第49話 統率された害獣
現場に着いて、最初に思ったことがある。
「……多くないか?」
俺はヘルメットの顎紐を締めながら、目の前の光景を見た。
都内から車で一時間ほど離れた、山沿いの住宅地。
少し前までは畑だったらしい空き地の向こうに雑木林が広がり、そのさらに奥には低い山が続いている。
今回の依頼は、この周辺で頻発している野生動物による被害への対応だった。
畑を荒らされた。
家庭菜園を食われた。
ゴミ置き場を荒らされた。
物置に入り込まれた。
ここまでなら、春になって活動を始めた野生動物による被害として、特別おかしいものではない。
問題は――。
「カラスが七羽」
神代先輩が、雑木林の上へ視線を向けた。
「サルは……見える範囲で四頭。奥にもいるな」
「イノシシは?」
「二頭。たぶん親子じゃない。大きさが近い」
「本当に動物園みたいですね」
水瀬さんが困ったように笑った。
「動物園なら柵の中にいてくれるんだけどね」
相沢先輩が答える。
その足元では、黄色い安全ベストを着たまめ助が、大きく頷いていた。
今回確認されているのは、イノシシ、ニホンザル、カラス。
目撃情報だけなら、タヌキらしき小動物もいるらしい。
種類だけ見れば、この辺りに生息していても不思議ではない。
ただ。
「同じ場所に集まりすぎだよな」
『そうですね』
アナの声が頭の中に響く。
『異なる種が同一の餌場を利用すること自体は珍しくありません。ただし、これほど継続的に近距離で活動する理由については、現時点では判断材料が不足しています』
『餌があるからじゃないのぉ?』
チャーマが言う。
『眠太くんだって、食べ放題のお店に行ったら知らない人と同じ場所に集まるでしょぉ?』
「例えが微妙に嫌だな」
『食べ放題……』
ヒーラの声が聞こえた。
『眠太くん。今日の夕飯は食べ放題にしませんか?』
「今その話はしてないよ」
『残念です』
俺は小さくため息をつき、前を向く。
「灰谷」
鬼頭課長が呼んだ。
「はい」
「見える範囲から確認しろ。無理に近づくな」
「了解です」
俺は少しだけ前へ出ることにした。
空き地の向こう。
雑木林の手前に、一頭のイノシシがいる。
「……鑑定」
意識を集中すると、視界に情報が浮かぶ。
種別。
推定年齢。
体格。
そして――。
「スキル持ちです」
「内容は?」
「瞬間的な加速。短距離限定みたいです」
鬼頭課長が腕を組む。
「突進と相性がいいな」
「ですね」
嫌な組み合わせだ。
ただし、以前の熊ほど厄介ではない。
衝撃を受けるほど強くなるわけでもないし、鬼頭課長なら正面から受け止めることもできるだろう。
「他は?」
「確認します」
今度は木の上。
枝に座っているサルへ意識を向ける。
だが。
「……あれ?」
サルが動いた。
俺が見るより一瞬早く、幹の裏側へ隠れる。
「灰谷?」
「いや……今、逃げられました」
「気づかれたんじゃない?」
水瀬さんが言う。
「目が合ったとか」
「そんなに見てなかったと思うんだけどな」
『鑑定行為そのものを感知した証拠はありません』
アナが補足する。
『単純に視線へ反応した可能性が高いでしょう』
「だよな」
俺もそう思う。
思うんだが。
なんとなく引っかかった。
そのとき。
カァ。
頭上から鳴き声がした。
カァ、カァ。
見ると、電柱の上にカラスが一羽止まっている。
こちらを見ていた。
「……なんだ?」
鬼頭課長も気づいたらしい。
カラスがもう一度鳴く。
直後。
「動いた」
神代先輩の声が鋭くなる。
雑木林の中で、黒い影が走った。
イノシシだ。
一頭。
続いてもう一頭。
俺たちから距離を取るように、林の奥へ移動していく。
同時に、木の上にいたサルたちも枝から枝へ移り始めた。
「……偶然?」
水瀬さんが呟く。
「今の鳴き声で一斉に動いたように見えたけど」
誰も答えなかった。
鬼頭課長が周囲を確認する。
「予定通り進める。ただし慎重にいくぞ」
「はい」
今回の捕獲作戦は単純だ。
地元の猟友会と自治体が事前に用意した捕獲柵へ追い込み、必要に応じてネットと麻酔を使う。
俺たちの役目はスキルの確認と、通常の方法では対処できない個体への対応。
神代先輩が位置を探り、俺がスキルを確認する。
水瀬さんは近隣住民が入り込まないよう後方で自治体職員と連携。
相沢先輩とまめ助は装備の管理。
鬼頭課長は、いざというときの制圧役。
今まで通りだ。
少なくとも――俺たちの方は。
「右、二十メートル」
神代先輩が言った。
「イノシシ一頭。藪の中」
「確認できます」
俺は葉の隙間を探す。
いた。
茶色い背中が見える。
「鑑定します」
意識を集中させた、その瞬間だった。
カァッ!
