第48話 春の気配と、増える依頼
朝、会社へ向かう途中で、俺はコートの前を開けた。
「……暑いな」
つい数週間前まで、駅のホームで電車を待っているだけでも指先が冷えていたはずなのに。
今日は違う。
風はまだ少し冷たい。
けれど、その中に混じっている空気が、明らかに冬のものではなくなっていた。
歩道沿いの植え込みを見ると、枝の先に小さな芽が出ている。
公園の木にも、薄い緑色が混じり始めていた。
『春ですね』
アナの声が頭の中に響く。
「そうだな」
『眠太くん、お花見しましょぉ』
続いてヒーラ。
『いいわねぇ。綾ちゃんも誘って、二人で夜桜なんてどう?』
「なんでチャーマまで起きてるんだよ」
『朝から恋愛相談に乗る準備はできてるわよぉ』
「頼んでない」
俺はため息をつきながら、横断歩道を渡った。
最近は、少し平和だった。
鬼頭課長が備品を壊す回数も減った。
相沢先輩とまめ助は休日に登山へ行ったらしい。
神代先輩は森崎さんと連絡を取り合っている。
そして俺も――。
『眠太くん?』
「なんでもない」
俺は少しだけ歩く速度を上げる。
駅へ向かう人々の服装も、厚手のコートから薄い上着へ変わり始めている。
冬が終わり、春が来る。
それは、ごく当たり前の季節の変化だった。
少なくとも、そのときの俺はそう思っていた。
「増えたな」
午前十時。
営業二課の中央に置かれたホワイトボードを見ながら、俺は呟いた。
「増えたね」
隣で水瀬さんが頷く。
ホワイトボードには、今週入った依頼が書き出されていた。
そのすべてが、スキル害獣対策に関するものだ。
市街地に侵入したイノシシ。
畑を荒らすシカ。
住宅地でゴミを漁るサル。
倉庫へ入り込んだハクビシン。
そして、まだ現地確認だけのものまで含めれば、その数は一か月前の倍近い。
「春だからでしょうか」
俺が言うと、神代先輩が書類から顔を上げた。
「冬の間は活動が鈍る動物も多いからな。暖かくなって動き出したんだろう」
それ自体は不思議じゃない。
むしろ自然な話だ。
人間だって寒い日は外に出たくない。
動物ならなおさらだろう。
『ただし』
アナが淡々と口を挟む。
『スキルを保持する野生動物の活動個体数が増加すれば、それに伴い人間社会との接触頻度も上昇すると推測されます』
「嫌な春だな」
「何が?」
水瀬さんが俺を見る。
「いや。動物も活動的になる季節なんだなと思って」
「ああ」
水瀬さんはホワイトボードを見る。
「最近ニュースでも多いよね。スキルを持った動物」
「昨日も見たな」
果樹園へ入り込んだサルが、木から木へ異常な距離を跳んで逃げ回ったというニュース。
山道に現れたシカが、車ですら追いつけないほど高速で逃走したという話。
田畑を荒らすイノシシの皮膚が、農具では傷つけられないほど硬くなっていたという事例。
以前なら珍しかった。
今では、ニュース記事を開けば一日に一件くらいは目にする。
「灰谷」
低い声が飛んできた。
「はい」
鬼頭課長が、自席からこちらを見ている。
手には紙の束。
「今日の現場の資料は読んだか」
「はい。郊外の資材倉庫ですよね」
「対象は?」
「ニホンザル二頭。うち一頭がスキル持ちの可能性あり。倉庫内の資材を荒らしてるって話です」
「周辺住民の避難は」
「自治体側で済ませてます。専門業者も現地待機。俺たちはあくまで補助です」
「よし」
鬼頭課長が短く頷く。
「出るぞ」
「はい」
俺たちは、それぞれ準備を始めた。
以前とは少し違う。
初めてスキル害獣対策を始めた頃は、会社も手探りだった。
依頼が来れば、とりあえず営業二課を向かわせる。
鬼頭課長なら何とかするだろう。
そんな空気が、明らかにあった。
熊の件以降、それは変わった。
現場周辺の避難状況。
対象となる動物。
確認されているスキル。
自治体や専門業者との連携。
逃走経路。
捕獲方法。
防護服の準備。
これらすべての確認と計画が整えられた依頼だけを受けている。
まあ、それでもあの数なんだけど。
「神代」
「はい」
「周囲に別個体の反応は」
「今のところ報告なしです。ただ、現地に着いたら改めて確認します」
「相沢」
「はい」
「まめ助を前には出すな」
「分かってます」
相沢先輩の足元で、まめ助がこくこく頷く。
「水瀬」
「はい」
「避難誘導を優先。魅了は必要なとき以外使うな」
「了解です」
「灰谷」
「はい」
「鑑定は無理に近づくな」
「分かってます」
鬼頭課長は全員を見渡した。
「危険だと思ったら中止する」
誰も反対しなかった。
以前なら、鬼頭課長自身が真っ先に突っ込んでいたかもしれない。
けれど今は違う。
できること。
できないこと。
やるべきこと。
やってはいけないこと。
少しずつだが、俺たちは分かるようになってきた。
「行くぞ」
鬼頭課長が営業二課を出ていく。
その背中を見ながら、俺は少しだけ笑った。
「……なんだ」
振り返られた。
「いや、なんでもありません」
「なら早く来い!」
「はいはい」
「返事は一回だ!」
いつもの営業二課だ。
その日の仕事は、驚くほど順調に終わった。
対象のサルは二頭。
一頭は通常個体。
もう一頭がスキル持ちだった。
