第51話 逃げるだけでは
痛い。
怖い。
逃げたい。
暗い。
狭い。
出られない。
『………』
目を閉じているのに、見えた。
いや。
見えているわけではない。
伝わってくる。
冷たい金属。
鼻をつく、人間の匂い。
体を押さえつけられる感覚。
何度ぶつかっても開かない壁。
その向こうに立っている、大きな生き物。
人間。
『……こわい』
声が届いた。
声ではない。
意味。
感情。
恐怖。
それが、オラの中へ流れ込んでくる。
『大丈夫だ』
オラは返した。
『もう、そこにはいない』
『……いない?』
『ここにはいない』
目の前にいる若いイノシシが、鼻を鳴らした。
傷はない。
少し痩せている。
けれど、生きている。
さっきまでオラに流れ込んできていたのは、こいつが前に経験したことだった。
人間に追われた。
逃げた。
何かに入った。
餌があった。
食べようとした。
後ろで音がした。
出られなくなった。
それから――。
『運ばれた』
イノシシから意味が返ってくる。
『遠くへ』
『どこに?』
『知らない』
『仲間は?』
『いない』
『前にいたところへ戻ったか?』
『戻れない』
その意味に、寂しさが混じる。
『人間が、いた』
オラは黙った。
少し離れた木の上で、鳥が鳴いている。
風が枝を揺らす。
暖かい。
冬の間とは違う。
森の中には、いろいろな匂いが増えていた。
草。
土。
花。
虫。
動物。
そして、遠くから人間の匂いもする。
オラは、それが分かるようになっていた。
前なら気にもしなかった。
人間の匂いがしたら逃げる。
大きな音がしたら隠れる。
それだけだった。
でも今は違う。
人間が何をしているのか。
どうして近づいてくるのか。
何を考えているのか。
知りたくなった。
知らないと、危ない。
そう思った。
『他にもいるか?』
オラは問いかける。
誰か一匹に向けたものではない。
近くにいるものたちへ。
届く範囲にいるものたちへ。
返事は、すぐには来なかった。
けれど。
ひとつ。
ふたつ。
少しずつ、返ってくる。
『いる』
『知ってる』
『人間』
『こわい』
『追う』
『捕まえる』
ばらばらだった。
人間の言葉みたいに、きれいには並んでいない。
いろいろなものが、一緒になって流れ込んでくる。
『………』
オラは目を閉じた。
ひとつずつ、受け取る。
それは、木の上にいたサルから。
下から人間が来る。
大きな音。
逃げる。
仲間が一匹、遅れる。
網。
叫び声。
連れていかれた。
戻ってこない。
次は、別の場所から。
そこは畑。
たくさんの食べ物をむさぼっていた。
すると、人間の怒った声が響く。
何かが飛んできて、地面に当たる。
怖い。
逃げる。
続いて、別のもの。
夜。
明るい光。
餌の匂い。
仲間が近づいた。
突然、大きな音。
走る。
振り返る。
仲間が動かない。
『………』
オラは目を開けた。
胸の奥がざわざわする。
自分の怖さじゃない。
いろいろなやつの怖さが、残っている。
『死んだのか?』
返事はない。
でも。
分かった。
動かなくなった。
そのあと、会っていない。
それだけ。
人間が殺したのかもしれない。
別の理由かもしれない。
そこまでは分からない。
でも、そこに人間がいた。
人間が何かをした。
仲間は戻らなかった。
それが、あいつの知っている全部だった。
『人間は、捕まえる』
オラは呟く。
若いイノシシが耳を動かす。
『捕まえる』
『追う』
『殺す』
別のものから返ってきた。
『………』
殺す。
その意味は分かる。
前より、ずっとよく分かる。
死ぬ。
動かなくなる。
戻ってこない。
もう話せない。
もう走れない。
もう食べられない。
もう春も来ない。
『なんでだ?』
オラは聞いた。
『なんで、人間は殺す?』
返ってくるものは、ばらばらだった。
『食べた』
『畑』
『入った』
『近づいた』
『こわいと言っていた』
『危ない』
危ない。
その言葉だけは、人間から何度か拾っている。
危険。
駆除。
捕獲。
最近、よく聞く。
特に――。
力を持ったものたちについて。
『スキル』
人間は、そう言っていた。
オラの中にいるもの。
他のやつらの中にもいるもの。
それがくれる、不思議な力。
速くなるやつ。
硬くなるやつ。
遠くが分かるやつ。
変なことができるやつ。
いろいろいる。
人間にもいる。
それなのに。
『危険なスキル害獣』
前に聞いた人間の言葉が浮かぶ。
害獣。
その意味も、少しずつ分かってきた。
人間にとって困る動物。
食べ物を取る。
畑を荒らす。
家に入る。
人を傷つける。
だから捕まえる。
だから追い払う。
場合によっては殺す。
『………』
オラは木の枝を掴んだ。
人間にも事情がある。
それは、なんとなく分かる。
畑のものを食べられたら嫌なんだろう。
家に入られたら困るんだろう。
怖いものが近づいたら、追い払いたいんだろう。
オラたちだって同じだ。
巣に知らないものが入ってきたら嫌だ。
食べ物を取られたら困る。
襲ってくるものがいたら逃げる。
逃げられなかったら、噛む。
だから。
人間が変なことをしているとは思わない。
でも。
『……人間は、多い』
オラは呟いた。
返事はない。
『すごく多い』
森の外へ行けば、どこにでもいる。
大きな道。
大きな建物。
大きな音。
夜でも明るい場所。
全部、人間が作った。
人間は、どこまでもいる。
オラたちは違う。
住めるところがなくなったら、逃げるしかない。
逃げた先にも人間がいたら、また逃げる。
その先にもいたら?
