面倒なことになる。
資料を返しに行くついでに、俺は神代さんの様子をうかがった。
「神代さん、ここの表記なんですけど……」
「ああ。すまない。助かる」
相変わらず整った顔立ちで、スーツもきちんとしている。
けれど、目の下には薄くクマができていた。顔色も悪い。しかも、俺が声をかけた瞬間、ほんの少し肩が跳ねたように見えた。
「……大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「いや、その。少し疲れてるように見えたので」
「問題ない」
即答だった。
これ以上踏み込むな、という空気があった。
プライドが高い人だとは思っていた。でも、ただ偉そうなわけじゃない。自分に厳しい人なのだ。
そんな神代さんが問題ないと言うのだから、俺にできることはあまりないだろう。
仕方なく、自分のデスクに戻る。
『ヒールを使用すれば、疲労回復の可能性がありますよぉ』
ヒーラがのんびりと言う。
それは分かっている。
俺のヒールなら、神代さんの体調を少しは回復できるかもしれない。でも、それをやればヒールの存在がバレる。
鑑定だけでも十分厄介なのに、ヒールまで使えるなんて知られたら、俺は間違いなく便利屋コースだ。
社畜から回復装置へジョブチェンジである。
そんなことを考えていると――。
「神代ォォォ!!」
事務所に雷が落ちた。
もちろん本物ではない。鬼頭課長の怒号だ。
「お前、今、寝ていただろうが!」
事務所中の視線が、一斉に神代さんへ向いた。
え。
あの神代さんが、勤務中に?
神代さんは椅子から立ち上がり、悔しそうに唇を噛んでいた。
「申し訳ありません。少し、意識が飛んでいました」
「少しだと!? 客先に出す資料を前にして居眠りとは、どういう了見だ!」
「……以後、気をつけます」
「気をつけますで済むか!」
鬼頭課長の声がさらに大きくなる。
その時、パソコンの画面右下にチャット通知が出た。
水瀬さんだ。
『神代先輩、何かあったのかな?』
俺は素早く返信する。
『最近、疲れてるようには見えます。誤字とかも増えてますし。明らかに変ですね』
『やっぱり?』
少し間が空いて、次のメッセージが届いた。
『ちょっと行ってくるね。援護お願い』
「援護って何!?」
思わず小声で叫んだ。
俺の嫌な予感をよそに、水瀬さんは資料を手に、怒り狂う鬼頭課長の方へ歩いていく。
火山の火口に生卵を持っていくような行為だ。
その瞬間、頭の中にアナの声が響いた。
『魅了スキルの発動を検知』
俺は目を見開いた。
水瀬さんのスキル。
魅了。
彼女はそれを使って、鬼頭課長の注意を自分に向けていた。
「課長、すみません。こちらの資料なんですけど、至急確認していただきたい点がありまして」
「今は神代の――いや、何だ」
鬼頭課長の怒りの矛先が、わずかに逸れた。
なるほど。
つまり、今のうちに神代さんを逃がせということか。
これが援護。
いや、作戦名くらい共有してほしかった。
俺は椅子から立ち上がり、神代さんのそばに寄った。
「あ、あの、神代さん」
「……何だ?」
「ちょっと、相談がありまして。休憩室で、いいですか?」
神代さんは一瞬だけ俺を見て、水瀬さんと鬼頭課長の方へ視線を向けた。
すべてを察したように、浅く息を吐く。
「分かった」
俺たちは事務所を抜け、休憩室へ向かった。
とはいえ、呼び出したのはいいものの、俺は神代さんとまともに雑談したことがほとんどない。
「あ、えっと、その……」
「相談があるんじゃなかったのか?」
「あります。ありますけど、その、何と言いますか……」
俺が挙動不審になっていると、神代さんは深いため息をついた。
「まさか、後輩たちに気を使われるとはな」
「え?」
「水瀬も、お前もだ。鬼頭課長の注意を逸らして、俺をここに逃がしたんだろう」
あっさりバレた。
さすがエース、ちょっと怖い。
「……すみません」
「謝るな。助かったのは事実だ」
神代さんは短くそう言うと、棚からドリップコーヒーを取り出した。
「礼は言っておく。ありがとう」
「あ、いえ……」
神代さんは紙コップを置き、フィルターをセットし、お湯を注ぎ始めた。
ぽた。
ぽた。
休憩室に、コーヒーが落ちる小さな音が響く。
そのたびに、神代さんの肩がビクッと震えた。
俺は息をのんだ。
偶然じゃない。
「神代さん、本当に大丈夫ですか?」
「っ――」
俺の声に、神代さんは過敏に反応した。
まるで大きな音を浴びせられたみたいに、眉間を押さえる。
そして、自嘲するように笑った。
「お前は、俺のスキルを知ってるんだろ?」
「知りませんよ!」
思わず即答した。
心の中では、さらに叫んでいた。
人のスキルを勝手に鑑定なんかしませんよ!
