第50話 冬眠から目覚めたもの
暗い。
冷たい。
土の匂い。
枯れ葉。
木の根。
狭い。
でも、落ち着く。
体を丸くする。
眠い。
まだ、眠る。
――暖かい。
『…………』
小さな体が、わずかに動いた。
閉じていた目が開く。
暗い。
けれど、少し前までとは違う。
外から入り込んでくる空気。
湿った土。
柔らかくなった風。
腹の奥。
何も入っていない。
空っぽ。
食べる。
何か。
食べるもの。
探す。
外へ――。
――腹が減った。
『…………?』
動きが止まった。
今のは、何だ?
腹が減った。
もう一度。
頭の中に、それが浮かぶ。
腹が、減った。
『…………』
おかしい。
腹が減っていることは、前から分かっていた。
寒いことも。
怖いことも。
眠いことも。
食べたいことも。
ずっと分かっていた。
でも。
こんなふうじゃない。
腹が減った。
その一つのことが、妙にはっきりしている。
形がある。
音がある。
いや。
音は聞こえていない。
なのに、頭の中では分かる。
――ことば。
『…………?』
これが、ことば。
今度は、それが何なのかまで分かった。
どうして分かるのかは、分からない。
分からない。
それも、分かる。
自分は今、分からないと思っている。
考えている。
考えていることを、自分で分かっている。
『…………』
何だ、これ。
また、言葉が浮かんだ。
何だ、これ。
自分。
自分は。
――オラは。
『…………!』
オラ。
それが自分のことだと、なぜか分かった。
オラは。
腹が減っている。
オラは、目を覚ました。
オラは、ずっと眠っていた。
そこまで考えて、また動きを止める。
考えられる。
さっきまでとは違う。
頭の中に次々と形が生まれていく。
寒い。
暗い。
腹が減った。
外へ出たい。
ここは巣。
春。
春?
『…………』
そうだ。
春だ。
外の匂いで分かる。
長く眠っていた。
寒い季節。
木の実が減って。
虫もいなくなって。
寒くなったから。
眠った。
それまでは、こんなことを考えたことはなかった。
いや。
考えてはいた。
でも、言葉ではなかった。
寒ければ丸くなる。
腹が減れば食べ物を探す。
危険を感じれば逃げる。
ただ、それだけだった。
それを今は。
ことばで説明できる。
『…………』
なんで?
答えはない。
ただ。
頭の奥。
いや、胸の奥。
もっと違う場所。
どこなのかは分からない。
何かがいる。
自分ではない何か。
それが、ずっと近くにいる。
前から?
『…………』
いつからだ。
思い出そうとする。
眠っていた。
ずっと眠っていた。
その途中。
一度だけ。
世界が揺れた。
地面の揺れを感じたわけじゃない。
音を聞いたわけでもない。
光を見たわけでもない。
でも。
何かが来た。
遠くから。
どこからでもない場所から。
一瞬だけ、世界全部がざわついた。
それから。
何かが、自分の中にいる。
そんな気がするようになった。
怖くはない。
嫌でもない。
ただ。
いる。
オラと一緒に。
『…………』
腹が鳴った。
考えるのをやめる。
今は食べる。
それが先だ。
オラは丸めていた体を伸ばした。
前脚を伸ばす。
後ろ脚。
尻尾。
長く眠っていたせいで、体が重い。
それでも少しずつ巣穴の外へ向かう。
やがて。
光が見えた。
『…………!』
眩しい。
目を細める。
木の根の隙間から外へ出る。
風。
まだ冷たい。
でも冬の風じゃない。
草が出ている。
枝の先にも小さな芽。
春だ。
本当に春だ。
オラは鼻を動かした。
食べ物。
どこかに。
そのときだった。
『怖い』
『…………!』
体が固まった。
今の。
なんだ?
オラじゃない。
『来る』
『怖い』
『逃げる』
まただ。
声じゃない。
耳には何も聞こえない。
なのに。
頭の中に入ってくる。
怖い。
何かが来る。
逃げたい。
そういうものが、直接分かる。
『どこだ?』
そう考えながら周囲を見る。
地面を何かが走った。
一匹のリス。
木の根元から飛び出して、別の木へ向かって走っている。
『怖い』
『…………』
あいつだ。
なぜか分かった。
あのリスが怖がっている。
何を。
『大きい』
『来る』
『逃げる』
姿。
匂い。
足音。
断片が流れ込んでくる。
人間。
『…………』
人間。
その言葉も知っている。
前にも見たことがある。
大きい。
二本脚。
近づかない方がいい。
リスが逃げる。
オラは、ふと思った。
『待て』
すると。
リスが止まった。
『…………?』
オラも止まる。
リスが振り返った。
目が合う。
偶然?