『………』
考えても分からない。
分からないから、怖かった。
しばらくして、オラは移動した。
森の中を進む。
枝から枝へ。
幹を伝って。
地面には、なるべく下りない。
前よりも、いろいろなものの気配が分かる。
中にいるものが、教えてくれている。
近くにいる。
あっちにも。
こっちにも。
オラと同じように、何かを中に持っているやつ。
不思議な力を持ったやつ。
そいつらの気配を追った。
大きな木の根元に、サルがいた。
一匹。
少し離れたところに、もう一匹。
さらに奥にもいる。
近づくと、一匹が歯を見せた。
『来るな』
『何もしない』
『来るな』
『話を聞きたい』
『話?』
『人間のことだ』
警戒が少し変わった。
怒り。
怖さ。
それから。
悲しさ。
『人間、嫌い』
『なんでだ?』
『仲間、捕まった』
『いつ?』
『少し前』
『戻ったか?』
『戻らない』
『どこに連れていかれた?』
『知らない』
まただ。
捕まる。
連れていかれる。
戻らない。
『お前たちは、人間に何かしたのか?』
サルから返ってきたのは、木。
屋根。
袋。
食べ物。
甘い匂い。
人間の怒鳴り声。
『食べた』
『人間のものを?』
『食べ物』
『そうか』
それなら、人間が怒るのも分かる。
分かる。
けれど。
捕まったやつは、どこへ行った?
どうなった?
それは誰も知らない。
『人間の近くに行くな』
オラは伝えた。
サルがこちらを見る。
『食べ物があっても行くな』
『なんで?』
『捕まるからだ』
『腹が減る』
『別のものを探せ』
『ない』
『探せ』
『ない』
『………』
何も言えなかった。
人間の近くには食べ物が多い。
森の中より簡単に取れることもある。
それを知ったやつらに、行くなと言っても難しい。
腹が減れば行く。
生きるために食べる。
その結果、人間が困る。
人間が追う。
捕まえる。
また来ないようにする。
『………』
分からない。
どっちが悪いのか。
分からない。
でも。
オラは一つだけ分かっていた。
『人間に捕まるな』
それだけは、何度も伝えた。
『見つかったら逃げろ』
『危ないと思ったら近づくな』
『人間の作ったものに入るな』
『食べ物が置いてあっても、変な匂いがしたら触るな』
いろいろなやつへ伝えた。
イノシシ。
サル。
鳥。
小さいもの。
オラの声が届くやつ。
声を返せるやつ。
全部に。
逃げろ、近づくな、捕まるな。
それでいいと思っていた。
人間と戦う必要はない。
離れていればいい。
人間のいるところへ行かなければいい。
そうすれば、人間もこっちへ来ない。
そう思っていた。
――けれど。
数日後。
『助けて』
突然、強いものが流れ込んできた。
『………!』
オラは顔を上げた。
怖い。
痛い。
苦しい。
動けない。
『どこだ?』
『助けて』
『どこにいる?』
『助けて』
同じものばかり返ってくる。
場所が分からない。
でも、遠くはない。
オラは走った。
枝を渡る。
幹を下りる。
地面を走る。
また木へ登る。
『どこだ』
『助けて』
『返事しろ』
怖さを追う。
苦しさを追う。
人間の匂いが強くなった。
『………』
止まった。
木の陰から、向こうを見る。
人間がいた。
二人。
その間に。
檻。
金属。
中に、小さな動物がいる。
暴れている。
出ようとしている。
でも出られない。
『助けて』
人間の声が聞こえる。
「こいつもスキル持ちかもしれないな」
「最近多いらしいからな」
「とりあえず回収して確認してもらおう」
スキル。
回収。
『助けて』
オラの爪が、木の皮へ食い込んだ。
人間たちは怒っていない。
棒で叩いてもいない。
殺そうともしていない。
ただ、捕まえている。
何かを確認するために。
人間には、人間の理由があるのかもしれない。
でも。
檻の中にいるやつはこんなに怖がっているのに、人間からは同じ恐怖を感じない。
『助けて』
『………』
人間たちが檻を持ち上げる。
『待て』
届かない。
人間へではない。
中にいるやつへ。
『暴れるな』
『助けて』
『今は暴れるな』
『こわい』
『分かってる』
『助けて』
『………』
オラは動けなかった。
人間は二人。
オラは小さい。
何をすればいいのか、分からない。
飛び出しても。
噛んでも。
何も変わらない。
オラまで捕まるかもしれない。
だから。
見ているしかなかった。
人間が歩いていく。
檻が遠ざかる。
『助けて』
声が小さくなる。
『助けて』
『………』
『助けて』
やがて。
聞こえなくなった。
『………』
静かになった。
鳥の声。
風。
葉の揺れる音。
いつもと同じ森。
なのに。
オラには同じに思えなかった。
逃げろと言った。
人間に近づくなと言った。
捕まるなと言った。
それでも捕まった。
なら。
逃げるだけでいいのか?