っていうか、みんな俺のことそんな風に見てるんですか!?
「……そうか」
神代さんは意外そうに目を細めた。
「なら、この際だ。鑑定してくれ」
「いいんですか?」
「ああ。自分でも、もう限界が近いことは分かっている」
その言葉は、ひどく乾いていた。
俺は小さく息を吸う。
「分かりました。鑑定します」
意識を集中させると、視界の端に半透明の表示が浮かび上がった。
対象:神代恒一
分類:感覚強化系
効果:五感の感度を大幅に上昇させる
発動条件:常時発動
制御状態:制御不能。過剰入力状態
備考:睡眠不足、疲労蓄積、集中力低下を確認
俺は表示を見て、言葉を失った。
常時発動。
制御不能。
過剰入力。
つまり神代さんは、ずっと五感が鋭くなりすぎた状態で過ごしているということだ。
「……やっぱりな」
神代さんは薄く笑った。
「スキルが発動した日から、音が全部うるさい。蛍光灯、キーボード、紙をめくる音。コーヒーが落ちる音ですら、頭の中で響く」
ぽた。
神代さんの肩がまた震える。
「匂いもきつい。弁当、香水、コピー機の熱。服のタグが肌に当たるだけで気になる。夜になっても、車の音が耳から離れない。ほとんど眠れていない。ネクタイですら、ほら……」
そう言った神代さんは、首元のネクタイを片手で取り外して見せる。
以前なら、普通のネクタイをしてたはずなのに、いつの間にか、ワンタッチタイプに変えていたみたいだ。
「そんな状態で、仕事してたんですか……?」
「できると思った。俺なら制御できると」
神代さんは悔しそうに拳を握った。
「だが、このざまだ」
俺は何も言えなかった。
完璧な人だと思っていた。
ミスなんてしない人だと思っていた。
でも、違う。神代さんも、普通に苦しんでいた。ただ、それを見せないようにしていただけだ。
『ヒールの使用を推奨しますよぉ』
ヒーラの声が、静かに響いた。
分かっている。
ここで使わなかったら、たぶん後悔する。
俺は休憩室に誰もいないことを確認した。
「神代さん」
「何だ」
「内緒にしていてほしいんですが」
「……何をだ?」
俺はそっと手を伸ばし、神代さんの腕に触れた。
「ヒール」
淡い光が、俺の手のひらから広がった。
神代さんの目が見開かれる。
光はすぐに彼の全身へ染み込むように消えていった。
「……何だ、これは」
神代さんは自分の手を見下ろし、ゆっくりと息を吸った。
「頭の重さが消えた。耳鳴りも……少し、遠い」
「完全に治ったかは分かりません。でも、疲労は取れたと思います」
「お前……鑑定だけじゃなかったのか」
「だから、内緒でお願いします」
俺は真剣に頭を下げた。
「これがバレたら、俺、たぶん社内救護班みたいな扱いになります」
「社内救護班……」
神代さんは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ笑った。
「分かった。恩に着る」
その声には、さっきまでの張り詰めた感じが薄れていた。
「灰谷」
「はい」
「お前を少し見くびっていた。悪かったな」
「えっ」
そう言って、神代さんは背筋を伸ばした。
さっきまでの疲れ切った顔ではない。営業部二課のエースが、少しだけ戻ってきたように見えた。
その時、休憩室のドアが開いた。
「灰谷くん、大丈夫? 課長はなんとか――」
水瀬さんが入ってきて、そこで固まった。
視線の先には、妙に元気を取り戻した神代さん。
そして、神代さんの腕に触れた直後の俺。
「水瀬。助かった」
神代さんは何事もなかったかのように言った。
「灰谷に元気づけられた。おかげで立て直せそうだ」
「え? あ、はい……?」
「では、仕事に戻る」
神代さんは颯爽と休憩室を出ていった。
残されたのは、俺と水瀬さん。
沈黙。
水瀬さんが、じっと俺を見る。
「……何があったの?」
「えっと、それは……」
ヒールのことを話すべきか。
いや、でも秘密が増えるほど俺の平穏は遠ざかる。
俺が高速で悩んでいると、水瀬さんは何かを勘違いしたように、ぽつりと呟いた。
「……もしかして、二人って深い仲だったの?」
「違いますよ!!」
俺の叫び声が、休憩室に響いた。
直後、外から鬼頭課長の怒号が飛んでくる。
「何を騒いでる灰谷! 早く仕事に戻らんか!」
「はいぃぃ!」
結局、世界がスキルに目覚めても。
俺の一日は、怒鳴られて終わるらしい。