「うわっ」
耳元で羽音がした。
一羽のカラスが、俺の頭上すれすれを飛び抜けていく。
「灰谷!」
「大丈夫です!」
反射的に身を屈めたおかげで、怪我はない。
ただ――。
「いない」
もう一度藪を見ると、イノシシの姿が消えていた。
「今ので逃げた?」
「みたいです」
「カラスが灰谷くんを邪魔したように見えたけど」
水瀬さんの声に、俺は返事ができなかった。
まただ。
偶然。
そう言えば偶然で済む。
俺が鑑定しようとしたら、たまたまカラスが近くを飛んだ。
それに驚いた俺の声を聞いて、イノシシが逃げた。
それだけだ。
そう思った直後。
「課長!」
神代先輩が叫んだ。
直後、藪が揺れ、イノシシが飛び出してきた。
速い!
「ふんっ!」
鬼頭課長が前へ出る。
真正面から受け止める――。
そう思った。
だが。
イノシシは課長まで数メートルのところで急激に進路を変えた。
「なに?」
地面を蹴り、横へ跳ぶ。
鬼頭課長の手が空を切った。
そのままイノシシは俺たちの脇を抜け――。
「待て!」
追おうとした鬼頭課長の頭上から、ばさばさと葉が落ちてきた。
いや。
葉だけじゃない。
「うおっ!」
太い枝が落ちた。
鬼頭課長が片腕で受け止める。
もちろん、それくらいで怪我をする人じゃない。
だが、足止めをするには十分だったようだ。
そして、その足止め役を務めたのは――
「……サル」
木の上。
一頭のサルが枝にしがみついていた。
その手元には、折れた枝。
「今の、あいつが落としましたよね?」
「そうみたいだね」
相沢先輩の表情から笑みが消えている。
まめ助も、不安そうに木の上を見上げていた。
「課長!」
神代先輩が指差す。
「左からもう一頭!」
「分かっている!」
今度は別のイノシシ。
鬼頭課長へ向かって走る。
課長が構える。
だが、やはり直前で曲がった。
「まただ!」
イノシシは課長にぶつからない。
近づき、注意を引く。
そして、課長が手を伸ばせば逃げる。
「こいつら……」
俺は思わず呟いた。
「課長を避けてる?」
『その可能性があります』
アナが即座に返す。
『二個体とも、鬼頭剛志への接触を直前で回避しています』
「たまたまじゃないのか?」
『二回では判断できません』
「だよな」
そう。
二回だ。
まだ二回。
俺はそう言い聞かせる。
そのとき、後方から声がした。
「灰谷くん!」
相沢先輩だ。
振り返る。
「どうしました?」
「ネットが!」
捕獲用のネット。
地面に固定していたはずの端が外れている。
「なんで?」
「さっきまではちゃんと――」
相沢先輩が言葉を止めた。
ネットの脇の草むらが動く。
茶色い、小さな影。
「タヌキ?」
その口元に。
千切れたロープがぶら下がっていた。
「…………」
「…………」
タヌキはこちらを見た。
俺たちもタヌキを見る。
数秒。
妙な沈黙。
そして。
タヌキはロープを吐き捨て、走って逃げた。
「ネットを狙った?」
「……かもしれないね」
相沢先輩が答える。
「偶然じゃないですか?」
水瀬さんが言う。
「動物って、気になったものを噛んだりするし」
「するけど」
俺はネットを見る。
固定部分。
タヌキが噛み切ったのはそこだけだ。
他の場所ではない。
ネットを機能させるために必要な一本だけが切られている。
「……タイミング良すぎないか?」
カァ。
また鳴いた。
全員の視線が上を向く。