人間が来たら逃げる。
また来たら逃げる。
もっと奥へ逃げる。
また来たら。
その次は?
『………』
オラは、人間たちが消えた方向を見る。
殺したいとは思わなかった。
あいつらが何を考えているのかも、全部は分からない。
もしかしたら、檻の中のやつを殺すつもりはないのかもしれない。
どこかで放すのかもしれない。
助けるのかもしれない。
知らない。
分からない。
でも。
分からない相手に。
仲間を渡したくない。
『………もう、逃げるだけじゃだめだ』
初めて。
そう思った。
オラは周囲へ意識を伸ばした。
一匹。
二匹。
三匹。
遠くにもいる。
オラと同じものを中に持ったやつら。
力を持ったやつら。
人間に追われたやつ。
捕まりかけたやつ。
仲間を取られたやつ。
人間を怖がっているやつ。
全部へ。
オラは呼びかけた。
『聞いてくれ』
すぐには返事がない。
『人間が来たら、逃げろ』
それは今までと同じ。
『でも、一匹で逃げるな』
少しだけ。
向こうから意識が返ってくる。
『近くにいるやつに教えろ』
『見つけたら知らせろ』
『捕まったやつがいたら、置いていくな』
オラは一度、目を閉じた。
さっきの声が残っている。
助けて。
何度も。
何度も。
『人間と戦いたいわけじゃない』
それは、本当だった。
『殺したいわけでもない』
人間が怖い。
でも。
だからといって、人間を殺せばいいとは思わない。
そんなことをしたら、もっとたくさん来る。
それくらいは分かる。
『オラたちは、ただ捕まりたくない』
遠くから。
一つ。
返事が来た。
『うん』
別のところから。
『捕まりたくない』
また。
『こわい』
『人間、来る』
『逃げる』
『仲間』
ばらばらの意味。
ばらばらの感情。
それでも。
少しずつ。
一つのところへ集まってくる。
『人間が来たら、みんなで知らせる』
オラは言った。
『近づいてきたら、遠ざける』
『捕まえようとしたら、邪魔する』
『でも、殺すな』
そこだけは、強く伝えた。
『人間を追い払うんだ』
人間が来なくなればいい。
ここへ入ってこなくなればいい。
オラたちを捕まえなくなればいい。
それだけ。
それだけでいい。
『………』
風が吹いた。
木々が揺れる。
その中で。
いくつもの意識が、かすかに繋がった。
イノシシ。
サル。
鳥。
小さなもの。
今までなら、一緒にいることなんてなかったやつら。
同じ場所にいても。
同じものを食べても。
それぞれ勝手に生きていたやつら。
でも今は。
人間が怖い。
捕まりたくない。
仲間を取られたくない。
その気持ちだけは、同じだった。
『オラが教える』
自然と、そう思った。
『人間が来たら、オラが教える』
どこにいるのか。
何をしているのか。
どう逃げるのか。
どうすれば捕まらないのか。
オラなら、みんなと話せる。
みんなの怖さが分かる。
みんなに伝えられる。
だったら。
オラがやる。
『………』
人間のいる方を見る。
遠く。
木々の向こう。
さらにその先。
見えないところに、人間たちの場所がある。
大きくて。
強くて。
たくさんいる。
オラたちより、ずっと。
『人間には近づかない』
オラはもう一度、みんなへ伝えた。
『でも、人間がこっちへ来たら――』
少し考える。
覚えたばかりの人間の言葉。
その意味。
『追い返す』
いくつもの気配が返ってきた。
オラは知らなかった。
これが正しいのか。
間違っているのか。
人間が本当に、オラたちをみんな殺そうとしているのか。
それとも。
そうじゃないのか。
まだ、知らないことばかりだった。
けれど。
一つだけ。
もう決めた。
逃げるだけには、しない。
仲間が捕まるのを。
ただ見ているだけには、しない。
今度こそ。
――守る。