もう一度、強く思う。
『待て』
今度ははっきりと。
リスがオラを見る。
『……?』
『…………!』
返ってきた。
疑問。
こっちを見ている。
『オラだ』
そう思った。
いや。
思っただけじゃない。
押し出す。
頭の中にあるものを、相手へ向ける。
『オラ、ここ』
自分。
木の根元。
ここにいる。
その意味を送る。
リスが首を傾げた。
『ここ』
返ってきた。
『分かるのか?』
鳴き声は出ない。
でも。
『分かるのか?』
そう送る。
『分かる』
返事が来た。
オラは目を見開いた。
『お前、分かる』
『分かる』
『オラも分かる』
『分かる』
『…………』
すごい。
すごい、というのは、こういうときに使うのか。
そんなことまで分かる。
オラは少し楽しくなった。
『腹が減った』
送ってみる。
リスから返ってくる。
『食べる』
木の実。
匂い。
場所。
あっち。
『あるのか?』
『ある』
リスが走る。
オラも後を追った。
木の根。
枝。
落ち葉。
その下に、食べられるもの。
『…………!』
夢中で食べた。
うまい。
『うまい』
『うまい』
リスからも返ってくる。
『…………』
今まで。
他の動物が何を考えているかなんて分からなかった。
鳴き声。
匂い。
動き。
それで何となく分かることはあった。
でも今は違う。
怖い。
腹が減った。
行きたい。
逃げたい。
怒っている。
子どもを守りたい。
そんなものが直接入ってくる。
オラのものも、向こうへ届く。
鳥にも。
ネズミにも。
サルにも。
全部が同じじゃない。
近い方が分かりやすい。
強く思っている方が、よく聞こえる。
言葉そのものが聞こえるわけでもない。
ただ。
意味が分かる。
そして。
オラの頭の中では、その“意味”が言葉になる。
『…………』
何かが変わった。
オラが?
世界が?
どっちなのかは分からない。
分からないけど。
前とは違う。
それから夜が何度か過ぎた。
オラは森の端まで来ていた。
人間の通る道がある。
あまり近づかない方がいい。
昔から、それは知っていた。
人間は大きい。
音も大きい。
変な匂いもする。
危ない。
でも。
今は少し興味があった。
人間は何を考えているんだろう。
動物の考えていることが分かるなら。
人間も。
「この辺だったよな?」
「そうそう。昨日また出たらしい」
「最近、多いな」
人間が三人歩いてくる。
『…………』
オラは音に集中する。
人間の声。
前なら意味の分からない音だった。
でも今は。
『この辺』
『昨日』
『また出た』
『多い』
意味が入ってくる。
それだけじゃない。
口から出た音と、考えていることが重なる。
『…………!』
分かる。
人間の言葉が。
全部じゃない。
知らないものも多い。
でも、意味が流れ込んでくるから、少しずつ結びつく。
「イノシシだって?」
「畑荒らしてるらしいぞ」
「スキル持ちかもしれないって」
『…………?』
スキル。
知らない言葉。
けれど。
その音を聞いた瞬間。
オラの中で、何かがわずかに動いた気がする。
『…………』
スキル。
なんだ?
人間たちは歩いていく。
オラは木の上から、こっそりついていった。
やがて。
「いた!」
一人が叫ぶ。
少し離れた場所。
大きなイノシシがいる。
『人間』
『怖い』
強い感情が頭へ飛び込んできた。
『逃げる』
イノシシが走る。
「そっちだ!」
「回り込め!」
人間たちも走る。
『逃がさない』
『危ない』
『捕まえる』
『…………』
捕まえる?
知らない。
でも。
人間から伝わってくるものを探る。
網。
囲む。
動けなくする。
連れていく。
捕まえる。
『…………』
そういう意味か。
イノシシが逃げる。
『怖い』
『来るな』
『逃げたい』
人間が追う。
『捕まえる』
『危ない』
『早く』
どっちも怖がっている。
オラは枝の上から見ていた。
人間はイノシシを怖がっている。
イノシシも人間を怖がっている。
なのに。
人間は追う。
『どうして?』
答えるものはいない。
やがて。
イノシシは網に絡まった。
『嫌だ』
『離せ』
『怖い』
『逃げたい』
何度も頭に響く。
「よし、捕獲!」
「暴れるぞ! 気をつけろ!」
捕獲。
オラは覚えた。
人間が動物を捕まえること。
逃げられなくすること。
それが。
捕獲。
別の日。
また人間の近くへ行った。
今度は二人。
「この辺も確認しておくか」
「例の危険個体だろ?」
「捕獲できればいいけどな」
「無理なら駆除になるかもな」
駆除。
知らない言葉だった。
だから。
言葉の意味を探る。
『…………』
動物。
倒れている。
動かない。
血の匂い。
もう走らない。
もう食べない。
もう眠らない。
『…………』
殺す。
そういう意味だった。
オラの体が固まった。
「スキル持ちだと普通の個体より危ないからな」
「被害が出てからじゃ遅いし」
人間たちは普通に話している。
怒っていない。
楽しそうでもない。
ただ。
必要なことみたいに。
捕獲。
危険個体。
駆除。
オラは木の陰に隠れた。
『…………』
スキル。
また、その言葉。
オラの中にいる何か。
あのイノシシの中にも、一つあった。
リスにも。
サルにも。
カラスにも。
全部じゃない。
でも。
いるやつがいる。
そして。
オラにもいる。
『…………』
もしかして。
これが。
スキル?
分からない。
けれど。
人間は、それを持った動物を危ないと思っている。
危なければ。
捕まえる。
もっと危なければ。
殺す。
『…………』
遠くから何かが届いた。
『怖い』
小さい。
弱い。
どこかにいる動物。
『人間』
『怖い』
オラはそちらを見る。
今までなら。
危なければ逃げればいいと思っていた。
いや。
思っていた、というのも少し違う。
危険。
逃げる。
それだけだった。
でも今は。
どうして?
このままだったら?
次はどうする?
そんなことまで考えられる。
『…………』
言葉がある。
だから。
知ってしまった。
人間が何を考えているのか。
人間がオラたちを何と呼んでいるのか。
人間が、オラたちに何をするのか。
オラは木の上から、人間たちが遠ざかっていくのを見つめた。
頭の奥。
自分ではない何かが。
静かに、そこにいる。
春になった。
オラは目を覚ました。
そして。
眠る前には知らなかったことを。
たくさん、知ってしまった。