カラスが、一羽。
二羽。
三羽。
さっきまでバラバラにいたはずのカラスたちが、周囲の木や電柱に止まっている。
そして俺たちを見ている。
「神代先輩」
「分かってる」
先輩が目を細めた。
「動いた。右奥」
イノシシ。
サル。
それから小型の動物。
複数の気配が一斉に移動する。
「捕獲柵とは逆方向だ」
「追いますか?」
俺が聞く。
鬼頭課長はすぐには答えなかった。
周囲を見る。
壊されたネット。
木の上のサル。
遠ざかるイノシシ。
頭上のカラス。
「深追いはするな」
課長が言った。
「予定区域から外れる。山へ入られたら追わない」
「了解です」
俺たちは移動を始めた。
その後、俺たちはいったん作戦を切り上げることになった。
猟友会が別方向へ設置していた捕獲柵にサルが一頭入り、ネットを使って若いイノシシも一頭確保できた。
だが、それだけだった。
残りは逃げた。
しかも――。
「まただ」
神代先輩が立ち止まる。
「どうしました?」
「さっきまで前にいたイノシシとサルが、二手に分かれた」
俺たちが追えば、散る。
止まれば、遠くで止まる。
近づけば、また逃げる。
そのたびにカラスが鳴いた。
一度だけ。
二度だけ。
決まった回数ではない。
だが、不思議なくらい、その直後に別の動物が動く。
「……監視されてるみたいだな」
俺が言うと、水瀬さんが不安げな視線を空に向けながらつぶやいた。
「スキルと何か関係あるのかな?」
「いくらなんでも……」
そんなことはないだろう。
と言いたいところだけど、さすがに偶然が重なりすぎだよな。
こっちが近づけば逃げる。
鬼頭課長が動けば距離を取る。
俺が見ようとすると遮られる。
捕獲道具は壊される。
偶然。
偶然。
偶然。
一つ一つなら、それで説明できる。
けれど。
『眠太』
アナが呼んだ。
「なんだ?」
『これまでに確認された行動を整理しました』
「うん」
『カラスによる接近の察知』
『それと連動した複数個体の移動』
『鬼頭剛志との直接接触の回避』
『高所からの落下物による妨害』
『捕獲用ネットの固定部破損』
淡々と並べられる。
改めて聞くと、やっぱりおかしい。
「……それで?」
『現時点の観測回数では断定できません』
「うん」
『ただし』
アナが一拍置いた。
『これらすべてが、互いに無関係な偶発行動である可能性は低いと判断します』
「…………」
やっぱり。
俺は森を見る。
もうイノシシの姿はない。
サルもいない。
カラスだけが、遠くの木の上に一羽残っていた。
黒い目が、こちらを向いている。
俺が見返すと。
カラスは一声だけ鳴いた。
カァ。
そして、山の方へ飛んでいった。
「課長」
「なんだ」
「変なこと言っていいですか?」
「内容による」
「たぶん変です」
「なら早く言え」
俺は少し迷った。
自分でも、考えすぎだと思う。
動物だ。
相手は野生動物。
カラスが鳴く。
サルが枝を落とす。
イノシシが人間を避ける。
タヌキが物を噛む。
どれも、それだけなら不思議じゃない。
なのに。
「今日のあいつら」
俺は、動物たちが消えた山を見る。
「……誰かに指示されてるみたいじゃないですか?」
誰もすぐには答えなかった。
春の風が木々を揺らし、ざわざわと枝葉が鳴る。
その奥で。
何か小さなものが動いた気がした。
けれど、目を凝らしたときには。
もう、何も見えなかった。