『対象を確認』
資材倉庫の梁に座ったサルを見上げる。
脳裏にアナの声が響き、同じ情報が視界に浮かんだ。
『スキル――跳躍補助』
「跳ぶ距離が伸びてます。でも、それ以外は普通です」
俺が伝えると、神代先輩が頷く。
「動きを読む」
神代先輩の感覚スキルで逃げ道を予測。
水瀬さんが人のいない方向へ誘導。
相沢先輩とまめ助は捕獲器具の準備。
鬼頭課長は――。
「課長、そこです!」
「おう!」
着地したサルの進路を塞いだ。
「キィッ!」
「暴れるな!」
幸い、鬼頭課長は今回はサルを投げなかった。
専門業者が網で確保し、そのまま捕獲。
怪我人なし。
破損した資材も、もともとサルが荒らしたものだけ。
鬼頭課長による追加被害――ゼロ。
「完璧ですね」
俺が言う。
「何がだ」
「床も壁も無事です」
「俺は災害か!」
少し離れた場所で、水瀬さんが笑っていた。
それから数日。
俺たちはいくつかの現場へ向かった。
郊外の畑に、シカ一頭。
『対象、スキル保持』
能力は筋力強化。
捕獲。
山沿いの住宅地に、イノシシ二頭。
一頭が嗅覚強化。
専門業者と連携して捕獲。
河川敷にアライグマ三頭。
うち一頭が爪を一時的に大型化させるスキルを持っていた。
捕獲。
ひとつひとつは、大きな事件ではない。
スキルが厄介ではあっても、対応できないほどではなかった。
だから俺も、最初は気にしていなかった。
気づいたのは、四件目だった。
「……また近いな」
帰りの車内。
タブレットに表示された地図を眺めながら呟く。
「何が?」
隣に座っていた水瀬さんが覗き込んでくる。
「最近行った現場」
俺は画面を指で広げた。
「ここが一昨日のシカ」
「うん」
「こっちが昨日のイノシシ」
「うん」
「今日のアライグマがここ」
「……近いね」
「だよな」
完全に同じ場所ではない。
数キロ程度は離れている。
山沿いや河川敷。
動物が出ても不自然ではない地域だ。
「餌が多いとか?」
「かもしれない」
「暖かくなって、一斉に活動し始めただけとか」
「それもありそうだな」
俺は地図を見る。
それ以上、深く考える理由はなかった。
『周辺環境に共通性があります』
アナが言う。
『山林から市街地へ接続する経路が存在します。活動範囲が重複している可能性は十分にあります』
「だよな」
「ん?」
「いや、アナも普通だって」
「そっか」
水瀬さんは納得したように頷いた。
俺もタブレットを閉じる。
春になった。
動物が動き始めた。
ただ、それだけ。
そう思った。
翌朝。
会社へ着くと、鬼頭課長がホワイトボードの前に立っていた。
「おはようございます」
「おう。灰谷、来たか」
「はい」
「ちょうどいい。全員集まれ」
声をかけられ、営業二課の面々が集まる。
相沢先輩。
水瀬さん。
神代先輩。
そして、相沢先輩の足元からひょこひょことやってくるまめ助。
「新しい依頼ですか?」
俺が聞く。
「ああ」
鬼頭課長が一枚の資料をホワイトボードへ貼った。
「自治体案件だ」
現場は、都心から少し離れた山間部。
住宅と農地が混在する地域。
「最近、農作物への被害が急増している」
「イノシシですか?」
「それだけじゃない」
鬼頭課長が資料をめくる。
「確認されているのは、イノシシ」
一枚。
「サル」
もう一枚。
「カラス」
さらに一枚。
「それから小型の動物も複数」
「……同じ場所ですか?」
「ああ」
俺は眉をひそめた。
それだけなら、まだあり得る。
餌場が同じ。
山から下りてきた動物が、同じ畑を狙う。
珍しくはあっても、おかしいとまでは言えない。
「問題はここだ」
鬼頭課長が最後の報告書を机へ置いた。
「被害を確認した農家の証言だ」
神代先輩が読む。
「……カラスが鳴いたあと、サルとイノシシが一斉に逃げた?」
「別の目撃者も似た証言をしている」
鬼頭課長が言う。
「サルが農作物を運び、イノシシがその近くにいた。人が近づくとカラスが鳴き、全部の動物が同時に山へ逃げたそうだ」
「偶然じゃないんですか?」
水瀬さんが聞く。
「その可能性もある」
鬼頭課長は否定しない。
「だから確認に行く」
俺は資料を見る。
イノシシ。
サル。
カラス。
種類も、生態も違う動物たち。
なのに。
「……一緒に行動してる?」
思わず呟いた。
『現時点では判断不能です』
アナが答える。
『ただし、複数種が同一の合図に反応しているのであれば、通常とは異なる行動である可能性があります』
俺はもう一度、報告書を見る。
最近増えていたスキル持ち動物。
近い地域で続いていた出没。
そして。
複数種類の動物が、同じ場所で動いている。
偶然。
春だから。
――そう説明することは、まだできる。
できるのだが――。
「灰谷」
「はい」
「どうした」
「いや……」
俺は資料から目を離した。
「ちょっと、変だなと思って」
窓の外では、柔らかな春の日差しが差し込んでいる。
風に揺れる街路樹には、小さな新芽が開いていた。
冬は終わった。
眠っていたものが、動き始める季節。
そのときの俺はまだ知らなかった。
今年の春。
目を覚まそうとしていたものが――。
俺たちの知っている「野生動物」だけではないことを。




